不安

死神は、クァ、と大きなあくびを一つ溢した。頭をガシガシと強く引っ掻き、伸びを一つ。

からりと晴れた、風の強い日だった。陽が傾きかけ、じきに夜が来る。東の空は、既に鮮やかなまでの紫に染まっていた。

「暇ァな……」

彼は、新しく廃工場で拾った鉄パイプを杖のようにして立ち上がる。

この島は、昔、軍事工場だった。犯罪者を収容し、武器を作る。しかし戦争が終わり、政府に見捨てられそうになったところを、憲兵とそれに連なる少しの富裕層が武力を持って制圧。島は、本国で生きられなくなった人々の避難所となり、歪に成長した。

そのせいか、技術がぐちゃぐちゃに入り乱れている。その証拠が、死神の武器である鉄パイプだった。建設に使うそれが、今では新たに島に入る人間もいないため、関係のない工場に大量に遺棄されている。

さて、廃工場とはいえ、屋根もあるし壁もあるここは、素行のよろしくない少年の溜まり場としてマークされていた。死神はここで、マネキンのように、いつ来るかもわからない「エサ」を待っているのだった。

家は安全だ。

オリヴァの監視下にある。言い換えれば、庇護下にあると言ってもいい。死神がいなくなれば、1番に困るのは彼であった。そのため、マリーを一人で留守番させていても問題ない。

マリーは死神のブレーキだ。彼女自身がどう思っているかは関係なく、米神に銃を突きつけ、死神に「止まれ」と命じれば、間違いなくその通りになる。

その為に、一度顔を見せたのだ。ブレーキのメンテナンスも怠るようならば、彼は憲兵を見切って、その気性のままに人を殺すだろう。

「来ねンかな……」

ごろり、とアスファルトの上に寝転がり、足を組んで、空を見上げる。気分は釣り人だ。

ぺっとりと耳を床につけ、目を閉じる。とろとろと揺らめく青い瞳が、瞼から覗いたり隠れたりを繰り返す。ざらついた声が、キンと冷たい空気に溶けた。

陽が完全に沈み、やがて東の空が白み、朝日が昇る。そうして、やっと獲物はその工場に姿を現した。

「最後の一人」として見せられた写真の少年と、唸るチェーンソーを抱えたベージュのモッズコートの少年が、工場に飛び込んできたのである。

「やだ、やめてくれ、俺は何もしてない!」

「知らない、さ!」

歳はほとんど変わらないだろう。身長は、モッズコートの方が少し低いくらいだ。

なるほど、あれがスプラッターだろう、と死神は一人で頷く。

スプラッターは、雄叫びの様にエンジン音を上げるチェーンソーを振り回す。細やかな刃は泣きながら逃げ惑う少年の服と皮膚を切り裂き、傷跡から真っ赤な血が舞う。ヒ、と少年の喉の奥から引き攣った様な声が捻り出る。

「良いから、黙って、殺されてくれ、よっ!」

「お願いだ、なんでもする、助けてくれ!」

命乞いの途中で、足が絡まり、アスファルトに尻餅をつく。少年の顔が、絶望に染まった。

スプラッターの表情は逆光でよく見えない。しかし、白い歯が笑顔の形に覗いた事だけが、はっきりと見てとれた。

「嬲り殺しにしてやる!」

「悪趣味ァんだよ」

イラついた低い声と共に、涙を浮かべた青い顔の少年が、こめかみを殴られて吹っ飛んだ。まんまるに見開かれた目が最後に捉えたのは、幽鬼の様にダラリと立っている、黒い男だった。フードから覗く青い片目には、長いまつ毛が影を落としている。

ああ、この男が、冥界からの使いなのだ、と、少年は走馬灯を見る暇もなく思った。

頭がコンクリートに叩きつけられ、パキャ、と音を立てて頭蓋が割れた。傷口からは、スイカ割りの様に中身がまろび出ている。

ポカン、と口を開けたままのスプラッターに、死神は無表情で足を進めた。

「よォ、スプラッタァ。愛しき同類。悲しき親友」

ザリザリと不愉快な音を立て、鉄パイプを引きずる。時折、小石に引っかかり、ゴンッと短く鈍い音が響く。その音で同類であると気づいたスプラッターは、表情をパアッと明るくした。

