難題。

 彼の秋田が名付けた美しき姫の噂は、一種の流行病の様に京の都へ広がっていった。最初は商いに久しい程に栄えたという老人を羨む宮廷官僚達の妬み混じりの嘲笑だった。実際、讃岐は未だに商いを行っているが、噂は人の喉と耳の間を行き来しているだけで、勝手に尾鰭が付き、肥大する物である。


「俺の聴いた話では、讃岐殿の屋敷には百に及ぶ黄金の壺が有るらしいな。」

「ならば、赫奕姫の身に纏う衣は、金糸銀糸で紡がれたのであろうな。」

「否。商人達の話によれば、姫が髪を梳く櫛すら翡翠で作られているとか。」


 貴族達の酒席は、いつしか讃岐の屋敷に棲む『黄金の姫』の虚像作りへと傾いていった。其れを聞いた若人達は好奇心に目を輝かせ、赫奕姫の真の姿を此の目で確かめたいと願うのだ。


「姫の居に定められる事が叶えば、父上の機嫌も良くなろう。」

「家を永らえさせる事も出来るやも知れぬな。」


 若人達は杯を交わしながら、赫奕姫との未来を夢想する。 勘違いに酔った者達は、整えられた道を我先にと突き進む。だが、姫を始めとする屋敷の者達は、姿すら見せず、門すら開く事は無かった。

 やがて、若人の誰かが姫を射止めたのではないかと焦った名門の末子達が次々と押し寄せ、屋敷の門を叩くという異常事態と化していった。


 竹林に溢れ返る男達が奏でる笛の音、愛を囁く文の山、全ては奥殿の静寂に吸い込まれて消える。


「娘は俗世に馴染まぬ者。 男との契りなど求めておらぬのです。」

「讃岐殿!!此の頑迷固陋な態度は何事か!!」

「赫奕姫を此処に呼び、対面させよ!!」


 貴族達の怒声が木霊する中、讃岐は平然と茶を啜った。 其の瞳には、ただ静かな覚悟が宿っていた。そして長田も同じく平静を保ちながら、讃岐の背後を護る様に立っていた。


「皆様方。少しばかり御休み下さいませ。」

「う、うむ。頂くとしよう。」


 やがて騒ぎを聞きつけた木久代が、茶菓子を持って現れる。己が力量を悟った貴族達は次々と婚姻を諦め、竹林の側から去っていく。されど、尚も頑なに残留する五人は、他の者達とは一線を画していた。其の身に纏う気品と知性が只者ではない事を語っていた。


 其れも其の筈、五人は公達公卿の中でも選りすぐりの男達であった。石作皇子、車持皇子、右大臣阿部御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂。五人は他の男達の様な好奇心や家の為という俗な動機では動いてはいなかった。男としての矜持を賭け、内心では燃えに燃える戦意に滾っていた。


「讃岐殿。其方の娘を、正室に迎えたいとの仰せだ。拒む理由は有るまい?」


 使者の冷徹な声が、豪奢に改装された広間に響く。若かりし頃の讃岐であれば、身分差を前に平伏していたに違いない。

 だが今の讃岐には、姫を守り抜くという絶対的な自負心が在った。讃岐はゆっくりと首を横に振る。


「……婚姻は、娘の意思に委ねております。私の一存で決める事は叶いませぬ。」

「左様な。では、姫に問おう。何を示せば、其の門を開かれるのか。」


 御簾の奥。其処には人の熱気とは隔絶された、冬の月下の如き静謐が横たわっていた。赫奕姫は、自身の脳裏を掠める『月での記憶』から、編纂記録庫アーカイブを一人観ていた頃、取り分け印象に残った品物を羅列する。


 石作皇子には『仏の御石の鉢』。車持皇子には『蓬莱の玉の枝』。阿部御主人には『火鼠の皮衣』。大伴御行には『龍首の宝珠』。石上麻呂には『燕の産んだ子安貝』。


 其れは月の観測隊が記録した実在する特異の品々である。現在の文明段階や術理では、命を以ってしても入手は困難である。複製はおろか、探索すら無意味である事は、姫自身が最も理解していた。


「其れを持ち帰らば、契りを結んでくださるのだな。」

「……ええ。偽りなく其の品を我が前に示されるならば。」


 赫奕姫の声には、一片の慈悲も含まれていない。期限内に入手が不可能なのは自明であったが、此の騒乱を拒絶する為のが必要だったのだ。


 五人が其々の野望を胸に退散した頃、屋敷の奥で赫奕姫は独り、震えていた。 姫の脳裏には、冷徹な議会の声が、あたかも故障した記録装置の様に何度も何度も再放送リプレイされていた。


――姫様。。結構な事です。


 数多の月生人類が並ぶ円形議場。其処から見下ろす冷笑的な視線が、現在の赫奕姫を射抜く。


――其れがどれ程までに思い上がりであるか、思い知るでしょうな。姫単体では、月を治める事など出来ぬのです。


――何故、我々が蒼き星の人民を模倣するのかを御学びください。


 無機質な声の奔流が、赫奕姫の精神を侵食していく。


「……私は、の為だけの存在ではない。」


 赫奕姫は独り呟き、扇を持つ己の右手を見詰める。讃岐を父と呼び、木久代を母と慕い、長田を小父として信頼を寄せた日々。偽りは無い筈だった。だが、自身に流れる血液の純度が、そして脳裏に響く議会の声が、、真実を突き続けるのだった。

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