第一幕7章「楽園から地上に降り立つ者」前編

 セラが目を覚ますと、家の中には静かな調理音が満ちていた。

 パンを焼く香ばしい匂い、温かな湯気。

 リビングに足を踏み入れた瞬間、エリアスが振り向いた。


「やあ、おはよう。今日は僕のほうが早かったみたいだね。」


 その微笑みは、以前とはまるで別人のように柔らかかった。

 胸の奥がふっと温かくなる。

 ただの挨拶なのに――どうしてこんなにも幸福を感じるのだろう。


「ふふ……そうみたいね。」


 ごく普通のやり取り。

 なのに、いつもとは違う朝。

 空気そのものが、静かに灯りを宿しているようだった。


 二人は向かい合い、ゆっくりと朝食をとった。

 焼きたてのパンを割る音、カップを置く小さな響き。

 互いに笑い合いながら食卓を囲む時間は、ごく自然で、そしてどこまでも穏やかだった。


 


 食卓を片付け終えた頃、セラは椅子に腰かけたまま一度深呼吸をした。

 昨夜見た夢の余韻が、まだ胸の奥に淡く残っている。


「ねえ、エリアス……あのね、夢を見たの。」


 彼は動きを止め、真剣な眼差しでこちらを見る。


「……聞かせてほしい。どんな夢だったのか。」


 セラは言葉を選びながら話し始めた。


「生前の記憶にも、蘇ってからの記憶にもない光景だったの。

 古びた住宅、過酷な仕事をして疲れ切った人たち……誰も幸せそうじゃなかった。

 それから、都会の街……技術はとても進んでいるのに、みんな無表情で、まるで心がないみたいで。」


 エリアスの瞳が、わずかに揺れた。


「それに……最後の場所には、大きな大聖堂があったの。

 女の人の石像があって……すごく、私に似ていた。」


 胸に手を当てる。

 あの像の冷たい光、男の祈りの姿勢が、どうしても消えてくれなかった。


「そして……石像の前で、誰かが祈っていたの。

 黒い服を着た、白い髪の男の人……どうしてなのかわからないけれど……その姿が、忘れられない。」


 エリアスは黙って聞いていた。

 表情は穏やかだが、その奥には読みきれないほど深い思考が沈んでいる。


(……驚いた、断片的とは言え"視えて"いる。

 AIとの統合がここまで作用しているのか……?

 それに、大聖堂の男……おそらく“奴”だろう。

 どうして、あのような――)


「……エリアス? どうしたの……?」


 セラがそっと尋ねると、エリアスは微かな笑みを浮かべた。


「……ああ、ごめん。何でもないよ。続きを聞かせて。」


 その声は優しいが、どこか震えていた。


「エリアス……私ね、この世界のことを知りたい。

 あの夢の景色が何なのか……あの男の人のことも。

 私に似た石像も……全部、確かめたい。」


 彼女の瞳には迷いがなかった。


「この世界の外を、見たいの。

 私は……“真実”を知りたい。」


 エリアスはゆっくりと息を吸い、セラをまっすぐ見つめた。


「……それが、“君の”意思なんだね。」


 静かな声。

 けれど、どこまでも温かく、どこまでも真摯だった。


 そして――彼は微笑んだ。


「わかった。一緒にここを出よう。」


――僕にも、気になることがあるしね…


 その笑みは、もう過去の幻影に囚われてはいなかった。

 現実を受け入れ、セラという“個”の存在と向き合う覚悟の表情だった。


 二人は静かに立ち上がる。


 この"造られた世界"を出るために。

 そして、本当の物語へ歩き出すために。



――――――――――――――――――――――



 白い光に満ちた空間。


 床も壁も、天井も、無機質な白で統一されている。

 中央に並ぶ制御卓のモニターには、明るい緑色の波形が規則正しく流れ、

 数値とステータスが静かに更新され続けていた。

 中層AI制御室。セラの思考、記憶、生命を司る、巨大な演算機構であり、この施設の心臓部。

 それは今も変わらず稼働し続けている。


(脱出する、とは言ったものの、"奴"が策を講じていないとは思えない。

……用心するに越したことはないな。)


 エリアスは端末に近づき、操作パネルに指を走らせた。

 認証を幾重にも迂回し、内部アクセス権を取得する。


 ――監視があるなら、まずここに痕跡が残る。


 視線を走らせながら、ログを確認する。

 外部接続、リアルタイム監視、有人オペレーション。


 ……反応はない。


 数秒、沈黙。

 エリアスは眉をひそめ、次の階層へアクセスした。


 《箱庭統合動力管理》


 施設全体のエネルギーマップが立体投影される。

 ドーム状の構造、その内部に走る動力ライン。


 エリアスは思わず息を止めた。


 下層居住区――部分的稼働。

 中層AI制御室――稼働。


 それ以外が、沈黙している。


 研究室区画、観測室、外壁補助系、輸送動線。

 すべてが「待機」ではなく、「停止」。


 計画的に落とされた痕跡だった。


 ――馬鹿な、あり得ない。


 エリアスは拡大表示を行い、ログを遡る。

 停止時刻はすべて揃っている。

 偶発的な事故ではない。


 ……だが、なぜ。


 監視があるなら、

 この状態を放置するのは不自然だ。


 いや、むしろ……


 誰も“見ていない”ようにすら思える。


 喉の奥に、言葉にならない違和感が残る。


「……これは……」


 思考が、ある方向へ傾きかける。

 だが、エリアスはそこで踏みとどまった。


 確信には、まだ足りない。


 彼は端末を閉じ、深く息を吸う。

 そして、居住区へと続く扉に手をかけた。


 セラが待っている。


 その背後で、

 静かに流れ続ける緑の波形だけが、

 この場所が“生きている”ことを示していた。


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