命名。

 三月の月日が流れる頃には、少女は明るい月の如く朗らかで可憐な淑女へと成長していた。髪は黒曜石の様に艷やかで、肌は陽光を吸い込む様に白い。長いまつ毛の奥に在る大きな瑠璃色の瞳は、見る者全ての心を奪い、其の美しさを記憶へと刻み込む。


「蛍殿。今宵は月も隠されている暗夜故、屋敷に居られる方が良いでしょう。」

「あら。長田の小父様。私、こんな夜も好きなのですよ。」

「御身を大事になさいませ。讃岐殿も心配しますよ。」

「ふふふ。父様は泰然自若とした御方です。」


 屋敷の庭先にて、幼名を蛍と付けられた少女が咲き乱れる花々を愛でていた。蛍の三人目の親代わりと成ったのは、讃岐の知己であり、此の地に根差した有力者の一人である長田であった。

 長田もまた自身の娘の如く、蛍を溺愛していた。だが同時に懸念も秘めていた。神仏を連想させる際立つ出で立ちというのは、必ず何らかの災厄を招き寄せる。自身の出来る事とは何なのか。其れを日々考え続けていた。


「蛍殿。髪上げも近付いておられるのです。門出を迎える前に、寝込む様な事だけは避けられよ。」

「本当に長田の小父様は、花の周りを囲む雪の様に過保護なのですね。」


 蛍の声色から無邪気さが消えて、見た目相応の落ち着き、いや無慈悲さが混じり始めた事を、長田は敏感に感じ取っていた。

 ……其処まで考えた上で、其れ以上の思考は止めた。


「では。私は此れにて。」


 長田は恭しく礼をすると、蛍の前から退散した。


「……愚直な御方。」


 残された蛍の口から漏れた呟きは夜に溶けていった。


 そして少女が成人を迎える『髪上げ』の日が訪れた。蛍の長い髪を、木久代と侍女達が結い上げていく。其れは、証明であった。

 少女が確かに其処に存在し、此の地で人としての階段を登り切ったという、残酷なまでの完成の宣言だったのだ。


 此の日、讃岐は京の三室戸より齋部秋田を招来した。秋田は名高き文官として其の才を知らしめ、人の本質を言葉へと写し取る事において右に出る者は居ない。


「秋田殿。我が娘に、相応しき名を賜りたい。」

「讃岐殿。自分は御上に仕え、数多の貴人の名を選んできた身……しっかし、此の様な緊張は初めてですわ。」


 御簾の奥に控える蛍の気配を感じ取り、秋田は冷や汗を拭った。其処に在るのは単なる美姫ではないと自身の経験が言うのだ。


「……此れは、人の世に留めておくべき輝きではないやろな。竹の如くしなやかな基軸を持った強き娘や。此の地を、いや天下を赫々と照らす光……」


 秋田は何かを感じ取る様な表情で紙へと一心すると、渾身の力を込めて筆を走らせた。墨の香りが室内に満ちていく。


 『弱竹の赫奕姫』。耀きを其の身に宿し、周囲を照らし出す姫。秋田の授けた名は、少女が嘗て竹の中で光り輝いていた事。此の星に由来する存在ではない事を言い当てていた。


 髪上げの祝う宴は三日三晩続いた。歌舞音曲が絶える事なく響き渡り、山里の夜は昼の如く明るく保たれた。舞い手や奏者達が、其の技を競い、集落の民から遠方の有力者に至るまでの人々は讃岐の振る舞う酒食に酔いしれた。


 しかし、宴の喧騒が最高潮に達した三日目の夜、赫奕姫はふと、舞の旋律を遮る異質な音に眉を潜めた。


「……?」


 其れは華やかな横笛の音でも、人々の笑い声でもなかった。 脳裏の深奥を直接揺さぶる硬質で冷徹な振動。


「蛍、顔の色が……」

「母様、何でもございません。少し、風に当たりたくなっただけです。」


 心配そうに覗き込む木久代の手を、赫奕姫は無意識に握り返した。其の掌は、三日前の彼女よりも微かに冷えていた。


「……誰かが、私を呼んでいた気がする。」


 赫奕姫は、遠く、暗雲に隠れた空の彼方を見詰めた。 祝宴の光が届かぬ天空の先から、逃れ得ぬ運命の視線が、確実に赫奕姫を捉え始めていた。やがて朏がゆっくりと雲間から、其の鋭い切先を見せるのだった。


 暫しの時が回り、夜風が火照った屋敷を完全に冷ます頃、赫奕姫の名と美貌の噂は、既に風に乗って京の都へと流れ始めていた。其れは、一時の幸福が終わりを告げ、血と欲望に塗れた争乱が幕を開ける合図でもあった。

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