「死神」

ポツリと、言葉と同時に笑みが零れる。

ベージュのモッズコートを纏ったその男が、真っ黒な目をキラキラと輝かせて振り返る。それに合わせて、ギュゥンドッドッドッ、とチェーンソーが獰猛な産声を上げた。

「探してたんだ、死神!」

いきなり大声を上げたスプラッターに、死神は光のない青い隻眼をパチパチとしぱたかせ、相手を観察する。

やけに小柄な男であった。死神と比べても、頭ひとつ分は違う。四肢も細く、少し力を入れただけで折れてしまいそうなほどに華奢である。チェーンソーよりも、病院のベッドが似合う、少年と青年の間のような男だった。

そこまで結論づけて、面倒臭げに「あー、」と掠れた声を上げて、俯き頭の後ろをガリガリと引っ掻く。そして、眉を顰め、心の底から面倒臭そうに口を開いた。

「俺ァ、お前を殺しに来たンだが」

「知ってるさ!」

ギュゥンギュゥンと慣れたように唸り始めたチェーンソーを真横に振り抜く。死神の服の1フィート先を、刃が掠めた。

「危ねェだろ」

顔を顰めるも、スプラッターは尚笑顔である。

肩を少し縮めて、伏し目のまま、眉を歪めて唇だけで笑ってみせる。

「聞いてくれ!僕は怖いんだよ、死神。いつ殺されるか分からない。見るものが全部敵に見える!」

死神は何も言わない。

「だからさ、嬉しいんだ!見えるところに敵がいる!こいつを殺せば、ゲームクリア!何も恐ろしいものはない!なぁ、兄弟、同類なら分かってくれるだろ!?」

言い終わらないうちに、縦にチェーンソーを振り下ろす。激しい動きであるくせに、一切乱れない息が異様だった。

興奮しきって瞳孔が真っ黒に開いている。問いかけの形をしているくせに、明らかに答えを聞くつもりはなかった。

鎖斧の悲鳴とスプラッターの笑い声が歪な不協和音を奏でる。死神は耳が痛くなって眉を顰めた。

無造作に振り抜かれるそれは、言い換えれば先が読めない。工具であるはずの凶器は、見た目のインパクトも大きい。被害者たちが何もできずに屍になって行ったのも頷ける。

これで終われる、と、安堵にも似た笑みを浮かべ、彼は凶器をまっすぐ振り下ろした。

「で?」

冷え切った声が、スプラッターの鼓膜を揺らした。手に持ったそれを唸らせながら振り返るも、そこは無人である。

死神は、喉をグルグルと猫科の猛獣のように鳴らしながら、まっすぐ横に鉄パイプを振り抜いた。

間一髪避けたものの、足が絡まり、地面に腰から座り込む。その目前に、引きちぎられた後のような鉄パイプの先が突きつけられた。

「終わッたかァ?」

無機物をじみた青い瞳に、スプラッターは漸く、目の前の死神を「敵に見える」ではなく「敵である」と認識した。辛うじて手放さなかったチェーンソーを再び突きつけようとするも、脛を殴られ、思わず落とす。

アスファルトに重い鉄の塊が落ちた音が鈍く反響した。スプラッターは、ポケットからバタフライナイフをパチンと取り出した。そのまま、目前の敵に飛びかかる。

死神はそれを半身で避け、突き出されたナイフの先に左手を突き出した。

グジュ、と不愉快な音がして、大きな掌に刃が貫通する。

スプラッターは、ニィと歯を見せて笑った。

ナイフを引き抜き、その顔面を切り裂こうと利き腕を振り上げたその瞬間、薄汚れたスニーカーを履いた死神のつま先が、その米神を蹴り抜いた。

脳が揺れる。

一瞬目の前が暗くなり、ア、しまったと思った瞬間には腰をついていた。

その鼻先に、先のひしゃげた鉄パイプが突きつけられる。

凶器の主は、音を立てながら首を回し、あくびをして独り言のように口を開いた。

「オレァ、殺しは好きじゃねェんだ。疲れるし、手も痛む」

スプラッターの口が歪む。彼の革靴を履いた足が死神の脛を捉えた。しかし、泣き所を蹴られた本人は、眉間に皺を寄せただけであった。首の骨をを再びゴキゴキと鳴らして、鉄パイプでその頭を殴りつけた。

