第2話 難癖という名の宣戦布告
第2話 難癖という名の宣戦布告
婚姻まで、あと七日。
城の回廊を歩くと、いつもより足音が響いた。
磨かれた石床が、ひやりと冷たく、靴底から体温を奪っていく。リディアは立ち止まり、窓の外を見た。冬ではないのに、空は鉛色に沈んでいる。
「……来ましたか」
背後で、紙が擦れる音がした。
「隣国より、正式な抗議文です」
会計官ヘンリクの声は低く、感情がない。
だが、封蝋の赤は、やけに目に刺さった。
「読み上げて」
リディアは、椅子に腰を下ろした。
絹のドレスが、かすかに鳴る。
「第一。
エルツハイム公爵家は、過去に国境条約第七条を破り、
国境地帯において不正な開発を行った疑いがある」
「……“疑い”、ですか」
思わず、笑いが漏れそうになる。
「第二。
公爵令嬢リディアは、王妃としての教育が不十分であり、
隣国王室を侮辱する恐れがある」
ヘンリクが、一拍置いた。
「以上をもって、婚姻の延期を要求する、と」
「延期、ね」
窓の外で、風が木々を揺らす。
葉擦れの音が、ざわざわと不快だった。
「証拠は?」
「ありません」
即答だった。
「“近日中に提出予定”とだけ」
リディアは、目を閉じた。
胸の奥で、何かが静かに組み上がっていく。
「……予想通り」
その日の午後。
玉座の間は、騒然としていた。
「聞いたか? 隣国が怒っているらしいぞ」
「花嫁が問題だと」
「教育が足りない、だとさ」
ひそひそ声が、壁を這う。
香油の匂いと、人の不安が混じって、息苦しい。
「――静粛に」
王の声が響く。
「隣国より、新たな通達があった」
宰相が進み出る。
いつもより、口角が上がっているのが分かった。
「抗議は、正当なものです。
国境条約違反の疑いは重く、
事実確認のため――」
「軍を、集結させているそうですね」
リディアが、口を挟んだ。
一瞬、空気が凍る。
「……どこで、それを?」
「国境沿いの村から、報告が」
彼女は、淡々と言った。
「兵站車両。
騎馬隊。
野営の準備」
王の眉が、ぴくりと動く。
「……自衛のため、だそうです」
宰相が言った。
「こちらが侮辱した、と」
「侮辱?」
リディアは、静かに首を傾げた。
「私が?」
視線が集まる。
肌が、じり、と熱を帯びる。
「“教育が足りない”
“条約を破った家の娘”」
彼女は、一つずつ、言葉を並べた。
「それを理由に軍を動かすのなら」
喉が、ひりつく。
「それは、もう――」
父が、かすれた声で言った。
「戦争だ……」
その夜。
城下町は、奇妙にざわついていた。
「聞いたか? あの公爵令嬢のせいで――」
「嫁ぎ先で問題を起こしたんだって」
「女ひとり、ちゃんと育てられない家が……」
パン屋の前で、魚市場で、酒場の裏で。
言葉が、刃のように飛ぶ。
リディアは、フードを深く被り、通りを歩いた。
焼きたてのパンの匂いが、今日は重い。
人々の視線が、背に突き刺さる。
「……泣いてる暇は、ありませんね」
小さく、呟く。
屋敷に戻ると、随行員たちが集まっていた。
机の上には、地図と書類。
「始まりましたね」
医師イレーネが言う。
「ええ」
リディアは、椅子に腰を下ろした。
「難癖という名の、宣戦布告です」
ヘンリクが、帳簿を開く。
「隣国の軍の動き、資金の流れ、
すでに不自然な点が多い」
「よし」
リディアは、頷いた。
「では、予定通りに」
ローデリヒが、拳を握る。
「本当に……行かれるのですか」
「行きます」
迷いはなかった。
「彼らは、“私のせいで戦争が起きる”空気を作った」
一人一人の顔を見る。
「ならば――
私の行動で、その空気を壊します」
外で、遠く太鼓の音が鳴った。
軍の合図だ。
リディアは、窓の外を見た。
闇の向こうで、戦争が準備されている。
けれど、胸は静かだった。
――泣かない。
――叫ばない。
彼女はもう、
花嫁ではない。
これは、
戦争を始めた理由を、終わらせるための準備なのだから。
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