第一幕3章「夢ともう一人の私」後編
――闇。
事故の残響が遠ざかり、すべてが無音に包まれた。
上下も方向もない。漂っているのか、立っているのか、それすら曖昧な虚無の空間。
――ここは……どこ……?
歩くという感覚すら曖昧なまま、セラは闇を進む。
その奥に、かすかな光がひとすじ射していた。
最初は小さな点だったそれが、近づくにつれ広がり、やがて周囲を白に塗り替えていく。
黒が徐々に退き、代わりに乳白の光が海のように満ちていった。
気づけば、セラの足はしっかりと「地」に立っていた。
真っ白な世界。空も地面も境界を持たず、ただ白が広がるだけの空間。
その真ん中に――家があった。
それは、今セラが暮らしている家と同じ姿をしていた。
淡いカーテン、木目の扉、温もりを帯びた佇まい。
ただし、周囲には他に何もなく、家だけがぽつんと存在していた。
――これは、私と彼の……。この中に、"何が"がある気がする。
セラは足を踏み出した。
扉を開けると、懐かしいような香りが微かに漂ってきた。
奥の寝室。セラは半ば導かれるように進む。
寝室。ベッドの上に、誰かが眠っている。
近づいた瞬間、セラは足を止めた。
そこに横たわっているのは――自分。
まるで鏡に映したかのように、同じ姿をした女性が、静かに、深い眠りに沈んでいる。
瞼は閉ざされ、呼吸の気配さえも儚い。
セラは震える手を胸元で握りしめた。
言葉は浮かばない。ただ、胸の奥に押し寄せる確かな予感。
――この眠っている私は、もしかして……
確信ではない。ただ、流れてきた映像の数々が、その想像を裏づけるように心を揺らしていた。
懐かしさとも、恐れともつかぬ感情。しかし、嫌な気持ちはしなかった。
気づけばセラは、眠る彼女にそっと手を伸ばしていた。
指先が、その眠る自分の頬に触れた――その瞬間。
ひと筋の白い亀裂が、音もなく世界を裂いた。
光の糸が走り、壁も床も天井も、まるでガラス片のように細かく砕けていく。
「崩壊」というよりも、「解体」。一枚の設計図が、静かに破り捨てられるように。
セラの足元から空間が抜け落ちた。
支えを失った身体は宙に浮かび、無数の白い破片が周囲を漂いながら光の粒となって消えていく。
音はなかった。衝撃も、痛みもない。
ただ、すべてが静かにほどけていく――そんな感覚だけが残った。
最後に消える直前、眠る自分の姿が、確かにこちらへ微笑んだ"気がした"。
確かめる前に――世界は完全に崩れ落ちた。
……。
次の瞬間、セラは目を開けた。
そこは、見慣れた寝室。
窓から差し込む光が、朝の始まりを告げていた。
瞼の裏に残っていた光がすっと消え、視界がゆっくりと形を取り戻す。
セラは小さく息を吐きながら目を開けた。
窓の向こうから柔らかな朝日が差し込み、カーテンを透かして床に淡い模様を描いている。
天井を見つめたまま、セラはしばらく瞬きを繰り返した。
――いま、夢を見ていた気がする。
胸の奥に、波紋のような揺らぎが残っていた。
何を見ていたのか、どんな夢だったのか、掴もうとすると指の間から零れ落ちる砂のように形を失ってしまう。
「……夢、だったのかしら」
声に出してみても、答えは返ってこない。
ただ、どこか遠いところから呼ばれたような、冷たさと温もりが入り混じった感覚が、ほんのわずかに残っている。
セラは頭を振り、薄い眠気を振り払った。
気にしていても仕方がない――そう思い直し、シーツから身を起こす。
床に足をつけると、朝の空気がひやりと肌を撫で、現実の輪郭を取り戻していく。
台所に立ち、湯を沸かす。
コーヒー豆を挽く音が小さく響き、香ばしい香りが部屋に広がった。
窓から差し込む光と混じり合い、いつもの朝が形を整えていく。
セラは静かに微笑んだ。
違和感はまだ心の奥に小さく残っている。けれど、それを抱えたままでも、日常はこうして始まるのだ。
「おはようの準備をしなくちゃ」
そう呟きながら、彼女はカップを二つ並べた。
――やがて、この家の扉を開けてくる人を迎えるために。
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