エドワード・グレイ
死神が帰ってきて初めて目にしたのは、窓からだらりと垂れた男の血まみれの手と、椅子に座ってアメジングルベルを口ずさんでいるマリーだった。
彼は、慌てて窓の下に倒れた男の口と鼻に手をかざす。
呼吸は無かった。
ふと、落ちているジュニア・コルトが目に入る。
躊躇いなく頭に銃弾を叩き込み、夢を見ているような、蕩けた瞳で歌い続けるマリーに駆け寄った。彼女は、死神を捉えると、ゆっくりと瞬きを一つして、新緑色の双眸を緩ませる。
「おかえり、エド」
「あぁ、ただいま。起きれるか、マリィ」
それは、病床の母を案ずるが如く、不安げで、優しい声だった。
「大丈夫だよ」
掠れた声で、マリーは小さく返した。
彼は、歓喜に震えた。
汚したくないと思っていた。
それと同じくらい、自分と同じところまで落ちてきてほしいと思っていたのだ。それを踏み殺し、ここまでやってきた。全ては、美しい彼女を損なわないために。
しかし、彼女は、罪に穢れて尚美しかった。
「ごめんなさい、やっちゃった」
まるで、悪戯がバレたように、鈴を転がしたような声でマリーは笑った。
「もうここに、いられないかな」
死神は、ゆるゆると首を横に振り、座り込んだマリーに目を合わせた。
「どうしてここで暮らせているか、考えたことァあるか」
彼は、ザラついた声で言った。
似た動作で首を横に振るマリーを、死神は黙って抱き寄せる。
「憲兵ァオレを雇ッてるからだ」
手錠をかけられた時のことは、明確に覚えている。まだ13の時だった。異常に軽い癖に、もうどこにもいけないんだと思ってしまうような、鎖に繋がれた犬のような、そんな気分だった。
当たり前だと思った。
それくらいのことを、オレはやったのだ。
俺は、父親を殺した。アイツが、ママを殺した体。ママは厳しかったし、聖書以外は教科書しか読ませてくれなかった。ラジオも聞いたことがないし、食卓に出てくるのは野菜ばかり。出来の悪いオレはしょっちゅうヒステリックに怒鳴られたけど、父親と違ってオレを捨てることはなかったし、いつも正しかった。
無性にママに会いたかった。
常に正しく、人生の線路と言っても良かった人は、つい1時間前に殺された。
オレは、ついに何もできなかった。
ママの言う通りだった。
憲兵に蹴り転がされるようにして、留置所に入れられ、数日経ってのことだった。
一応、合衆国領だからだろうか、裁判があって、牢にぶち込まれた。
同室の男は最悪だった。15人も子供を強姦して殺したサイコパスだ。身なりが綺麗なのも気色悪かった。舐め回すようにこっちを見る視線が恐ろしくて、常に聖書を抱いて寝た。
ママに言われて必死に暗記したそれが、唯一の支えだったからだ。
ここでちゃんと反省して、悔いて、誰にも迷惑がかからないように死ねれば、ママと同じ天国へ行ける。そう思ったけど、無理だった。
新月の晩だった。
同室の男が、俺を襲いに来たのだ。その時あいつが「声が変わる前にやることをやっておかないとな」と言っていたのが、気色悪くて、我慢できなくて、俺はそいつを壁に打ち付けて殺した。
どこまでも、オレにはあのクソ野郎と同じ血が流れているらしい。自分でも恐ろしくなるくらいの力で、そいつの頭を叩き割った。側頭部を掴んで、壁に押し付けた時の、バキッという音と、コンクリートの壁にべったりついた赤を、これからも忘れることはできない。
尚悪かったのか、それに充足感を覚えてしまったことだ。
何もできなかったオレだけど、殺人鬼を殺せた。