慌てて腕で頭を守る。しかし、なんの容赦もなく振るわれた鉄の棒は、その腕の骨を折り砕いた。

鈍い音と意味にならない母音を無視して、死神は続ける。

「けどなァ、どうしてもやりたくなッちまうンだ。野良でやってりァ、いつかはパクられて豚箱だ。あんなサディストの集合住宅になンざ、誰が戻りたいンだ?」

教ェてくれよ、と薄く微笑む。

慈悲さえ感じさせるようなそれは、この世のものではないと錯覚させる。母のような笑みであった。

こめかみに向けて、凶器を振り抜く。

ガァン、と重たい音がして、スプラッターはコンクリートの地面に倒れ込んだ。

死神はしゃがみ込み、優しく頭を撫で、そのまま視線を合わせる。鼓膜を揺らす声は、子供に言い聞かせるように穏やかである。

「なァスプラッタァ、兄弟ならわかンだろ?理解できたンなら、オレンために死んでくれ」

呻くスプラッター。その片方の視界は、血で赤い。彼が最後に見た景色は、死神の三日月型に避けた唇と、振り上げられた鉄パイプであった。

グシャリ

針金のように細い体からは想像できない力で、死神はスプラッターの頭を叩き割った。

標的が事切れたのを確認した彼は、ガリガリと頭をかいて、鼻の上に浮かび上がった汗を拭った。運動部の少年がやるようにしてアスファルトに座り込む。ベチャ、と下着まで水分が染み込む感覚がして気持ち悪かったが、気にするのをやめて空を仰いだ。

「……つァれァ……」

ピカピカ光る星を眺めながら、吐息と言葉の中間ほどの言葉をこぼす。電球ひとつないからか、冬の澄んだ夜空に、ぶちまけられたような輝きがよくわかる。いつかの小説で読んだように夜空に手を伸ばそうとして、やめた。これ以上腕を使えば、明日筋肉痛になるとわかっていたからだ。

二度とやりたくないと思うほどの疲労と、やり遂げた達成感。

酸素が足りなくなって、頭の奥から黒板を引っ掻くような音がした。

ふと出てきた急な喉の渇きに、唾を飲み込む。

高音のようなそれに、無理やり動かされるようにゆるゆると立ち上がり、スプラッターの荷物を探る。緩慢な動きでリュックサックを探り、コーラのペットボトルを緩めた。

ブシ!と音を立てて彼の顔面にコーラが噴き出す。濡れた前髪を犬のようにして水滴を飛ばし、鉄パイプを握り直して、中身が出た頭に叩きつけた。

「……クソが」

ビチャ、と血が飛び散り、ベタつきがひどくなる。むせるような鉄の匂いに、さらに苛立ちが募った。鼻ァバカンなる……と呟き、大きな手を添えて首をゴキリと鳴らした。

死神は、どこか冷静な頭で「黒い服で来てよかッたァ……」と黒い服しか持っていないくせに呟いて車庫の出口へと足を進めた。

と、忘れ物に気が付き、踵を返す。

「スプラッタァ、お前、良いもン持ッてたなァ?」

返事はない。ただの独り言である。

(マリィァ、こォいうン好きだッたな)

スプラッターの腕には、銀色の華奢な腕時計が巻き付いていた。何人か前の依頼人も、似たものを身につけていたことを覚えている。

先日厳しく言いすぎてしまったので、光り物で機嫌を取ろうとする作戦であった。

他人の腕時計は、なぜこんなにも外しにくいのだろう。内心そう毒付きながら銀色のそれを外す。ドイツの老舗ブランドのものである。文字盤の裏に、アーチ型にロゴが彫られている。

ザワリと背筋が泡だった。

直感に近いそれと同時に、頭の奥で依頼人の言葉がリフレインする。「この時計は二組で一つになっている。夫婦時計さ。一つがシルバーでもう一つが黒。両方とも美しいだろう?」そう聞いてもいないのに自慢げに笑う、はちみつ色の目をした男。

