マリー・サンチェス 3 もしくは少女の洗礼

エドがいなくなってから、丸丸一日経ちました。

もうどれだけ歩いたかわかりません。

空はすっかり暗くなっていました。

冬だからでしょうか、真っ暗な空に、キラキラと星が輝いているのが良く見えました。

オリオン座の肩の赤いペテルギウスと、子犬座のプロキオン、それから、その横の、お空で一番明るいシリウス。三つを指でなぞると、大きな三角ができて、それが冬の大三角です。

エドが少し前に「俺ァこれしか知らねェが」と前置きして教えてくれたものです。

「エド、どこ?」

声をかけようと、息を吸い込んだ瞬間、キンッと喉が切られたみたいに痛んで、口から出たのは、ガサガサした、おばあさんみたいな声でした。

咳を一つして、「あ、あ、」と声を確かめます。

エドが好きだと言ってくれた声で、出来るだけ大きく呼びかけながら、私は夜を歩きます。

周りには誰もいません。少し前は、エドが一緒に歩いてくれたのに。

「エド」

お母さんもお父さんも、教会の子供たちも神父様も居なくなって、今度はエドもいなくなるのかしら。そう考えただけで、寒くてたまらなくなりました。

「きみ!」

誰かに手を握られて、腕がグンと伸びました。

振り返ると、眼鏡をかけた、スーツのお兄さんが、ハァハァ白い息をしながら私を見ていました。

背中が、最初にエドと会った時みたいに、ゾッと冷たくなりました。

「危ないだろ、こんな時間に一人で!」

鼻の近くで怒鳴られて、頭がカァンと痛みます。

怒られるとは、思いませんでしたから。

思わず目を閉じて、うっすら開くと、お兄さんは安心したように息を吐きました。

「お家は?」

「あっち」

私が教会の方を指でさすと、お兄さんは眉間に皺を寄せます。

「電気、ついてないけど」

当たり前です。エドが帰って来ないんだから。

そう言いたいのをグッと我慢して、「お兄さんには関係ないでしょう」と顔を逸らしました。

そうしたら、お兄さんは、クスクス笑って膝をつきました。

茶色い髪の毛に、雪がふわふわ落ちて、ところどころ白くなっています。

「お家まで、送らせてくれないかな」

レディ、と笑った顔が、どうしてもあの人に似ていたから。だから、断れなくて、コクンと小さく頷きました。

「ありがとう」

お兄さんは、いろいろお話をしてくれました。

名前はサムで、本国からお仕事で来てること、趣味は手品で、得意なのは花を出すこと。そう言って、サムさんは右の手のひらから、真っ赤なバラを一本、生やして見せてくれました。

「どうぞ」

「ありがとう」

「花は嫌いだったかな」

「別に。そんなことないけど」

そう言うと、お兄さんは困ったように少し笑って首を傾げました。

「他の子と反応が違うからさ。もちろん、悪いって訳じゃあないけどね」

びっくりしたけど、エドの目の方が何倍も綺麗でした。摘んだばかりみたいに背筋を伸ばした花の赤よりも、全部と引き換えにいっぱいに広がる赤の方が好き。

もちろん、そんなこと、サムさんには言えないけれど。

背中は、まだビリビリしています。

この人は、絶対普通の仕事はしてないのでしょう。けど、あの人みたいに、何も話せないまま居なくなってしまうのは嫌でした。

もしかしたら、良い人かもしれないから。

「ここだね。おうちの人は?」

「まだ、帰ってきてない」

「そうか」

サムさんは、しゃがんで、私を見上げて、あの人みたいに柔らかく笑いました。

「一緒に、お家の人を待っても良いかな。心配なんだ」

「だめ」

「しっかりしてるね」

じゃあ、と指を一本立てて首をこてんと横に倒します。

「窓の近くで、おしゃべりしてくれないかな」

そう言うことは、お兄さんは、部屋の中には入ってこないと言うことなのでしょう。私が近くに行って、窓を開けて、エドが帰ってくるまでおしゃべりする。

うん、それくらいなら、怒られなさそうです。

そこまで考えて、私は一度だけ、首を縦に振りました。

サムさんは、ありがとう、と笑って、ドアを開けて、手で抑えていてくれました。

「鍵、ちゃんとかけるんだよ」

「わかった」

それだけ言って、私は、昨日、エドが思い出したみたいに買ってきた南京錠を閉めました。隙間風に邪魔されながらマッチを擦って、ランプに火をつけて、窓の近くまで持っていきます。

