第一幕1章「変わらない日々」

柔らかな陽光が、レースのカーテン越しに部屋を染めていた。

淡い金色の模様が床に広がり、ゆるやかに揺れている。

エリアスは瞼を開け、しばらく天井を見つめた。耳に届くのは、低く一定の空調音と――どこか遠くで湯が沸く、軽やかな泡立ちの音。


体を起こすと、室温はすでに快適に保たれており、空気の中にかすかに漂う香ばしい匂いに気づく。

それは毎朝の合図だった。

足を床につけ、スリッパを履く。廊下を抜けるごとに、香りは濃くなり、やがてリビングの明かりが視界に入った。


「おはよう、エリアス。」


振り返ったセラが、白いカップを手に、ふわりと微笑んだ。

その笑みは、日々寸分違わぬ柔らかさを保っている。


「おはよう、セラ。」


エリアスも口元を緩め、椅子に腰を下ろす。ちょうどその瞬間、カップから立ちのぼる湯気が視界をかすめた。


テーブルには、カリッと焼かれたパン、温かなスープ、色鮮やかなサラダ――ほとんど変わらない献立が整然と並んでいる。


「今日はパンに蜂蜜を塗ってみたの。甘さがちょっと足りなかったら、言ってね。」


「うん、ありがとう。」


二人はゆったりとした口調で言葉を交わしながら、スープを口に運ぶ。

味は、昨日と同じ。

それでも、不思議と変化を求める気持ちは湧いてこない。

ここでは、毎日が同じように始まり、同じように続いていくのだから。


食後、セラはカップを片付けながら振り向いた。


「少し出かけてくるわ。…いつものところへ。」


「……わかった。行ってらっしゃい。」


玄関で軽く手を振るセラを見送り、扉が閉まると、エリアスは深く息を吐いた。

残された静けさが、ほんの少しだけ、重たく胸に沈む。

だが、その感覚を意識の奥に押しやり、彼はまた机に向かうのだった。






扉を開けると、ふわりと花の香りが風に乗って頬をかすめた。

 庭には白や黄の小花が咲き、揺れる花弁が朝の光を柔らかく映している。

 暖色のレンガで組まれた門柱を抜けると、丸石を敷き詰めた細道が、草木の間をゆるやかに伸びていた。


「風が気持ちいい……今日も、いい天気ね」


 小川のせせらぎと、小鳥のさえずりが、足音と重なり合う。

 蝶が一匹、前を横切り、陽の中へ消えていった。


 やがて視界の先に、花壇に囲まれた噴水が見えてくる。

 水のしぶきが光を散らし、笑い声や話し声が混ざって耳に届く。

 子どもたちが駆け回り、外れのベンチでは老夫婦が静かに本を読んでいる。

 何気ない風景。それなのに、なんとなく懐かしさのようなものを感じる。

 ……少し、胸の奥が熱くなった気がした。


「ここは……私のお気に入りの場所。今日は、どんな出会いがあるのかしら」


 セラは温かな気持ちを胸に、噴水へと足を運ぶ。


 噴水の水しぶきが朝の空気を涼やかに散らしていた。

 セラはその縁に腰を下ろし、両手を膝に重ねて、水面を見つめる。

 小さな波紋がひとつ、ふたつと広がっては消え、空の光を切り取っていく。


「お姉さん、ここで何してるの?」


 近くで遊んでいた少女が、小さな靴音を響かせて近づいてきた。

 セラは微笑み、首を傾げる。


「ただ座って、風や水の音を聴いているの。そうすると、心が静かになるのよ」


 少女は不思議そうな顔をしながらも、「ふーん」と頷く。


「それって、楽しいの?」


「ええ、とても。楽しいっていうより……自分が大切なものに近づけるような気がするの」


 少女はその言葉を胸にしまうようにして、セラに小さく礼をする。「お姉さん、またね。」と、無邪気で柔らかな笑顔を見せ、小走りに去っていった。

 セラはその背中が花の向こうに隠れるまで目で追い、ふっと微笑む。

 胸の奥に、柔らかな温もりが残っていた。


――さて、少し歩こう。


 ゆっくりと歩を進めると、石畳を伝う風が頬を撫でる。花の香りと、水の輝きが混ざり合い、心がほどけていくようだった。


 花壇の間を抜けると、陽射しの色が少し変わった。噴水の水音は背後に遠ざかり、代わりに小川の流れが近くで囁き始める。

 そこにはきれいな噴水も、いい香りのお花もないけれど、静かな水のせせらぎは、いっそうわたしの心を落ち着けてくれる。


 石畳の先、小川のそばのベンチに、白髪の老夫婦が並んで座っていた。

 男性は新聞を広げ、女性はその横で編み物の手を動かしている。糸が小さく揺れ、陽の光を受けてやわらかく光った。


「おはようございます」


 セラが声をかけると、二人はゆったりと顔を上げ、柔らかな笑みを返した。


「いい朝だねえ」


