プロローグ
プロローグ
隣国に嫁ぐ公爵令嬢、侵略の口実を逆手に取る
「――リディア・フォン・エルツハイム。
そなたを、隣国ヴァルディア王国第二王子の妃として送り出す」
玉座の間は、やけに冷えていた。
石床から立ち上る冷気が、薄い絹靴を通して足裏にまとわりつく。冬でもないのに、指先がかすかに痺れた。
「……それが、和平条件、なのですね」
自分の声が、思ったよりも澄んで響いたことに、少しだけ驚く。
王は頷いた。頷き方だけは、いつも通り威厳に満ちている。
「隣国は譲歩を求めている。そなたの家柄、血筋、教養……すべてが必要だ」
必要。
その言葉が、舌の上でひどく苦く残った。
「持参金は、金貨三万枚。加えて、国境管理権の一部を共同で――」
「お待ちください」
父――エルツハイム公爵が、一歩前に出た。
革靴が石床を踏む音が、やけに大きく響く。
「それは、婚姻条件としては過剰です。まるで――」
「侵略の準備だ、と?」
宰相が、薄く笑って言葉を継いだ。
香油の匂いが鼻を刺す。甘すぎて、喉がむせそうになる。
「公爵、言葉には気をつけていただきたい。あくまで“友好の証”ですよ」
――友好。
その単語を聞いた瞬間、リディアの背中を、冷たい汗がすうっと伝った。
「……陛下」
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
「一つ、よろしいでしょうか」
王が目を細める。
「申せ」
「なぜ、急なのでしょう」
その場の空気が、一瞬、止まった。
暖炉の薪が、ぱち、と音を立てて爆ぜる。焦げた木の匂いが広がる。
「和平交渉は、三年続いていました。
それが突然、“今月中に婚姻を”と。
あまりにも……急すぎます」
宰相が肩をすくめる。
「国際情勢は常に流動的で――」
「では、なぜ」
リディアは一歩、前に出た。
絹のドレスが擦れる音が、やけに耳につく。
「なぜ、私の随行員に
会計官、土木技師、医師、商人――
これほど多くの“実務者”を求めるのですか?」
沈黙。
誰かが、喉を鳴らす音がした。
「普通の花嫁行列には……不釣り合いですわ」
父が、息を呑むのが分かった。
だがリディアは、目を逸らさなかった。
宰相の笑みが、わずかに歪む。
「……公爵令嬢は、聡い」
「ええ。ですから、分かってしまうのです」
心臓の音が、耳の奥で大きくなる。
けれど恐怖よりも、奇妙な静けさがあった。
「これは、婚姻ではない」
玉座の間に、言葉が落ちる。
「これは――
戦争の口実を作るための儀式です」
「リディア!」
父の声が、震えた。
王は、しばらく黙っていた。
やがて、低く言った。
「……では、そなたはどうするつもりだ」
リディアは、胸の奥で息を吸い込んだ。
冷たい空気が肺に満ちる。
不思議と、恐れはなかった。
「嫁ぎます」
一同が、息を呑む。
「そして――」
唇に、わずかに笑みを浮かべた。
「その口実を、
二度と使えなくして差し上げます」
王が、目を見開いた。
「戦争は、叫ぶ者が始めます」
リディアは静かに続ける。
「でも――
終わらせるのは、
書かれた文字を読む者です」
暖炉の火が、揺れた。
その赤が、まるで未来の炎のように見えたが――
リディアは、もう目を逸らさなかった。
花嫁は、泣かない。
花嫁は、燃えない。
彼女はただ、
戦争を――
折り畳みに行くのだから。
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