「熾天使の輪廻」

@yuk_124896

プロローグ「目覚め」

――ゆらぐ。

 何かが、遠いところで、淡く揺れている。


 温かい液体に全身が沈められている。柔らかく、包み込むような圧力。

 耳の奥で、低く一定の機械音が響く。どくん、どくんと、自分の鼓動と重なるように。


 視界は薄く霞んでいて、ただ水面越しのような光が、遠くにぼんやりと漂っている。

 光の粒が水に溶け、ゆらゆらと形を変え、消えていく。

 それが何なのか、考えようとしても、まだ思考は掴みきれない。


 ……音が近づいてくる。

 何層もの膜を通したように、くぐもった低い声。


 「……ラ………セラ…!…」


 音が、泡の間をすり抜けて届く。

 ――今のは、私の、名前?


 泡が弾ける。

 呼吸の衝動が胸を打ち、瞼が重く開く。


 ガラス越しに、ぼやけた人影が立っている。

 背の高い輪郭、揺れる白衣、光を受けて鈍く輝く瞳。

 その目は、まるで長い時間待ち続けたものを見つけたように、深い感情を湛えていた。


 機械音が一段高まり、温もりが急速に薄れていく。

 液体が引き下がり、冷たい空気が代わりに流れ込んだ。

 湿った肌に、人工の空気がひやりと触れ、背筋が震える。


 透明な壁が左右に開き、外の世界が視界に流れ込む。

 

 ――外、といっても、それは薄暗い部屋だった。


 壁一面に巨大なモニターが並び、無機質な光を放っている。

 天井から垂れる配線、床を這うケーブル。

 隅には培養槽がいくつも並び、淡い緑色の液体が揺れている。

 機械の駆動音と、かすかな薬品の匂いが漂い、生命の温もりはそこにない。

 

 目の前の人影が、ゆっくりと手を差し出す。


「……おかえり、セラ。」


その声は、深い安堵と震えを含んでいた。


 彼とは初対面のはずなのに、何故かわたしは彼のことを知っていて、鮮明に憶えている。


「……ええ。ただいま、エリアス」

 

 自分でも驚くほど、自然に言葉がこぼれた。

 意味を理解しているのかはわからない。ただ、その声が自分のものだと感じた。


 温かく、確かな手が指先を包み込む。

 導かれるように、培養槽から一歩踏み出す。

 足裏に伝わるのは、無機質な床の冷たさ。


エリアスは、静かに息をつくように言った。


「……やっとだ。やっと、君を迎えられた。」


「長かった……ずっと、一人で、君の帰りを待ってたんだ。」


 その声には、張り詰めた年月が一気に解けたような弱さが滲んでいた。

 セラは少し微笑み、ゆっくりと答える。


「…ええ。心配かけてごめんなさい、エリアス。もう大丈夫よ。あなたは一人じゃない。」


 彼の目に、わずかな光が戻る。


「……ありがとう、セラ。そう言ってもらえて、すごく嬉しいよ。」


 短く息を整え、彼は優しく促す。


「…それじゃあ、行こうか。」


 セラの手をしっかりと握り、二人は部屋を後にした。



 一本道の長い通路を歩く。

 壁は無機質な金属光沢を放ち、足音と機械の駆動音だけが響く。

 やがて、先にひとつの扉が現れた。

 エリアスが手をかけ、ゆっくりと開く。


 眩い光が差し込み、視界が真白に染まる。

 セラは思わず目を細めた。

 徐々に光が和らぎ、輪郭が浮かび上がる。


 そこには、無性に“懐かしさ”を感じる温かみのある空間が広がっていた。

 胸の奥がふっと熱を帯びた気がした。理由はわからない。ただ、なぜかこの景色を、愛おしいと感じる自分がいる。そんな気がした。

 視線の先には、木目の家具、淡い色のカーテン、棚に並ぶ書物や写真立て――すべてが人の暮らしを想わせる光景があった。

 窓から射す陽光が、空気に漂う微細な埃を金色に輝かせている。

 どこかで、鳥の鳴き声のような音もした。


「今日からここが、僕たちの家だ。」


 エリアスは微笑む。しかし、その瞳はどこか燻んで見えた。


「ずっと、ここで二人で暮らそう。セラ。」


 セラは小さく頷く。


「……はい。末永く、よろしくお願いします。あなた。」


 静かな時の流れの中、二人の新しい生活が始まった。


 その穏やかさが、どこまで続くのか――セラはまだ、知る由もなかった。

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