第一幕3章「夢ともう一人の私」前編
「おやすみなさい、エリアス。」
セラは微笑み、寝室の扉を開ける。
扉を閉めると、寝室はやわらかな静けさに包まれた。
カーテン越しに月光が淡い影を床に描き、白い布地を透かして銀の縁取りを揺らしている。夜風が小さくレースを撫で、涼やかな気配を運んできた。
セラは衣服を解き、整えられた寝具の中へ身を沈める。布団の温もりがすぐに肌へ広がり、心地よい安堵を胸に満たしていく。枕は柔らかく、ほんのりと陽の光を思わせる香りが残っていた。
――今日も、幸せな一日だった。
朝の光、穏やかな食卓、公園で交わした小さな言葉たち。そのひとつひとつが胸に息づき、あたたかく心を灯している。
隣室からは、かすかな気配が伝わっていた。壁を隔てても、そこにエリアスがいることを知るだけで、心は静かに落ち着いていく。
深い呼吸をひとつ。目を閉じると、余計な音も光も遠のいていく。
胸の奥に広がるのは、不安の影ひとつないやさしい充足感だけだった。
セラは微笑を浮かべる。
その笑みのまま、意識はすとんと眠りへと落ちていった。
遠くで風が揺れる音がしたように思えたが、それもすぐに溶け、静寂だけが広がっていく。
体の重さがほどけ、輪郭が曖昧になる。
呼吸の感覚さえ薄れ、ただ、温かく柔らかな流れに抱かれているようだった。
――やがて意識が落ちる。
柔らかな布団の感触も、閉じた瞼の裏に差していた夜の気配も、いつの間にか消えていた。
――音が変わる。
静けさの底から、かすかなざわめきが聞こえてきた。
耳を澄ませると、それは水が打ち寄せては返す音。規則正しい、心地よい潮騒のリズム。
――光が差す。
最初は瞼の裏を染める淡い灰色。
やがてそれは明るくなり、柔らかな白に移りゆく。
目を開けると、そこは白く霞んだ空と、果てしなく続く砂浜。
――ここは、どこかしら。……わからない。けれど、不思議と怖くはない。
波が寄せ、引いていく。水面に光の粒が揺れ、目の前に広がるのは、現実では見たことのない、けれどどこか懐かしい海の景色だった。
胸の奥に、心を撫でるような静けさが広がる。
風は穏やかで、砂浜全体をやわらかく包むように吹き渡っている。
――静かね…とても落ち着く場所。でもなぜかしら。ここには何かがある気がする。
心の奥に、ほのかに温かいものを感じる。
セラは無自覚なそれを胸に、静かに歩みを進める。
歩き始めて幾ばくかが過ぎた後、その視界に、ふと揺らぎが現れた。
砂浜の上、淡い光を帯びた矩形の物体が、ゆっくりと浮かび上がる。
――これは、一体…?
最初は透明な板切れのように見えたが、次第にその内側に色と影が満ち、ひとつの情景を映し出していく。
――若い母親。腕の中で泣く幼い子ども。
母親は困ったように俯き、小さく呟いていた。
「……私、ちゃんとこの子の母親でいられているかしら。」
その傍らに、セラ自身の姿があった。
彼女は柔らかく笑い、静かな声で答えている。
「…完璧じゃなくても大丈夫。子どもは、愛情を受け取って育つの。
少しずつでいい。あなたと一緒に過ごす時間。それが、この子にとって、一番大切で、幸せなことなのよ。」
――これは……私?でも、どうして…
母親は驚いたように顔を上げ、それから頬を緩め、ぎゅっと子どもを抱きしめた。
その光景は温もりを残したまま、やがて砂に吸い込まれるように消えていった。
再び空気が揺れる。次の矩形が現れる。
そこに映し出されたのは、一人の青年だった。
彼は俯き、拳を握りしめていた。
「自分なんて……誰の役にも立てないんじゃないかって、怖いんです」
その隣に、またセラが立っていた。
今度も同じように微笑み、彼を正面から見つめている。
「人は、一人で強くなるんじゃないわ。
誰かと支え合うことで、本当の強さを持てるの。
だから……役に立てるかどうかじゃなく、誰かと共に歩むことを、大事にしてみて」
青年は目を見開き、ゆっくりと頷いた。
その眼差しに灯った光は、彼の迷いをほんの少し和らげているように見えた。
セラは夢の中で、その光景を見守っていた。
――もしかしてここは……私の記憶の世界…?
疑問が浮かぶより早く、映像は淡く滲み、波間に溶けていった。
砂浜には再び静寂が戻る。
けれど、胸の奥には確かに温かな余韻が残っていた。
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