第一幕2章「夢と謎の男」

扉を静かに閉めると、室内はもう闇に沈んでいた。カーテンの隙間から洩れる街灯の光が、細い帯となって床に伸びている。


 セラは既にベッドに身を横たえていた。規則正しい寝息が、静かな夜の空気に溶け込んでいる。

 エリアスはそっと衣服を脱ぎ、隣に身を沈めた。寝具に残された温もりが、彼の身体をやさしく包み込む。


 天井を見つめながら、彼は目を閉じる。

 ――今日も幸せな一日だった。そうだ、これでいい。完璧だ。これこそが、僕たちの幸せなんだ。きっと、そうに違いない。


 その言葉が心の中で繰り返されるたび、意識はふわりと浮き上がり、やがて重く沈んでいく。

 鼓動の音だけが遠くに響き、世界は次第に境界を失っていった。



――――――――――――――――



――暗闇。

 いや、暗闇と呼ぶにはあまりに白すぎた。乳白色の光が、果てのない虚空を淡く満たしている。


 エリアスは漂っていた。足も、地面もない。ただ、重力から解き放たれた身体が宙に浮かび、どこへも進めず、どこにも落ちない。呼吸はあるのか、声は届くのか、それすら判然としない。


 周囲には、無数の矩形が浮遊していた。透明な板のように見えるものもあれば、黒い鏡のように光を吸い込むものもある。どれも沈黙を守り、何も映さず、ただそこに在るだけ。遠近の感覚はなく、見渡す限り無数の矩形が海のように広がっていた。


――ここは……どこだ……?


 あるとき、群れの中からひとつの矩形が、ふわりと前に現れた。ほかと同じ無音のまま、しかし抗いがたい力で彼の正面に滑り込む。瞬間、そこに光が走り――。


 若き日の自分が映し出される。

 拍手の渦、照明の眩さ、壇上に立つ自分。 

 当時の自分が指差すスライドには、セントラル意識基礎理論ver.0という文字。


――これは……僕の記憶…?


 ――すぐに映像は消え、矩形はまた群れの中へと戻っていった。代わりに、別の矩形がするりと前に出る。

 今度は白衣を纏い、国家研究機関で分析と検証を行っている自分。冷ややかな照明、機械の駆動音のみが響く静寂に包まれた研究室。誇りと孤独が同居する時間。


――このときの僕は、「若き天才」と言われていたっけな……。でも、そんな称賛には意義を見出せなかった…


 次の矩形。

 出張先の地方の図書館。静かであるものの、素朴な温かみを持つ空間に佇む女性。柔らかな笑み、優しい声。"彼女"と初めて出会ったあの日。映像は淡く、しかし温度だけは確かに伝わってくる。


――ああ、そうだ……彼女と出会ったことが……この日が、全ての始まりだったんだ…


 記憶は次々と姿を変える。

 小川のせせらぎが聞こえる公園の外れ。ベンチで語らう若い男女。不器用ながらも会話を続けようとする男性。それを柔らかい笑顔で受け止める女性。

 

 花壇に囲まれた噴水の前。真剣な面持ちで差し出した指輪。

 涙を浮かべながら頷く彼女の横顔。

 そして、地方の小さな式場で、祝福の声に包まれた結婚式。


――そうだ…これが、僕の幸せ。この時間がずっと続いて欲しい。そう、願っていたんだ……


 その映像はどれも淡くはなく、くっきりとした輪郭を持ち、胸を締めつけるほどに鮮明だった。


 ――最後に現れたのは、白い病室。


 事故で顔や体を損傷した痛ましい姿で横たわる彼女。冷えゆくその手を、必死に握る自分。

 映像がかすむ。声が出ない。息が詰まる。


――やめろ。やめてくれ……


 エリアスはか細く呟いたが、夢は止まらなかった。

 

「ピッ、ピッ、ピッ、ピ――――――」


心電図が彼女の死亡を確認したその瞬間――映像を映していた矩形はふっと暗転し、光を失って漂いに戻った。

 虚空は再び静寂に包まれる……はずだった。


 ――次の瞬間、周囲に散らばっていた矩形たちがざわめき始めた。

 まるで見えざる力に導かれるように、ひとつ、またひとつと、軌跡を描きながら中央へと集まっていく。


 ――何だ……これは……?


 ぶつかり合うこともなく、驚くほど正確に、隙間なく吸い寄せられていくその動きは、自然というより「設計図に従う組立作業」のようだった。


 ――僕の記憶が……積み上がっている……?