そこで、ふと、立ち止まりました。

なんで、サムさんは、私をわざわざ送ってくれたんだろう。

心配してくれた、と言うのは、嘘じゃない気がします。

けれど、家に着いた時から、警笛みたいに、頭が痛いのです。

少し悩んで、私は、エドがくれた拳銃をポケットに入れました。

低い、唸り声が、「やられる前に、やれ」と耳鳴りみたいに響きました。

コンコンコン、と窓の枠を叩く、控えめな音が聞こえます。

銃は起動するまでにバレるかもしれない。

私は少し考えて、キョウチクトウの栞から、カラカラになった押し花を出して、ギュッと握りつぶしました。

手の中で、カサッとした感触がして、色が混ざって、くすんだ原色がぐちゃぐちゃになりました。ゴミとほとんど変わらなくなったそれをティーパックに入れて、ポットに入れて、片手鍋にお湯を沸かして、エドのベッドに登って窓を開けます。

「ごめんなさい、遅くなって」

「構わないよ」

壁にもたれて、白い息と共に笑みを浮かべたサムさん。私は、ほっとため息をついて、それからずっと気になっていたことを聞きました。

「なんでサムさんは、私に声をかけたの?」

「なんでって」

困ったみたいに、眉毛をハの字にして言いました。

「小さい子が、一人だったから」

「けど、それだけじゃないでしょう」

それだけだったら、なんでこんなに、この人を恐ろしいと思うことがあるのでしょう。背中は相変わらずビリビリします。笑顔なのに、こんなに怖い。

糸目の奥をじっと見ていると、仮面みたいに貼り付けられた笑顔が、スッと解けるように落ちました。

「まいったな。こんなに早く気付かれる予定じゃなかったんだけど」

変わらない口調が不気味です。

「そんなことより、キッチン大丈夫?」

「キッチン?」

「湯気、すごいけど」

大変、忘れてた!

振り返るとお鍋がグラグラ揺れています。

「止めてくる」

「いってらっしゃい」

「紅茶、飲める?」

「君も飲むなら」

「分かった」

警戒されてるんだなって思いました。

けど、そんなことはどうでも良いのです。

窓を閉めて、鍵をかけて。早く準備をしなくちゃ。

そう思っていると、バリン!と、大袈裟なくらい大きな音を立てて、後ろで何かが砕け散った音がしました。

「だーめ、開けておいて」

にっこりと笑ったサムさんの手には、ガラスの破片が幾つも突き刺さり、真っ赤な血がボタボタと腕を伝って落ちていました。絶対に痛いはずです。痛くないわけがないのに、それでも崩れない笑顔に、背筋がゾクゾクと冷たくなって、逃げる場所もないのに逃げ出したくなるほどでした。

「紅茶を作ってるの」

「それ、何?」

「ピーチと、多分ダージリンとアップル」

「ふぅん」

自分から聞いたくせに、興味がなさそうな返事をしてサムさんは目をキュウっと細くしました。

「詳しいの?」

「全然。コーヒー派」

「そう」

それは良かった、と思いました。

詳しかったら、バレるかも知れないもの。

砂時計をひっくり返して、少し蒸らして、ポットからティーカップにゆっくりと注ぎました。そうすると、見慣れた澄んだ赤茶色の液体がカップにトポトポ、と音を立てて注がれていきます。

