第一幕7章「楽園から地上に降り立つ者」後編

上層観測室


 螺旋非常階段の最上部で、二人は足を止めた。


 目の前にあるのは、分厚い金属製の扉。

 かつては白く塗装されていたであろう表面は、長年の放置によって塗膜が剥がれ、赤茶けた錆がまだらに浮いている。

 扉の縁には、ひび割れた警告表示灯。点灯することなく、ただ沈黙していた。


 エリアスは一度、セラを振り返る。


「……ここから先は、僕も知らない。」


 セラは静かに頷いた。


「でも……行かなきゃいけない気がする。」


 エリアスは短く息を吸い、扉のハンドルに手をかけた。

 抵抗はほとんどなく、金属が擦れる低い音とともに、扉はゆっくりと開いていく。


 


 ——静寂。


 内部に広がっていたのは、思っていた以上に広い空間だった。


 左右の壁際には、用途の分からない機械群と机が規則正しく並んでいる。

 だが、どれも電源は入っておらず、薄く積もった埃が長い空白を物語っていた。


 部屋の奥。

 壁一面を覆うように設置された無数の小型モニター。

 かつてはここに、箱庭全域の映像が映し出されていたのだろう。

 しかし今は、すべてが黒く沈黙している。


 その手前に、制御盤と椅子。

 椅子の背もたれには、誰も座らなくなってから積もった埃の層が残っていた。


「……誰も、いない。」


 セラの声が、空間に吸い込まれるように消えた。


 エリアスはゆっくりと室内に足を踏み入れる。

 足音が、やけに大きく響いた。


(停止している……完全に。)


 制御盤に触れてみるが、反応はない。

 電源系統そのものが切り離されている。


「監視カメラも……動いていない。」


 セラはモニター群を見上げていた。

 そこに映るはずだった“日常”が、最初から存在しなかったかのように。


 そのとき、エリアスの視線が、壁際の机に留まった。


 引き出しが、半開きになっている。


「……セラ、少し待って。」


 彼は慎重に引き出しを開けた。


 中にあったのは、紙媒体の資料だった。

 古いが、保存状態は良い。


 ページをめくった瞬間、エリアスの表情が変わる。


「……これは……」


 資料の表紙に記されていた文字。


 ――※社外秘熾天使の輪廻計画第二フェーズ・プロジェクトセラモデル


 セラは一歩近づき、文字を見つめた。


「……熾天使…?セラ、モデル……?」


 エリアスは答えず、資料を読み進める。

 構築工程、検証フェーズ、観測期間、そして——


 《プロジェクト完了予定日》


 その日付を見た瞬間、彼の脳内で、制御室で見た動力停止ログが重なった。


(……一致している。)


