新雪

彼女はサイズの合っていない薄汚れたコートを羽織り、家を出た。鍵はかけない。そんなものはないからだ。

向かう先は、何度か来たことがあるマーケットである。顔見知りの夫人が、ぱちりと彼女を見た。

「ばぁちゃん」

「あら、あらあら!」

夫人はパッと顔を輝かせてマリーに笑みを向けた。

「1人?」

エプロンで手を拭いながら、底のすり減ったサンダルでマリーに駆け寄る。

「ん」

「お使いかい。偉いねえ」

夫人が頭を撫でようと伸ばした手を彼女は頭を横にして避け、「エド、知らない?」と目を見て言った。

初老の婦人は首を捻り「知らないねぇ」と答えた後、人の良さそうな笑みを浮かべてバスケットいっぱいの肉とオレンジを彼女の細腕にかかえさせた。

「そうだ、あの男前に肉も食べなって言って聞かせてやりな。あんなにヒョロヒョロで、いつ倒れてもおかしくないじゃないか。持てるかい?ああ、オレンジはオマケだよ。息子の畑で山のように採れたんだ」

エプロンの裾を翻し、婦人はパッと笑った。

「お金、持ってないよ」

「良いんだよ、その代わり、またお買い物においで」

ヒラヒラと手を振り、押し退けるようにして入ってきた白髪混じりの男性に駆け寄る。マリーは少し眉を顰めて他の店に向かう。

しかし、誰に聞いても返事は芳しくない。

本屋のミスターは、いつの間にか店ごといなくなっていた。

陽気な郵便屋のジェントルも、「知らない」と返し首を横に振る。

彼女は、小さな公園にたどり着いた。

そこがどこであるかも知らない。迷子と呼んだほうが適切だろう。

(やっちゃったなぁ)

小さなブランコがひとつあるだけの公園である。

そこに腰掛け、ポケットに入れていた折り畳みナイフで、オレンジに線を入れた。もちろん、彼女がそれを持っているのは、死神には秘密だ。気づかれた瞬間に没収されかねない。そこからオレンジを慎重に二つに割り、さらに半分に割って歯を立てた。

乾燥した空気が、チリチリと彼女の頬を撫でる。

果汁でベタつく口元を、コートの袖で拭う。ザラザラとした感覚に眉を顰め、空を見上げた。

カラリと晴れていた空は、いつのまにか、泥水を吸った布団のような雲が広がっている。

マリーはひとつため息をつき、吐き出した白い息を見つめた。

「あれ、マリーじゃん」

「白ウサギ」

「どしたの?てか、その大荷物、何?」

ケタケタと笑いながら、白髪赤目の彼女はタバコの煙を吹き出した。黒いワンピースを翻し、白いコートを肩にかけたまま、ブーツをカツカツと鳴らしながらブランコに駆け寄った。

サングラスをポケットに入れ、キョロキョロと辺りを見回す。

「あれ、あの色男は?」

ス、と白ウサギから目線を逸らし、マリーは小さく口を開く。

「居なくなった」

「え、本当に?」

彼女の表情から笑顔が消える。

マリーの前にしゃがみ込み、眉をハの字に寄せてその顔を覗き込んだ。

「いつから?」

「今日の朝」

「一緒に探そうか?1人じゃ危ないでしょ」

まだ長いタバコを地面に押し付け、マリーに笑いかける。

「この辺治安も良くないしさ。そろそろ雪降りそうだし」

「雪?」

「雪。見たことない?」

白ウサギは、葉の付いた枝を拾ってガリガリと地面をひっかいて歪な六角形を描いて見せた。

「小さいね、こんなのの塊が、空からヒラヒラ降ってくるの。冷たくてさぁ、指先冷えるし、マジ最悪」

「嫌いなの」

小さく首を傾げるマリーに、彼女は困ったように「嫌いとは、少し違うかな」と薄く笑った。遠くを懐かしむように目を細め、少し悩んで

「綺麗だよ」

と呟いた。

「綺麗で、怖い」

マリーは、相反する形容詞に首を傾げた。白ウサギは寂しげに言った。

「いつか、わかる時が来るよ」

しばしの沈黙。

パチン、と空気を変えるように手を叩き、彼女はマリーに手を差し伸べる。

「行こう。送るよ」

「いらねェ」

ゾッとするほど低い声がボツリと響いた。

肉食獣の威嚇にも似た唸り声を上げ、大きな手が、バチンと音を立てて白ウサギの華奢な手を弾いた。彼女は驚いたように目を大きく開いて、一瞬で安堵の笑みを浮かべる。手の主を見ずに、彼女は言い放つ。

「行き先くらい、伝えなよ」

「黙れビッチ。俺とマリィン話だ。横割りすンじゃァねェ、殺すぞ」

「あー、怖」

彼女は首をすくめ、公園から出て、少し離れたところで再びタバコに火をつける。

死神は、それを一瞥して、マリーのつむじに向けて声をかけた。

「良い子ィしとけッてッたろォが」

悪戯した子供を咎めるような、柔らかい口調。

そのまま、大きな手で彼女の頬を張った。

バチィン!とゴムを伸ばしたような大音がして、一拍遅れて少女の白く柔らかな頬が赤く染まる。白ウサギの手を弾いた時とは、比べ物にならない威力だった。

マリーは、頭を揺らされたような気分になって、思わずブランコから転げ落ちた。何が起きたのかわからないような顔をして、ゆっくり瞬きして死神を見上げる。ジンジンと頬が熱を持つ。一拍置いて自分が叩かれたことを理解した。見下ろす死神のその表情は逆光でよくわからないが、唇をきつく切り結ばれていることだけがよくわかる。