「慣れてるんだね」

「毎日、やってるから」

「へぇ、良いね。ますます欲しい」

「欲しい?」

どう言う意味でしょう。

カップを渡すと、サムさんはキュウと深い紫色の目を細めて「逆をちょうだい」と言いました。

変な人です、どっちも中身は同じなのに。そう思いながらティーカップを渡すと、「ありがとう」と受け取ってくれました。

受け取るだけで、飲んではくれないけど。

「飲まないの?」

「せーのでなら、いいよ」

「わかった」

私は、毒があることしか知りません。どんなに苦しいのか、どんな味がするのかも知りません。

けど、まずいと思ったら、やられる前に殺す。だって、エドが私に教えてくれた、たった一つのことだからです。

カタカタ震える手を無理やり大人しくさせます。何かあっても、エドは治療はしてくれないでしょう。けど、私のお墓くらいは作ってくれるのではないでしょうか。

そんなことを思いながら、ティーカップに唇をつけて、一瞬口の中に入れて、溜めておいた唾だけ飲み込みました。

サムさんはこちらをチラリと見て、喉を上下させます。下ろしたティーカップは、半分ほどに減っていました。

やった、飲んだ。

彼は、まだ平気そうです。首を傾げて、ヒビの入ったカップを見ています。

「不思議な味だね」

「美味しくない?」

「いや、嫌いじゃないよ」

「よかった」

もう一度中身を見て、紅茶を全て飲み干しました。

「おかわり、いる?」

「いや、結構。ありがとう」

返してくれたティーカップを受け取り、散らかったダイニングテーブルの上におきます。

けど、あんなに警戒してたのに、こんなにあっさり飲んでくれるなんて、変ではないでしょうか。

「欲しいって、どう言うこと?」

「そのままだよ、僕は君をスカウトしに来た」

「スカウト」

「そう。別の仕事のついでだったんだけどね。一人だと、大変だから」

サムさんは笑顔のまま、突然ピストルを私の眉毛と眉毛の間に向けました。

あまりに急なことに、ドキッとすることもありませんでした。体が動かない、死ぬんだ、と思いながら、やけにゆっくり引き金を引くのを、ぼうっと見ていました。

けど、ポン!と軽い音を立てて銃口から咲いたのは、一輪のバラでした。

「僕と一緒に来ない?」

「な、んで?」

カラカラの口からやっと出た言葉に、サムさんは銃口から薔薇を抜き、私に差し出しました。

「死神の優秀なブレーキなんだってね」

「違うよ」

一瞬、シンと静かになりました。微妙な空気を変えるように一つ咳払いをして、人差し指を立てます。

「じゃあ、相棒、かな」

「違うよ」

私はもう一度首を横に振り、にっこりと微笑んで見せました。それとサムさんが窓の枠から見えなくなったのは同じタイミングのことで、さっきまで薔薇を出していたピストルだけが、割れた窓ガラスの隙間から、血塗れの腕と一緒にブランと垂れています。

「エドはね、私の、全部なの」

そうです、エドは私の全部だし、エドの全部も私なのです。

腕が揺れ、親指が引き金にかかります。

サムさんのピストルは、きっと「ガバメント」でしょう。少し前に、エドが使っていたものと同じです。

私は慌ててテーブルの下に潜り込みました。当然こちらは見えていないので、銃口をめちゃくちゃに向けて、弾丸を辺り一面に撒き散らします。

床は穴だらけで、柱に着弾するたびに、古い教会がグラッと揺れます。その中の一つが、ガラス瓶を掠めました。

パリン、と、あっけないほどに、乾いた、高い音が、やけに澄んで響きました。

お兄さんの赤いピアスも、ローズの琥珀の指輪も、恐ろしく美しい薬莢も、一瞬飛び跳ねて地面に落ちていきます。

ゆっくり、ゆっくり落ちていくのに、私はそれに手を伸ばしても、受け止めることはできません。

カチャン、カチャ、と、軽い音を立てて、それは床に落ちて、少しだけ欠けてしまいました。

ええ、私の宝物が欠けてしまったのです。

お腹の奥が、スッと冷たくなりました。

サムさんの人差し指は、まだ引き金にかかっています。けれども、弾がなくなってしまっているのでしょう。響くのは、中でネジが空回りする音だけです。

私は、ポケットに入れていた拳銃を取り出しました。そして、ヒクヒクと痙攣している、彼の右手に、銃口を向けます。

木に向けて練習した時よりもずっと、頭の中はクリアでした。緊張もしていません。それどころか、手に馴染んだような心地さえしました。

引き金を引くと、ダァン!と乾いた音がして、硝煙の香りがゆらゆらと上りました。それは、瓶に閉じ込めておきたいほど、クラクラするような、暴力的な、そんな甘い香りでした。

一拍置いて、ブワッと血液の臭いが広がります。手の甲の、ちょうど真ん中を撃ち抜いた弾丸は、壁にめり込んで止まっていました。

「っ、ゔっ………」

サムさんの呻き声が低く響いて、力が抜けて、ピストルがガシャ、と音を立てて床に落ちました。力なく垂れた指の先へ、真っ赤な血が、ダラダラと流れています。やがてそれは、床に水玉模様を作りました。

「だから、サムさんと一緒には行かない。無理やりが嫌だったから、飲んでもらったの。ごめんね?」

返事はありません。

ただ、荒い息だけが冬のキィンと冷たい空に響いています。

エドなら、こういう時どうするかしら。

私は、少し悩んで、口を開きました。

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