 研究区画。

 観測室。

 輸送動線。


 そして居住区の縮退。


 すべてが、このプロジェクト完了を境に、段階的に切り捨てられている。


「……そういうことか。」


 エリアスは、低く呟いた。


 セラが彼を見上げる。


「エリアス……?」


 彼は資料を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。


「この施設は……“実験場”だった。

 君を観測し、記録し、再現可能な“モデル”を作るための。」


「再現可能な、モデル…?何のために、そんなことを……?」


「詳細はわからないが……。一つ、言えることがある。」


「……このプロジェクトは、過去のものだということだ。」


 セラには、プロジェクトの内容は理解できなかった。

 だが、胸の奥に、何かが静かに落ちていく感覚があった。


「……だから、人が減って……動かなくなって……」


「……ああ。」


 エリアスは観測室を見渡す。


「監視は、もうない。

 ここは……役割を終えた施設だ。」


 声には怒りも、驚きもなかった。

 ただ、事実を受け止めた静けさだけがあった。


 セラはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「……じゃあ、私たちは……」


「閉じ込められていたわけじゃない。」


 エリアスは、はっきりと答えた。


「忘れ去られていただけだ。」


 その言葉に、セラは目を伏せる。

 だが、不思議と恐怖はなかった。


 むしろ——


「……なら。」


 彼女は顔を上げた。


「出られる、ということよね。」


 エリアスは、わずかに微笑んだ。


「ああ。」


 二人は、静まり返った観測室に並んで立っていた。


 そしてここで初めて、

 彼らは確信した。


 ——この世界には、もう二人を縛る“視線”は存在しない。


 残されているのは、

 選ぶ自由だけだった。




「……ねぇ、エリアス。」


「なんだい。」


「私には、難しいことはよくわからないけど……。きっと、私のモデルを作ろうとしたのには、意味があると思うの。」


「知りたいの。どうしてこんな研究が行われたのか。」


「……ああ。一緒に行こう。そして、確かめよう。外の世界で何が起きているのかを。」


二人は、新たな決意を胸に観測室を後にした。

それは、誰かに与えられた役割でも、用意された答えでもない。

ただ、自分たちで選んだ――

この世界の外へ踏み出す一歩だった。



――――――――――――――――――――――――



居住区・出口連絡通路


 居住区の奥、かつて人の往来を想定して造られた連絡通路は、

 いまや静まり返った廃道のようだった。


 壁面には細かなひび割れが走り、天井の照明はところどころ砕け、

 切れたまま放置された電力線が、黒い影となって垂れ下がっている。

 床には薄く埃が積もり、誰の足跡も残っていない。


 セラは、無意識のうちに一歩ずつ確かめるように歩いていた。


「……不思議ね。」


 静かな声だった。


「ここ、昔はもっと……生きていた気がするの。」


 エリアスは頷いた。


「稼働していた頃の名残は、まだ残っている。

 けれど……もう、維持されていない。」


 二人の足音だけが、通路に淡く反響する。

 それは、誰にも聞かれることのない音だった。


 やがて、通路の先に扉が現れる。


 出口。


 厳重に封鎖され、複数のロックが施されているはずの扉は、

 なぜか完全には閉じられていなかった。


 隙間から差し込む、外の光。

 床には土埃と、小さな石。

 そして——壁を伝って伸びる、緑の蔓。


 自然が、すでにこの場所へ侵入している。


「……こんなに、簡単でいいのかしら。」


 セラの呟きに、エリアスは苦笑した。


「たぶん……誰も、もう来ないと思われていたんだろう。」


 彼は扉に手をかける。

 重い金属音がするかと思ったが、扉は驚くほど静かに開いた。





 外に出た瞬間、空気が変わった。


 湿り気を帯びた風。

 土と草の匂い。

 遠くで鳴く鳥の声。


 そこに広がっていたのは、人の気配のない山奥の景色だった。

 伸び放題の草木。

 舗装されていない地面。

 そして振り返れば——


 ドームとタワーを組み合わせたような巨大な構造物。


 外壁は色褪せ、ところどころに蔦が絡み、

 長い年月、放置されていたことを否応なく物語っている。


「……これが。」


 セラは小さく息を吸った。


「私たちがいた場所……。」


 エリアスは、静かにその背後に立つ。


「幻想を守るために造られた場所だ。

 そして……役割を終えた。」


 二人は、しばらく言葉を交わさず、ただその場に立っていた。


 ここには、監視もない。

 脚本もない。

 用意された幸福もない。


 あるのは、

 不確かで、厳しく、しかし確かに“現実”と呼べる世界だけ。


 セラは一歩、前へ踏み出した。

 土の感触が、靴底を通して伝わってくる。


「……行きましょう、エリアス。」


 振り返った彼女の表情には、もう迷いはなかった。


「過去でも、幻想でもなく……今を、生きるために。」


 エリアスは頷き、彼女の隣に並ぶ。


「……ああ。

 ここからが、本当の始まりだ。」


 二人は並んで歩き出す。


 造られた世界を背に、

 現実という名の大地を踏み締めながら。


 ——夢は終わった。

 そして、物語はここから続いていく。

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「熾天使の輪廻」 @yuk_124896

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