社会の役に立たない、あのサイコパスを、自分の手で終わらせることができたのだ!それに、あの頭蓋骨を叩き割った瞬間の爽快感は今までに味わったことがない。腕がジクジクと痺れて、頭がカラッポになって心地よい。そう感じたと理解した瞬間、背筋が冷たくて、頭が割れそうなほど痛かった。
悲鳴だったのか唸り声だったのかわからないけど、うるさかったのだろう、正面のやつが憲兵を呼んできた。
それから、オレは同じことを繰り返した。
同室のやつをぶっ殺して、次第に罪悪感なんてなくなった。なんなら、死刑がないこの国で、代わりに凶悪犯を裁いているのは自分だ、なんて、思い上がるようにまでなった。何の罰もなかった、というのも、こう思うようになった背景だと思う。他の奴らは、殴り合いの喧嘩をしただけで懲罰房や折檻部屋送りにされていたのに、俺だけは独房に一日隔離されて、少しの説教を聞くだけで終わっていたからだ。
16になったある日、またオレは同房のやつを殺して部屋を移された。
次に同じ部屋になったのは、ロキ・ヒューゴーと名乗るアジア人だった。そいつは変な趣味もなく、背中いっぱいに怒った男の刺青を彫っていた。笑うと、目が糸みたいに細くなる、メガネをかけたおしゃべりが上手な男だ。
あいつは、オレを見た瞬間、ポカンと阿呆みたいに口を開けて聞いてきた。
「お前さん、その目、どうしたんだい」
ってな。
ああ、マリーは賢いな。そうだ、この目だ。一つか、二つか、忘れたが、それくらい前の時のやつにやられたんだ。だから、その時にはもうこんなふうに包帯で巻いていたんだ。
「別に」
「別にたァ素ッ気ねえや。お前さん、同室殺しでしょう?」
と楽しげに聞かれ、何だこいつと思った。
手を振り上げようとすると、ロキはニィと笑って腕を大きく広げ、パンと自分の太ももを叩いた。
「イエネ、何もそれでどうこうしようッて訳じァねェさ。私ァロキ・ヒューゴー、歳は数えで32、お国に妻と子が二人。趣味はこんな風に新顔とお喋りすることサ。お前さん、名前を聞いても?」
膝に肘を置いて頬杖をつき、狐みたいにそう笑って見せた。第一印象は「変な男」。次に、こいつなら変なことはしなさそうだと思った。オレは
「エドワード・グレイ」
とだけ小さく名乗ると、ロキは「わかりましたよ、エド。これから数年、仲良くしましょうヤ」とキュッと目を細くした。
ロキは、オレに色んなことを教えてくれた。
何もやることがない時の手遊び、「本国」の物語、外役の時に取ってきた草での遊び方。そのお返しに、オレは読み書きを教えた。喋れるくせに、全く文字が読めないそいつは、頭をガシガシ掻いて「参ッたネェ、こんなガキに教わるたァ、ヤキが回ッたモンだ」とブツクサ言いながらも、楽しげに鉛筆を握っていた。あんなに物知りなのに、アルファベットすら読めないのが不思議だった。ふざけてオレを先生と呼んでは、楽しげに、口を覆うようにして煙草を吸っていた。どんな味がするのか聞いても、一本ねだっても、「お前さんにァまだ早いサ。もう少し、大人になッて吸うと良い」と、ぐしゃぐしゃに頭を撫でた。
そうだ、
「私の国には、幼い子供を拐かして、理想の女に育てるッてな話があるんだが……お前さん、やりそうだネェ、気ィつけなよ」
と細い目を細くして言っていたっけか。オレは
「やるかよ、んなこと」
としか言えなかったけど、ロキはニヤニヤして
「どーだかネェ」
と笑ってた。今思えば、あいつはオレのことを良く知ってた。本当に、はぐらかして、意地悪に良く笑うやつだった。
一番はっきり覚えているのは、そうだ。
「人は死んだらどうなると思う?」
と聞かれた時だ。
妙なことを聞く奴だと思った。人は死んだら天国か地獄、それ以上もそれ以下もないのに。
そういうと、ロキは目を丸くして、一つに縛った長い髪を揺らしながら頬杖をついた。
