第一幕7章「楽園から地上に降り立つ者」中編

居住区・リビング


 扉が静かに閉まる音がして、エリアスはリビングに戻ってきた。


 室内はいつもと変わらないはずだった。

 整えられた家具、柔らかな照明、穏やかな空気。

 だが、その中心に立つセラの背中を見た瞬間、胸の奥に小さな引っかかりを覚える。


 彼女は窓際に立ち、外を見つめていた。


「……エリアス。」


 振り返ったセラの表情は、穏やかでありながら、どこか考え込むような影を帯びている。


「外に、出てたのかい。」


「ええ。少しだけ……気になって。」


 セラは窓の向こう、居住区の街並みに視線を戻した。


 陽光は相変わらず柔らかく、街は整然としている。

 だが、歩く人影はまばらで、動きもどこか単調だった。


「ねぇ……ここ、少し変わった気がしない?」


 エリアスは即答しなかった。

 セラの言葉を待つように、静かに頷く。


「いつだったか……もう、はっきり覚えていないけど……」


 セラは言葉を探すように、指先を軽く握った。


「あのとき、公園で会った女の子の笑顔。

 噴水の水しぶき。

 どれも、本物みたいで……すごく綺麗だったの。」


 声は静かだったが、確かな実感がこもっている。


「でも、今は……同じ場所なのに、どこか違う。

 人たちも、景色も……決まった形をなぞっているみたいで。」


 エリアスの脳裏に、制御室で見たエネルギーマップが浮かぶ。

 下層居住区――部分的稼働。


(……まさか。)


 彼は何も言わず、セラの言葉を待った。


「最初はね、私が変わったからだと思ったの。

感じ方が変わったから、そう見えるんだって。」


 セラは小さく首を振る。


「でも……それだけじゃない気がするの。

 もしかしたら……変わったのは、私だけじゃない。」


 その言葉は、静かだったが、芯を持っていた。


 エリアスはゆっくりと息を吐く。


 制御室で確認した動力停止の時刻。

 研究区画、観測室――そして居住区の縮退。


 一致している。


(偶然とは思えない……。)


 だが、その先の思考には、まだ踏み込めない。


「……セラ。」


 彼は彼女の名を、確かめるように呼んだ。


「君が感じている違和感は……たぶん、正しい。」


 セラがこちらを見る。

 その瞳には、不安よりも、知ろうとする意志が宿っていた。


「ねえ、エリアス。」


 セラは一歩、近づいた。


「あなたのことだから……もう、何かに気づいているんでしょう?」


 責める調子ではなかった。

 ただ、信頼に基づいた問いかけ。


「ここで、一体何があったの?

どうして、こんなことが起きているの?」


 彼女は一度、言葉を切り、続ける。


「もし……私が深く関わっているのなら……

 私は、それを知らなきゃいけない気がするの。」


 沈黙が落ちた。


 エリアスは視線を伏せ、短く考え込む。

 監視の有無は、まだ確定していない。

 だが――ここで立ち止まる理由も、もうなかった。


「……危険かもしれない。」


 彼は正直に言った。


「それでも?」


 セラは迷わず頷く。


「ええ。」


 その一言に、逃げはなかった。


 エリアスは小さく微笑み、覚悟を決めたように言う。


「……わかった。

 確かめに行こう。」


 彼の視線が、天井の向こう――上層へ向かう。


「この施設で、何が起きていたのか。

 君と一緒に。」


 二人は並んで立ち上がった。


 まだ“監視がない”とは言えない。

 それでも、真実へ向かう歩みは、もう止まらなかった。


 静まり返った居住区の奥で、

 誰にも気づかれぬまま、

 二人は上層観測室へ向かう決意を固めていた。



――――――――――――――――――――――――



中層連絡通路


 中層AI制御室を離れた先、居住区とは逆方向に延びる連絡通路は、空気の質そのものが異なっていた。


 足を踏み入れた瞬間、セラは無意識に歩調を落とす。

 白を基調とした制御室とは違い、ここでは壁面の色がくすみ、照明も均一ではない。点灯しているもの、半ば明滅しているもの、そして完全に沈黙しているものが、無秩序に並んでいた。


 床には薄く埃が積もり、誰かが定期的に行き来している形跡はない。

 天井を走る電力線の一部は被膜が裂け、固定金具も緩んだまま放置されている。


「……ここ、通路としては生きてるはずよね」


 セラが、確かめるように呟いた。


 エリアスは答えず、視線だけを周囲に走らせる。

 彼の表情は冷静だが、その沈黙は“異常がないから”ではなかった。


(設計上は、定期保守が入る区画だ。

 非常時の導線として、切り捨てられる場所じゃない……)


 彼は歩きながら、無意識に壁面の番号標識を確認していた。

 塗装が剥げ、刻印が読みづらくなっている。


 セラもまた、言葉を失っていた。

 居住区や制御室で感じていた違和感とは、質が違う。


 そこにあるのは“作為的な整然さ”ではなく、

 長く、確実に放置された時間の痕跡だった。


「……ねえ、エリアス」


 彼女は足を止め、割れた照明カバーを見上げながら言った。


「ここ、最初からこうだったわけじゃないわよね」


 問いではあるが、否定の余地を残していない声だった。


 エリアスは一瞬だけ言葉を探し、やがて静かに答える。


「……少なくとも、設計思想からは外れている」


 それ以上は言わなかった。

 だが、その一言で十分だった。


 連絡通路の突き当たりに、非常用の隔壁扉が現れる。

 開閉表示灯は消えたまま。だが、物理ロックは解除されていた。


 軋む音を立てて扉を押し開けた先に――

 螺旋非常階段が姿を現した。


 空気が、さらに冷たくなる。


 金属製の手すりは赤錆に覆われ、ところどころ腐食している。

 踏板には擦れた跡すらなく、誰も使っていない時間がそのまま凝固していた。


 上を見上げると、階段は暗闇に溶け込みながら、果てしなく続いている。


「……使われてない」


 セラが、ほとんど確信に近い声で言った。


 エリアスは階段に足をかけ、わずかに体重を乗せる。

 金属が低く鳴り、鈍い振動が伝わってきた。


(……居住区と制御室だけが、生かされている)


 その考えが、胸の奥に浮かびかける。

 だが、彼はそれを言葉にしなかった。


 まだ、“確定”させるには材料が足りない。


 セラは彼の背中を見つめ、静かに言う。


「……それでも、行くのよね」


 問いではない。


 エリアスは振り返らず、短く答えた。


「ああ」


 そして一拍置いて、付け加える。


「ここまで来て、戻る理由もない」


 二人は並んで、螺旋階段を上り始めた。


 足音だけが、空洞のような空間に反響する。

 その音は、まるで長い眠りを破る合図のようだった。


 上層観測室――

 まだ誰も知らない“空白”が、そこに待っている。

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