第一幕3章「夢ともう一人の私」中編
温かな空気と共に溶けてゆく矩形を見送り、セラはふっと息を吐いた。
波の音が静かに耳を撫で、砂浜にはもう彼女一人きり。足元に打ち寄せる波が白い泡を立て、やがて砂に吸い込まれて消えていく。
――まだ、終わっていない。
そんな感覚が、胸の奥に残っていた。
セラは緩やかに歩き出し、潮風に髪を揺らされながら海を見渡した。水平線は白い霧に溶け込み、空と海の境界が曖昧に霞んでいる。淡い光が水面を散らし、揺れる模様を砂浜へと映し出していた。
ふと、その水面の奥――。
波間の下に、かすかな光が揺らめいているのに気づく。
それは海中から射す逆光のように漂い、海の鼓動に合わせるように震えていた。
――海の中……何かが、光っている…?
じっと見つめると、それはただの反射ではなかった。海の底に、砂浜で見たものと同じ“矩形の物体”が漂っている。淡い光をまとい、揺らぎながら海中に沈んでいた。
――砂浜だけじゃない……海の中にも、記憶が眠っているのね。
胸の奥がざわめく。
それは恐れではなく、不思議な引力だった。
――確かめなくてはならない。
そんな思いに駆られ、足が自然と海へ向かっていた。
冷たい水が足首を包み、裾を濡らしていく。
波が優しく押し寄せ、やがて彼女の身体を受け入れるように引き寄せた。
「どうしてかしら……覗いてみたくなる。確かめなきゃいけない気がするの」
セラは呟き、ひとつ深く息を吸った。
次の瞬間、彼女は迷いなく海中へと身を沈めていった。
――――――――――――――――――――
海に体が沈み込んだ瞬間、冷たさも息苦しさもなかった。
ただ、柔らかな膜に包まれるように、水が全身をすり抜けていく。衣の裾や髪がゆらゆらと揺れるが、体は重さを失ったまま、砂浜と同じ呼吸で歩き続けられた。
やがて、揺らめく光が目に入る。
海中を漂う矩形の物体――淡い光を帯びた透明な板のようなそれが、セラの前にひとつ、ふわりと現れる。周囲に散らばる数多の矩形の群れから切り離され、まるで「ここを見て」と促すように。
光が走り、映像が浮かび上がった。
けれど、その輪郭は奇妙だった。
男女の姿が確かにあるのに、顔の部分だけが白黒のノイズに覆われ、判別できない。
声も、電波の届かないラジオのように断片的で、途切れ途切れに響いていた。
「――ん……ここで……」
「……そうだな。けれど――」
青年の肩が上下する。女性はそっと微笑むような仕草を見せる。二人は図書館の中庭のような場所で並んで腰掛け、互いに言葉を交わしている。
だが、細部は常に砂嵐のようなノイズに覆われ、表情も、声の抑揚も、どうしても掴めない。
――誰……? この人たちは……
セラは無意識に手を伸ばした。
だが、水の膜の向こうにある映像には触れられず、ただ掌に微かな熱のようなものが残った。
胸の奥がふっと温まる。理由はわからない。けれど、その温もりだけは確かに心に刻まれる。
映像は波のように揺らぎ、やがてふっと消える。
残されたのは、再び漂う無数の矩形と、静かな水の揺らぎだけ。
セラは小さく息を吐き、視線を上げた。
水面越しに、さらに深いところから別の光が揺らいでいるのが見える。
海底へ向かうほど、淡い光が泡のように浮かび上がっては消えていた。
――あの下に、まだ何かがある……?
理由はない。ただ、心の奥に小さなざわめきが生まれる。
好奇心に導かれるまま、セラは足を進め、海の深みへと身体を滑らせていった。
――――――――――――――――――――
海の底へ進むごとに、光は深さを増すように鮮やかになっていった。
表層で覆っていたノイズは消え、矩形の物体が映し出す映像は、今度はくっきりと輪郭を持って浮かび上がる。
一枚の矩形がふわりと現れた。
そこには、花壇に囲まれた噴水の前に立つ若い男女の姿。
男性が震える手で小さな箱を開き、差し出す。光を反射する指輪の輝き。
女性は驚きに目を見開き、次の瞬間、静かに涙を零しながら頷いた。
その頬を伝う涙は、喜びそのものの証のように映っていた。
――これは……私と、彼……?