「お前さん、チャンスが一回だと失敗できないじァないか」
「うるさいな、お前はどう思うんだよ」
そう聞き返すと、カラカラ笑って指を一本立てた。
「廻るのサ」
「まわる?」
「そう、中身を綺麗に消されて、グルグルと。入れモンを変えながら巡るンだ」
「入れもん?体か?」
「賢いな、エドは。来世ッてんだ」
そう笑って、くしゃ、とあいつは俺の頭を撫でてくれた。俺の方がずっと背が高いのに、それでもあいつはオレを子供扱いした。他のやつにやられたらぶっ殺したくなるほどの嫌悪感を抱くはずなのに、ロキの手つきだけは好きだった。
独特の口調と、常に淡く芳る白檀の匂いが妙に落ち着く。寝る前に、そんなことを、煙の中でトロトロと話してくれるロキを、俺は兄貴と呼びたかった。
照れ臭くて、妙なプライドが邪魔して、実際に呼べたのは、そいつが死んだ後だった。
俺が殺した。
雨がシトシト降る夜だった。
ジットリした空気の中、日付が変わる直前に、俺とロキは呼び出された。
指定されたところまで来ると、ロキは憲兵に両腕を掴まれた。その後、銃を渡され、「殺せ」と命じられた。
それが、オリヴァだった。
もっとも、名前を知ったのはこの時じゃない。もっと前のことだった。
特に劇的な理由があったわけではない。オレの一番最初の、独房の見張りがこいつだったというだけだ。あのペド野郎をぶっ殺して独房に入れられた時だ。あいつは事あるごとに俺を構った。昔話も山ほどした。他にやることもなかったから。そう言えば、包帯を巻いてくれたのもあいつだったか。
あいつはある日、嫁と子供を殺されたと言った。
オレは、そりゃ災難だと返した。
その時には、オリヴァはもう憲兵だったそうだ。一応、この島は合衆国領だから、この島でも死刑は許されない。そいつはまだ、生きてるんだろうと思った。
だから俺は、どんなやつだったのかと尋ねた。
するとあいつは、少し笑って言った。
「お前と同房だったやつだ」
ああ、だからオレはこいつに構われてるんだとわかった。少し考えたらバカでもわかる。自分の仇を討ったやつに、辛く当たる理由はない。
部屋替えの時も、いつもあいつはキッとこちらを強く睨みつけた。あの時はわからなかったが、今ならわかる。あれは、「同室のやつを殺せ」というメッセージだったんだろう。
その証拠に、オレと同じ房のやつは、救いようのないクソ野郎ばかりだった。
オリヴァにとっては、ロキもそのうちの一人だったんだろう。
あいつは、オレの髪の毛を掴んで、グッと顔を近づけて淡々と言った。その時の台詞はたしか、
「お前を放し飼いにしてやろう。殺したいなら、俺が依頼しよう。金も棲家も用意してやろう。だから言うことを聞け。できないならここで死ね」
だったか。
オレは愚かだったんだ。
最初はもちろん断った。
オレは何もされていない。殺す理由が無かった。出来たなら気持ちいいだろうと分かってはいても、世話になった人間を殺したくは無かった。
実に理性的な判断だ。
ロキの国では、確か「義理」と言うんだったか。
すると、オリヴァは眉を吊り上げて
「理由をくれてやる」
と言い捨てた。
「そいつは戦争で捕虜を何十人も殺した」
そんなことをするとは思えず、オレはロキを振り返った。けど、あいつは「そんなこともあッたネェ」とカラカラ笑うだけだった。
良く考えれば、こいつも重罪人だからここに居るんだろう。
「お前は私の指の一つだ。私が作った『死神』だ。そんなことすら忘れたか、エドワード・グレイ!」
少しでも笑っていたら、この男を殺してやろうと思った。けど、その目つきは真剣そのもので、逆らってはいけないと本能でわかった。ずっと静かな奴だったからってのもある。あんな風に、オリヴァに怒鳴られたのは、あれっきりだ。気迫ってやつが違ったんだろう。