死神は、弾かれたように顔を上げた。

「もう1人……」


「マリィ!」

彼女は、水を見た猫のように肩を跳ねさせ、数度瞬きして死神を見た。真冬だと言うのにドロドロに汗をかき、首に髪の毛がベッタリと張り付いている。

マリーは、初めて死神が息を切らしているのを見た。

「走ってきたの」

小さな歩幅で駆け寄り、むせかえるような血の匂いに一瞬顔を顰めながらも、死神を覗き込む。そして、息を呑んだ。

血の気が失せて真っ青になった顔に、怯えの滲んだ瞳。彼女の肩を掴む筋張った指は震え、唇からは、浅い呼吸がヒューヒューと漏れている。

「コーヒー、飲も。白ウサギに、豆もらってきたの。座って」

手を引くと、ノロノロ歩いて、糸が切れたように椅子に座る。その様子を確認して、机に投げていたマグカップを石鹸で洗って、片手鍋をコンロにかけた。

「外、寒かった?」

「あァ」

「そっか。怪我は?」

「してねェ」

「そっか」

コーヒーミルでガリゴリ豆を挽いて、ドリップペーパーに湯を通し、ドリッパーに豆を入れて、少しだけ沸かしたばかりの湯を注ぐ。

風通しの良すぎる廃墟に、コーヒーの香りが広がる。木枯らしが隙間から、忙しなく音を立てて駆けて行く。

「酒ァ?」

「この前、エドが全部飲んだ」

「そうァッたか……」

そうぼやく死神に、できたばかりのコーヒーに、たっぷりのミルクと、角砂糖を一つ入れて、マグカップを滑らせる。

「慣れたなァ……」

「でしょ」

声に、微かに得意げな色が混じる。

死神は、それを一口だけ飲んで、フゥ、と小さく息を吐いた。

マリーは、椅子を引いて、彼の正面に座る。頬杖をつき、ジッと死神を見る彼女に、彼は無言で喉に手を伸ばした。細い鎖骨の間に親指を置き、ジワジワと力を込める。

マリーは、不安げに死神を見た。

「エド?」

「………置いてくんじァねェぞ」

「誰を?」

「これァ脅しだ」

噛み合わない会話に、其の場凌ぎに頷く。

死神は、パッと手を離し、ポケットから一丁の拳銃を取り出した。

ジョシュのポケットに入っていた、自動拳銃である。スペインで生産されていたころの、20年ほど前のジュニア・コルトだった。

「今日中に、扱えるよォになれ」

「何かあったの」

死神は答えない。

マリーを立たせ、彼女の後ろに立ち、右手でしっかりとグリップを握らせた。

「足、肩幅」

開け、と言うことだろう。

「左手ェ使ッて、グリップォ握る」

左手で右手を覆うようにしてグリップを握り込み、そのまま引き金に指を引っ掛ける。大きさの割に、ズッシリと重く、冷たく、マリーの体温を奪っていくようだった。

「的ァあン木。穴ァ見えンだろ」

ざらついた声が、洗脳するように鼓膜に染み込む。マリーは、その声に持ち上げられるようにして、銃口をまっすぐ木に向けた。

ハ、と息を吐く。口から溢れたそれは真っ白なのに、こめかみには汗が伝う。

「背中ァ。真ッ直ぐ伸ァせ」

声に引っ叩かれるように背筋が伸びる。

銃口の先に人はいないのに、殺せてしまうと言うだけの事実に、喉の奥が引き攣りそうだ。

満足げに喉を鳴らし、マリーの髪の毛を乱す。

膝をつき、後ろから抱きしめるようにして、拳銃を握ったままの彼女の手を握り込む。そして、脳に染み込ませるようにボツリと言った。

「死にたくァねェか?」

低い体温は、移動の時のものと同じだ。兄のようだ、と思って、口に出すのをやめた。死神は、自分を、強く美しい崇拝対象にしたがったから。

この男がどこへ行きたいのかはわからない。しかし、地獄であっても、一人より二人の方が素敵だ。

いつかと同じ問いに、マリーは小さく、しかし、はっきりと首を横に振った。

「エドが一人じゃ、寂しいでしょ」

「あァ。寂しくて気ァ狂ァな……」

二人は、内緒話をするように小さな声でクスクスと笑う。死神は、握り込んだ手に少しだけ力を込めた。

「やられる前に、やれ」

マリーは、微笑んで返事に変えた。

一発の弾丸が、木の幹に食い込んだ。

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