「ええ、とても。こうしてお二人が並んでいる姿、素敵です」


 女性が少し照れたように笑い、男性が「もう何十年も、こうやって座ってるよ」と冗談めかして言った。

 セラはその言葉に、穏やかに目を細める。


「同じ場所で、同じ時間を分かち合うって…とても素晴らしいことだと思います。

毎日が違う景色なのに、隣にいる人が同じだと、安心できますね。」


 老夫婦は互いに視線を交わし、小さく頷き合った。

 次の瞬間、近くの池で小鳥が一羽、軽やかに飛び立った。


――こんな時間が、ずっと続きますように…


 老夫婦に別れを告げ、セラは再び歩き出した。

 小道の先、木漏れ日を浴びて水面がきらめいているのが見える。

 近づくほどに、水の音がはっきりと耳に届く。

 噴水の縁には花壇が円を描き、季節ごとの花々が淡く香っていた。

 水柱が陽光を受けて無数の粒となり、空気の中に虹色の細い弧を描く。


 セラは足を止め、その光景をしばし見つめた。

 胸の奥に、ゆっくりとした呼吸が広がっていく。

 自分の中にある何かが、静かに整っていく感覚。


――今日も、ここから始まる。


 そう心の中でつぶやき、セラは噴水の縁に手を添えた。

 透明な水滴が指先に触れ、ひやりとした感触が、目覚めたばかりの朝をさらに澄ませていった。






 包丁が小気味よくまな板を叩く音が、夕暮れのリビングに響いていた。

 窓から差し込む黄金色の光がカーテンを透かして広がり、室内の空気を柔らかく染め上げている。


「ねえ、エリアス。今日の公園は、少し特別だったの」


 セラは振り返らず、鍋に手を伸ばしながら、ふとした調子で語り出した。

 台所から立ちのぼる温かな匂いが、窓からの光と溶け合っていく。


「小さな女の子が声をかけてきてね。『何してるの?』って。

 ただ風や水の音を聴いていただけなのに、不思議そうに見えたみたい。

 でも、“またね”って帰っていくとき、その子の顔が少し大人びて見えたの。あの瞬間、なんだか心が温かくなってね。」


「……そうなんだ」


 短く、声が漏れる。

 エリアスはぼんやりとした面持ちで、セラの背中を眺める。

 セラの肩越しに夕光が差し込み、彼女の輪郭を淡い金色に縁取っていた。


「それからね、小川のそばでご夫婦に出会ったの。

 毎日違う景色を見ていても、同じ人と並んでいられることが、いちばん安心できるんですって。

 あの言葉を聞いて、思ったの。子どもの無邪気な問いも、年を重ねた人の静かな答えも、どちらも“心を落ち着かせてくれるもの”なんだって。」


 セラは鍋の蓋を少し持ち上げ、湯気を逃がす。

 香ばしい匂いがふわりと部屋に広がり、夕暮れの光と混ざり合うように空気を満たした。


「……そんな小さな時間を、今日も分けてもらえたことが……すごく、嬉しかったの。」


 エリアスは椅子に腰掛けたまま、変わらず夢見心地のような表情で窓をぼうっと見ている。それからゆっくりとセラの背中に目を向けた。

 夕陽を浴びるその姿は、温かな光の中に溶け込むようで、現実の輪郭を曖昧にしていた。


 ――それは光と匂いが織りなす空間に、彼女と彼だけが存在しているようであった。

 セラは振り返り、微笑んだ。


「本当に、あの公園は素敵な場所ね」


「うん……君は、優しい」


 虚ろな瞳のまま、微笑を浮かべて言う。

 その返事に深い意味はなく、ただ言葉の響きを追いかけただけのようだった。


 セラは嬉しそうに笑みを深め、再び料理へと戻る。

 窓辺からの黄金色の光と、煮立つ鍋の湯気がひとつに混ざり合い、部屋全体を心地よい幻想で包んでいった。


 ――やがて、夜の帳がゆっくりと降りていく。


 食卓を片付け、灯りを落としたリビングには静けさが満ちていた。

 わずかな常夜灯の明かりがカーテンの隙間から入り、柔らかく家具を照らしている。


 セラはそっとエリアスの傍らに歩み寄ると、腰をかがめ、彼の頬に唇を触れさせた。

 その仕草はあまりにも自然で、あまりにも優しく、日常の一部として刻まれているかのようだった。


「おやすみなさい、エリアス。」


 微笑みを残して寝室へ向かう彼女の背を、エリアスは静かに見送る。

 その目は、笑顔を浮かべながらも、どこか遠くを見ているように虚ろだった。


――今日も幸せな一日だった。

 そうだ、これでいい。完璧だ。これこそが、僕たちの幸せなんだ。

 きっと、そうに違いない。


 小さく息をつき、彼もまた足音を立てずに寝室へと向かった。

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