 いや、違う。これはただの記憶じゃない……僕が選び、失い、渇望してきた全てが……ひとつの形に……。


 エリアスは言葉を失い、その光景をただ見つめる。

 矩形が次々と積み重なり、噛み合い、補強し合う。

 壁が立ち、床が延び、やがて巨大な板面が――まるで聖堂の正面壁のように――虚空に聳え立った。


 完成したその一枚は、他の矩形とは明らかに異質だった。

 光はより鮮烈に、輪郭は鋼鉄のように硬質に輝き、存在そのものが虚空の空気を震わせている。

 エリアスの胸に、言い知れぬ重みがのしかかる。

 これは、ただの記憶ではない。

 彼の歩み、選択、喪失と渇望――その全てが積み上がり、形を成したもの。


 目を逸らそうとしても、逸らせない。

 視線は釘付けにされ、呼吸さえ浅くなる。


 そして、板面が光を放った。

 そこに映し出されたのは――エリアスを見つめ、手を差し伸べる、ひとりの男の姿だった。

 初老の顔立ち、深い影を宿す瞳。

 彼は静かに立ち、こちらを見据え、ゆっくりと手を差し伸べていた。

 男は言葉を発しない。ただ、静かに右手を差し伸べている。


――奴は……そうだ。彼女が旅立った後、奴は現れた。そして……


 その手の動きに合わせるように、板面の光が波紋のように広がった。

 白銀の光が空間を満たし、矩形の縁が震える。

 気づけば、虚空そのものが男の姿を中心に収束していくように見えた。


 ――視界が、体が、引き寄せられる…!


 エリアスは足を動かしていない。けれど、床のないこの空間で、身体は板の方へと滑るように近づいていった。

 息が詰まる。視線を逸らそうとしたが、どうしても逸らせない。

 瞳は拘束され、光の渦の中へと引きずり込まれていく。


 板面が目前に迫る。

 その瞬間、映像と現実の境界は崩れ去った。


 ――気づけば、そこにいた。


 薄緑の液体で満たされた培養槽、冷たい金属の床。薄暗い照明。陽光の届かない閉鎖された地下の実験施設。

 虚空も、矩形も、光の壁も消え失せ、エリアスはただ男の前に立っていた。

 伸ばされた手は、もう映像の向こうのものではない。

 確かに、この場で差し伸べられている。

 男の瞳とエリアスの瞳が交わる。

 時間が止まったかのように、空間が沈黙する。

 

――奴が……目の前にいる。あの時と同じ光景だ。ここで僕は……


沈黙の中、男は変わらず手を差し伸べていた。

 その掌は硬質な光をまといながらも、不思議なほど温もりを感じさせる。

 エリアスの指先が、かすかに震えた。

 抗おうとする意思と、抗えない引力の間で揺れる。

 だが、結局のところ――その迷いは、ほんの一瞬に過ぎなかった。

 静かに、しかし確かに、彼はその手に触れた。


 ――瞬間、世界が崩壊した。


 足場が音もなく崩れ落ち、周囲の物体も光の破片となって散っていく。

 眩い白光がすべてを呑み込み、上下も距離も意味を失った。

 光の奔流の中で、エリアスは意識がほどけていくのを感じた。

 誰かの声が遠くで呼んでいるような気もした。

 けれど、それが誰の声かを確かめる前に


――夢は、途切れた。


――――――――――――――――――――


……はっと、エリアスは息を吸い込んだ。

 身体が跳ねるように起き上がり、心臓が胸を乱打する。

 額には冷や汗がにじみ、背筋に薄い震えが走っていた。


 視界に映るのは、見慣れた天井。

 淡い朝の光がカーテン越しに差し込み、部屋の空気をゆっくりと染めている。


「……夢、か」


 声に出すと、その響きがあまりに頼りなく、虚ろに思えた。

 確かに何かを見ていた――強く、鮮やかなものを。

 だが、内容を思い出そうとした瞬間、指の間から零れ落ちる砂のように曖昧さだけが広がる。


「何を……見ていたんだ、僕は……」


 囁きにも似た言葉は、空虚に宙でほどけていく。

 胸の奥には説明のつかない疼きが残っていた。悲しみにも似て、しかしすぐに形をなくす。


 深く息を吸い、吐き出す。

 やがてエリアスは布団を押しのけ、足を床に下ろした。

 その足取りはまだ重かったが、戸口の向こうから漂う香りが彼を現実へと引き戻していく。


 コーヒーの匂い。温かなパンの香り。

 リビングに立つのは、柔らかな微笑を浮かべるセラの姿。


 ――そうだ。これでいい。

 完璧だ。これこそが、僕たちの幸せなんだ。


 胸のざわめきを押し込めるように、エリアスは小さく息を整え、彼女へと歩みを進めた。

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