第1話 花嫁の条件

第1話 花嫁の条件


 


「――以上が、隣国ヴァルディア王国より提示された婚姻条件です」


宰相の声は、やけに乾いていた。

玉座の間に漂うのは、古い石と香油が混じった、鼻の奥に残る匂い。リディアは、膝の上で指を重ねたまま、その一語一語を聞いていた。


「持参金は、金貨三万枚」


ざわり、と空気が揺れる。

誰かが小さく息を呑む音がした。


「……三万、ですって?」


公爵夫人――母の声が、震えた。

リディアは、そっと母の横顔を見る。白粉の下で、頬がわずかに引きつっていた。


「加えて、公爵家より技術者、職人、会計官、医師を含む随行員二十名の同行」


「それは……」


父が言葉を探すように、唇を開いて閉じた。

革手袋の指先が、ぎゅっと握られる。


「花嫁行列としては、異例ですな」


宰相は、薄く笑った。


「友好とは、互いを深く知ること。隣国は、公爵家の“叡智”に敬意を払っているのです」


敬意。

その言葉が、リディアの耳には、刃物のように響いた。


「……まだ、ございます」


宰相が一拍置く。

暖炉の火が、ぱち、と弾けた。


「国境地帯における、一時的な共同管理」


「共同……管理?」


王が、低く問い返した。


「はい。婚姻成立から五年間、国境沿い三領を、両国で共同運営するとのこと」


沈黙。

空気が、冷える。


「それは……領土の一部譲渡に等しい」


父の声は、かすれていた。


「いいえ」


宰相は即座に否定する。


「“一時的”です。和平の象徴としては、むしろ……」


「――おかしい」


気づけば、リディアは口を開いていた。

自分でも驚くほど、声は落ち着いている。


「おかしいですわ」


一斉に視線が集まる。

絹のドレスが、かすかに擦れる音が、やけに大きく聞こえた。


「花嫁に求める条件ではありません」


「リディア」


父が小さく制する。


「いいえ、お父様」


リディアは、背筋を伸ばした。

心臓は速く打っているのに、頭は冴えていた。


「持参金が過剰です。

随行員は実務者ばかり。

国境の共同管理――」


一つ一つ、言葉を置く。


「それは、婚姻ではなく」


喉の奥が、ひやりとする。

それでも、目を逸らさなかった。


「侵略の準備です」


ざわっ、と玉座の間が騒めいた。


「なんと無礼な!」


誰かが声を荒げる。


「公爵令嬢、言葉を慎みなさい」


だが王は、手を上げた。


「続けよ」


リディアは、王を見据えた。


「もし、私が花嫁として失格だと難癖をつけられたら」


喉が、少し乾く。


「もし、婚姻の過程で“条約違反”をでっちあげられたら」


宰相の目が、細くなる。


「彼らは、こう言うでしょう。

『我々は侮辱された。自衛のために軍を動かす』と」


母が、息を詰める音がした。


「……戦争の口実、ですわ」


自分の声が、遠く感じる。


「女一人を理由にすれば、

侵攻は“正義”になる」


沈黙が落ちる。

暖炉の火が、揺れた。


「それでも――」


王が、重く言った。


「和平のためには、必要な犠牲だ」


犠牲。

その言葉が、胸に沈む。


「リディア」


父が、苦しそうに言う。


「すまない……」


リディアは、父を見た。

強い人だと思っていた背中が、ひどく小さく見えた。


「……分かっています」


不思議と、涙は出なかった。


「私が、選ばれた理由も」


息を吸う。

冷たい空気が、肺を満たす。


「嫁ぎます」


その一言で、場が凍りついた。


「だが」


リディアは、はっきりと言った。


「ただの花嫁としては、行きません」


宰相が、薄く笑う。


「ほう?」


「条件は、すべて受け入れます」


一同が息を呑む。


「持参金も、随行員も、国境の管理も」


王が、目を細める。


「……何を企んでいる」


リディアは、静かに答えた。


「企んでなど、いません」


ただ、微笑んだ。


「彼らが用意した口実を、

使えなくするだけです」


玉座の間に、言葉が落ちる。


「戦争は、感情で始まります」


彼女は続けた。


「でも――

終わらせるのは、条件です」


王は、しばらく黙っていた。

やがて、低く言った。


「……花嫁の条件は、受諾する」


父が、リディアを見る。

何か言いたそうに、唇を震わせている。


リディアは、小さく頷いた。


花嫁の条件は、揃った。

だがそれは、檻ではない。


これは――

戦争を縛るための契約なのだから。


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