髪の毛を離され、思わず尻餅をつく。
「お前が躊躇うなら俺が殺す。その後で、役立たずのお前も殺す。せめて世話になったお前が!引導を渡してやるのが慈悲ではないのか」
オリヴァは、そう冷たく言い放った。
「救われたいのでは無かったのか。これは善行だ、現世で、多数を守るために、この男の罪を裁く。やってきただろう、これまでも!」
見てきたみたいにそう怒鳴りつけるオリヴァに、ゾッと背筋が泡だった。
何より、こいつの声が頭に響いて、鎖で雁字搦めにしていた獣性を、あぁ、そうだ。あのクソ親父の遺伝子を受け継いでしまったオレの本性を、外に放り出してしまいそうだった。
マリー、お前も知ってる男だ。パーティの依頼をした、あの、憲兵。あいつには近づくな。あれは、人間の形をしたロボットだ。電気羊の夢を見る、正義の形をした悪魔だ。普通の人間が混ざって良い相手じゃねえ。
………興奮した。話を戻そう。あと少しだから、良い子で聞いてくれるか。
「エド」
穏やかな声に、俺は弾かれるように顔を上げた。
目を細めて、いつものように柔らかく微笑み、パンと一度手を叩く。
「輪廻転生、ッて言ッてナ、私はまた生まれ変わるのサ。いつか会えたら、またよろしくやりましょうヤ。その時ァ、酒でも飲んでナ」
それから、静かに首を垂れた。
小さな声で、「早くしろ」と聞こえた。
俺は、オリヴァの言葉に操られるように、フラフラ歩いて、エドの頭に向けて銃口を向けた。
頭が内側からガンガン殴られてるみたいだった。
「エド」
「んだよ」
「私の名前はナ、露樹風悟と言うんだ」
それを聞いた瞬間に、オレは引き金を引いた。
頭蓋骨を割って「死神」が羽化したと思った。
今になって思えば、あいつが諦めたからだろうな。諦めなければ、倫理的な判断をし続けられたのに。
兄貴分を殺したと言うのに、爽快感は変わらなかった。人間に戻れないのだと絶望した自分に、オリヴァはそっと囁いた。
オレのこれは、救済だ、と。
悪人に死を持って罪を償わせる。オレに殺されたやつの罪はもう償い終わっているから、きっと天国へ行ける。それで、最後に自分も死ねたらいい。そうしたら、きっとオレも救われて、ママに会えると思うから。
アイツは、許さなくて良いと言った。大義のためなら、自分の命すらくれてやると。だから、オレがやる最後の一人はアイツだ。
自分が奪ったものを、一人だって忘れてなるものか。口調はロキを真似た。少し首を傾げる仕草は一人目を、歩き方は二人目を、一人称は三人目を、立ち方は四人目を。仕草で真似られなくなったら、最後に会話をして、その声を己の心臓に刻みつけた。
しくじったことはなかった。
別に苦しいと思ったこともなかった。それよりむしろ、天職だと思った。ロキを殺した時以上の絶望感を感じることはなかったし、これが一番、神に応えられる道だとも思った。
オリヴァはオレに言った。
「好きに生きろ。その中で、成すべきことを成せ」
だから、オレは全員殺した。
禿頭のジェントルが俺に依頼書を届けるようになった。あいつも憲兵上がりだが、オリヴァの三倍は呑気だ。あのサディストの集合住宅の中で、オリヴァとロキの次に世話を焼いてくれた。ベルは、憲兵の娘だ。家出してシスターになって、昔一度会ったきりのオレのところまで依頼書を届けにきた。
月に一度か二度依頼をこなして、煙草を吸って、酒を飲んで、そんな時に、マリィ。お前と出会った。
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