第一幕6章「夢、再び」

 静寂。

 そして、かすかな風の音。


 セラは、どこにも属さない場所に立っていた。

 足元には淡い光を帯びた渦が広がり、そこからのぼる微細な粒子が空間を漂っている。

重力の感覚は薄く、風もない。それでも自分は確かに“立って”いる。

 夢特有の、不確かな世界。


 空は青と黒の混じった深い群青で、その中に四角い“窓”のような光景がいくつも浮かび上がっていた。


 ――これは……何……?


胸の奥で、何かが微かに揺れた。

それは思考ではなく、感情でもない。

ただ、ごく深いところに沈んでいた“気配”が、水面へ浮かび上がってくるような感覚。


言葉になる前のひらめきが、そっとセラを導いていく。

まるで誰かの手に触れられたかのように、次の光景が静かに開き始めた。

 


■ 第一の光景 ―「貧困の街」


 目の前の窓がふっと輝き、その中の映像が動き始める。


 崩れかけた集合住宅。

 ひび割れた壁、むき出しの鉄骨、強風に揺れる洗濯物。

 地面は土埃に覆われ、遠くでは黒煙が上がっていた。


 裸足の子どもが廃材の山を漁り、母親らしき女性が疲れ切った目で空を見上げている。

 工場から帰ってきた男たちは、重い足取りで影のように並び、言葉らしい言葉も交わさない。


 そのすべてが、痛みに満ちていた。


 ――なに、この……こんなの、知らない。


 自分の記憶には存在しない景色。

 けれど胸の奥が、見たことのない世界へ引き寄せられるように疼いた。


 男がふと振り返る。

 目が合った瞬間、映像がざらつき、ノイズと共に光が断ち切られた。


 


■ 第二の光景 ―「豊かさの影」


 次に展開した窓は、都会の中心部。


 摩天楼が連なり、電子サイネージが昼夜の境を失わせるほど輝きを放っている。

 空中を駆ける広告ホログラム、整然と通る自動運搬車、光沢のある舗装道路。


 だが――

 歩く人々の表情には何もなかった。


 決められた速度。

 決められた歩幅。

 決められた視線の角度。


 同じ服装、同じリズム、同じ無感情。


 ――どうして……誰も笑っていないの……?


 技術的には豊かで、物質的には満たされているはずの光景なのに。

 そこには温度がなかった。


 その瞬間。


 ――ザ……ッ。


 セラの隣に、透明な影が一瞬だけ“現れた”。


 ショートカットの髪。

 自分と同じ声の、無表情な自分。


(……気づいたの?)


 声はなく、意識に直接触れるような感覚だけが残る。


「……もしかして、この光景は――」


 言葉を紡ぎきる前に、影は音もなく消えた。


 同時に、第三の窓がゆっくりと開き始める。


 ■ 第三の光景 ―「大聖堂と男」


 闇がゆっくりと引き、重厚な石造りの空間が姿を現した。

 天井は高く、壁面の燭台に灯る蝋燭の炎が、静かに空気を揺らしている。

 広い聖堂の中央、真紅のカーペットの先に——


 女性の石像が、荘厳に佇んでいた。


 セラは息を呑む。

 どこか、自分に似ている。

 いや、“自分を模したようにさえ”見える。


 石像の前の、深く膝を着いている黒い外套を纏った男。

 静寂の中、微動だにしない祈りの姿勢。

 その祈りが何を意味するのか、どんな感情で捧げられているのか、セラには読み取ることができなかった。


 男は顔を伏せたまま、手を組み、長い時間その姿勢を崩さなかった。

 祈りの言葉は一切聞こえない。

 ただ、鉄のように重く冷たい静けさが、大聖堂を支配していた。


 突然の理解不能な光景に、セラはある種の不気味ささえ感じるが、なぜか目を離すことができない。


——どうして……怖いのに、目が離せない……


 やがて男は、ゆっくりと立ち上がる。

 黒外套の裾が重く揺れ――

 こちらへ振り返った。


 その顔が闇から浮かび上がった、その瞬間。


 「……ッ!」


 視界が強烈な光に飲み込まれ、すべてが途切れた。


 「――っ!」


 セラは勢いよく上体を起こした。


 浅い呼吸。

 額から伝う汗。

 胸の奥で脈打つ鼓動が、夢の残滓を掻き消そうとしている。


「……夢……?」


 いや、違う。

 あれは“夢”というにはあまりに鮮明で、あまりに重かった。


 自分の知らない世界。

 知らない祈り。


 そして――

 なぜか忘れようとしても忘れられない“謎の男”。


 セラは自分の胸に手を当てた。


 AIセラの声は、もう聞こえなかった。

 だが、あの夢の奥に残った“直感”だけは消えない。


 ――世界は……わたしの知らない“何か”で満ちている。


 その震えは、不安ではなかった。


 覚醒に近い“目覚め”の響きだった。


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