セラは息を呑んだ。
自分の姿がそこにある。けれど、この記憶を彼女は持っていない。
知らないはずなのに――胸の奥から、強い懐かしさが込み上げてくる。
別の矩形が前へ滑り出る。
そこに映るのは、小さな礼拝堂。
純白の布が揺れ、木の香りの漂う空間。人々の祝福の拍手に包まれる中、二人は指輪を交換し、静かに誓いを交わす。
花束を抱えた彼女の笑顔は、陽だまりのように温かく、その隣で彼は力強く彼女の手を握りしめていた。
さらにもうひとつ。
次に現れた映像は、見覚えのある家の中。
窓辺に差し込む午後の光、整えられたテーブルに並ぶ湯気立つ料理。
彼女が台所で忙しなく動き、彼が椅子に座って微笑みながらそれを眺めている。
時折交わされる言葉は小さくても、そこには満ち足りた安らぎがあった。
手を取り合い、同じ時間を分かち合う――日常の一瞬が、何よりの幸福として映し出されていた。
――どうして……私は覚えていないのに……
どうして、こんなにも懐かしく、愛おしく感じるの……?
セラはそっと呟いた。
目の奥に、熱いものがじわりと滲む。
映像が消えても、胸に残る温もりは消えなかった。
セラは胸に手を当てた。
知らないはずの光景なのに、なぜか涙が込み上げそうになる。
映像が消えたあとも、心の奥に温もりが残り続ける。
疑問は答えに届かないまま、セラの身体はさらに深い方へと引き寄せられていった。
水は次第に暗さを増し、漂う矩形の数も減っていく。
そこに待つものが、より深い記憶であることを示すかのように。
――――――――――――――――――――
水の色が、青から藍へ、そして紺へと濃く沈んでいく。
光は遠ざかり、漂う矩形の数も目に見えて減っていった。
残されたものは、わずかな光を抱えた数片だけ。周囲は次第に音を失い、冷ややかな沈黙が辺りを満たしていく。
――静かね…。けれど、この静けさは……心を締めつける。
セラはゆっくりと進んでいった。髪が水に溶けるように漂い、手の動きに合わせて泡のような光の粒が散る。けれど、そこには水中の息苦しさも冷たさもなく、ただ夢のように滑らかに進めるだけだった。
やがて一枚の矩形が、ふわりとセラの前に現れる。
それは他のどれよりも重たく、鈍く輝いていた。
――映し出されたのは、夜の家。
灯りの落ちた部屋、窓の外には街灯の冷たい光。
そこで、二人の男女が向かい合っていた。
けれど、何を言っているのかは聞き取れない。
女は必死に言葉を投げかける。しかし、男は腕を組んで押し黙っている。
やがて、男は部屋を出ていき、女は暗がりの中取り残される。
セラは胸の奥に不安の影を覚えながらも、そこに何を見ているのか理解できなかった。
――私……? これは、なんなの……?
映像はぶつりと途切れた。
残ったのは、さらに深い闇と冷え切った静寂。
次に現れた矩形は、他と比べて異様なまでに鮮明だった。
そこに映っていたのは――街の夜景。
老朽化した歩道橋、ちらつく街灯、遠くで鳴る不安定な電源の唸り。
その橋の上を、一人の女性が歩いていた。
両腕には小さな子どもを抱えている。
歩道橋の下から、低く不吉な唸りが響いた瞬間――
「ッ……!」
崩れる。
鉄骨の軋む音、砕けるコンクリート。
次の瞬間、眩い閃光と爆音が夜を裂いた。
視界がぐらりと揺れ、景色が一気に崩れ落ちていく。
セラはその映像に呑み込まれ、足場を失ったような錯覚に陥った。
轟音、衝撃、赤く焼けた破片――そして、闇。
……何も見えない。
音も、色も、感覚も、すべてが途絶えた。
残ったのは、ただ冷たい虚無だけだった。
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