死神がマリーに手をあげたのは、これが二度目だった。

「俺ァ同じ事ォ二度言う趣味ァねェ」

彼は、マリーの喉を撫でて、少しだけ力を入れた。

「今日ァ、迎えに来る。それまでここで、ウサギと待ッてろ」

それだけ言って、死神はゆらりと踵を返す。

白く燻んだ空気に、黒いシルエットがぼやけていく。

何故だか、しばらく会えないような気がして、マリーはそれをジッと見つめていた。

「大丈夫?」

彼女を現実に引き戻したのは、白ウサギの心配そうな声だった。彼女は、マリーの唇から細く垂れた血を袖で拭うと、痛いほどに冷たくなった手で、熱を持った小さな頬に触れた。

「……痛い」

マリーはポツリと小さく呟く。

その言葉は、彼女の中にストンと落ちた。

痛かったのだ。

心臓の奥が締められたような感覚と一緒に、涙が一粒、ころりと瞼から転がり落ちた。

(痛くて泣いたの、久しぶりだな)

頭の中の冷静な部分とは裏腹に、頬と瞼の奥は沸いたように熱い。けれどもそんなことより、心配して探していた死神に理由もわからず打たれたのが悲しかったのだ。それを理解して仕舞えば、クールダウンした気持ちとは裏腹に、ボロボロと涙は止まらない。

さて、ここで焦ったのは白ウサギである。

当たらなかったとは言え、銃口を向けられてもぼうっと立ったままだったマリーが泣いたのだ。白ウサギが相手にしている子供も泣かないわけではない。しかし、その時は8割癇癪を起こしているだけなので、何も言わずに冷静に待つしかない。

どうしたらいいだろうと腕をうろうろと宙に彷徨わせて、それでも一つ、彼女の心の言葉が唇からポツリと落ちた。

「人間らしく、なったね」

マリーは小さく首を傾げる。

視線が交わって3秒。彼女はあ、と口を押さえて、「違う!」とそれなりのボリュームで叫んだ。

「違うよ!?今まで人間らしくないとか、人形みたいとか思ってたわけじゃないけど、マリーくらいの子って、癇癪起こして泣くからさ。それがないって、珍しいなって思って、別に不気味とかは全然思ってなくて」

「シスター」

「ハイ」

「怒ってないよ」

彼女は(違う!)という言葉を飲み込み、ガックリと項垂れた。

もはや何を言っても言い訳にしかならないと分かったからである。

それからしばらくして、空はあっという間にオレンジからネイビーへと姿を変え、あっという間に黒になった。昼間に空を覆っていた白い雲は、いつのまにか、分厚くなっている。

耳の後ろを、風が鋭く通り過ぎる。

「降るかもね」

「雪が?」

「そう、雪が」

はぁ、と吐き出した息は白い。

どこから拝借したのか、ランタンにマッチで火を灯し、空に掲げて、白ウサギが微笑んだその瞬間だった。

一枚のそれは、しずかに舞い降りた。

大ぶりで、遊具に触れては溶けて消える。

マリーは、新緑色の瞳を見開いた。

澄んだ藍色の空を、彼女の吐息が白く濁す。

その奥で、白銀がハラハラと舞っていた。

死神の黒いコートから、白く細い手のひらをかざす。マリーはそこで、初めて干したてのシーツよりも白いものを見た。

紙屑にも似たそれが、コンクリートの地面に触れては消えてゆく。その光景が、なによりも幻想的に見えた。

「さて、イカれ男が帰ってきたし、私もそろそろ帰ろうかな」

白ウサギが立ち上がるのに合わせて、それはヒラヒラと逃げる。

「イカれ男って?」

「あいつに決まってるでしょ」

グッと大きく伸びをして、ランタンをマリーに持たせ、「あげる」と微笑んだ。そのまま、土を踏みながら、出口へと歩いていく。

白ウサギの、名前の通り真白い髪の毛が揺れ、それの影のように、人影が公園へと足を踏み入れる。

「マリィ」

ザラついた声を聞き、彼女はその人影を見た。

耳鳴りがしそうなほどの寒さであるというのに、死神は、黒いシャツに黒いスラックスという、教会を襲撃した時と同じ出立であった。その中で、浮き上がるように肌と目だけが明るい。

ランタンとは正反対の、不気味さを覚える明るさであった。

「マリィ」

死神は、再び手繰るように名前を呼んだ。

彼女は静かに振り返る。ひらり、と、彼女の動きに合わせて空気が揺れた。

「寒かァねェか?」

「それよりも、綺麗」

「雪が?」

「雪、うん、雪が」

紅潮したマリーの頬に、一枚の白い欠片が落ちる。

彼は、それに親指の腹で触れた。

溶けたばかりの氷よりも、彼女の頬は冷たい。触れた箇所が、切り裂かれたようにキィンと痛んだ。それを無視して、耳にかけて手をスライドさせる。

鉄の香りが、空気を汚した。

マリーは静かに眉を顰める。

反対に、死神は恍惚とした表情を浮かべていた。

「アァ、キレェだ」

粉砂糖を落としたようなモノトーンが、二人の世界に広がっている。

マリーは、頬に赤く太い線を残したまま、ひらりと大きなコートを翻した。

サクサクと白い地面を踏みしめながら、森の奥へと足をすすめる。白い地面が、小さな足跡の形に凹んだ。

「ァ?」

「帰るんじゃないの」

温度を感じさせない声だった。

新緑色の瞳に、白い結晶がひらひらと映る。

栗色の髪の毛に、白が穏やかに降り積もる。

死神は、掌を広げて、人外めいた細長い指でその髪を梳いた。

「マリィ」

彼女は何も答えない。

ただ、沈黙してその大きな掌に頭を寄せた。

「で、その大荷物ァどうした」

「ばぁちゃんがくれた」

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