盲信

22時の目覚まし時計が、ジリリリリ、とけたたましい音を立てた。死神は、時計全体を上からすっぽりと覆ってしまえそうなほど大きな手で、乱暴にアラームを止める。

例の時間である。

彼は、この時間になると、どれだけ酔っ払っていようが、長い足をバネのようにして跳ね起き、フラフラと一人でどこかに行ってしまう。

しかし、今日は違った。

まだ半分ほど残った煙草をテーブルクロスに押し付けて消し、トマトの匂いが微かに残る缶の中に押し込んだ。

猫のように体を伸ばし、退屈そうに童話のページを捲るマリーに、

「来るかァ?」

と、顔をグッと近づけ、煙草の香りがする言葉を吐いた。マリーは、なんのことかわからないままに彼を見つめる。そして、青と白く濁った両目に突き落とされるように、ゆっくりと頷いた。

「良ィ子だ」

喉を指先で撫で、死神はオイルライターでランプに火をつけた。薄暗い部屋に、オレンジ色がポッと灯る。人工的な白熱電球とは違う原初の温かみに、マリーは微かに目を細めた。

死神は、慣れた手つきで扉を開き、壁と扉の隙間に体を滑り込ませた。扉は閉めず、ジッとマリーを見た。言葉で着いてこいとは言わず、ただ見つめるだけである。彼女は、慌てて自分のランタンにマッチで火をつけた。

ここは、普通の一軒家である。

部屋はリビングダイニングの一室しかない。個人の部屋があるらしい二階は、階段が叩き壊され、立ち入ることすらできないが、普通の一軒家のはずだ

そんな建物で、隠すようにして作られた地下室に、ライフラインが通っているだろうか。

答えは否である。

流れるような動作で開けられた扉の先は、ポッカリと闇が口を開けているだけであった。下へ続く階段は存在するが、ただそれだけである。

首から下げたロザリオを握りしめ、死神はランプを翳し、階段へと足をすすめる。

コォン、と、石段に足をかけた。

暗く湿った空気に、音が連鎖するように響いた。

くるりと黒い髪を揺らし、死神が振り返る。

「来ねェンか」

オレンジ色の光を吸い込み、反射することはない。それがなによりも美しく見え、マリーは唾を飲み込んだ。

震える足取りで一歩を踏み出した彼女に、薄く笑みを浮かべて前を向き直した。

暗い階段に、二つの足音がこだまする。

雨が降っているわけではないのに、どこからか、ピチャ、と高い音が聞こえて来る。1フィート先には既に闇が広がっており、ランタン以外に二人を導くものはない。

不安を覚えるマリーは、大きな背中を見失わないように、足速に階段を降りるしかなかった。

死神は、常に彼女を抱き上げて移動する。しかし、その日は違った。ゆっくりとした足取りではあるが、歩幅は大きい。

ギィ、と傷んだ扉を開いた。

分厚い樫の木で作られた扉は重く、黒く塗りつぶされている。銅でできたドアノブは、所々が青く錆びていた。死神が開かなければ、彼女は間違いなくぶつかっていただろう。

「入れよ」

普段よりも、幾分かはっきりとした口調であった。いつも視界を遮るように被っているフードは、いつのまにか外されている。不吉な笑みを浮かべている唇は硬く切り結ばれ、瞳は穏やかに凪いでいた。

その様は既に死神とは言い難い。

破壊の化身、血の代わりに水銀が流れている、ヒトの形をした何か。それが、ただの物静かな青年に見えた。

武器を持っているか否かのみではない。

纏う空気が、明らかに、解けるように変わったのだ。子供のような、悲痛なそれへと。

エドワード・グレイは慇懃な仕草でマッチを擦り、地下室に火を灯す。

マリーは、大きく新緑色の瞳を見開いた。

広い空間である。人が50人集まり、尚余裕のある部屋だ。しかし、家具は極端に少ない。

手枷と足枷のついた、古い椅子が一つと、床に落ちた鞭が一本。天井に頭がつきそうなほどの聖母像が一体。そして、大時計が一つ。

大時計は、こちらを責め立てるようにその秒針を神経質に刻んでいる。アナベル邸とは比べ物にならない、射抜くような視線が360度全ての方角から突き刺さるように錯覚してしまう。マリーは、数秒立っていただけで、自分が何が悪いのかもわからずに、謝罪の言葉を口にしそうになった。

しかし、エドワードは違う。

部屋を明るくした後、慣れたように腰掛ける。

ギシ、と椅子が悲鳴を上げた。しかし、それを気に留めることもなく、聖母像を見上げて手を組んだ。肘を膝の上に置き、組んだ手に額を落として、硬く瞼を閉じる。

ピクリと筋肉がひとつ動くこともなく、まるで石像のようであった。血液すら凍てついてしまったようにも思えた。眠っているのかと錯覚するほど薄い呼吸音が無ければ、死んでしまったのではないかと思うほどである。

重たい静寂であった。

マリーは、声をかけようとして、上げた手を下ろした。少しでも刺激してしまえば、壊れてしまうと思ったからだ。それと同時に、こんな礼拝室があってたまるか、とも。

そこは、明らかに、何かを懺悔するために作られた部屋だった。

服の裾を固く握る。落ち着かなければと思うほど、呼吸が浅くなっていく。マリーは、目を閉じて、深い呼吸を一つした。

そうして、もう一度目を開けた時には、エドワードは、星のような目をして像を見上げていた。

「エド」

普段はそれに必ず振り向き、暗く笑う彼は、何も言わずに煙草に火をつけた。窄めた唇から、細く煙が吐き出される。視界が白く濁り、コロリとまぶたから涙が転げ落ちた。

「ねえ、エド?」

エドワードが立ち上がったのは、煙草を全て吸い終わってからだった。曲がった腰をグッと伸ばし、マリーを振り返る。

「戻るぞ」

明かりを丁寧に全て消し、ランプを持ち上げて、来た時とは正反対に階段を上がる。

水音は、絶えることなく響いていた。

やっと普段のリビングダイニングに辿り着き、いつもと同じように椅子に体を投げ出し、ウイスキーの蓋を開ける彼に、マリーは自分の服の裾を握ったまま問いかけた。

「ねぇ、なんで私をここに連れてきたの」

「アー……」

喉に琥珀色のアルコールを流し込み、少々思案してから、コト、と彼にしては静かに机に瓶を置いた。

「お前ァ……似てンだ。特に、声が。だから……なれると思ッたが……それ以外、理由ァねェ」

ざらついた、舌足らずな、酩酊の音であった。

どこを見ているのかわからない虚な瞳が、彼女を向く。長い指が、彼女の喉を撫でた。

マリーは、安心して「そう」と小さく呟いた。

返事はなかった。

薄い胸板が、静かに上下している。

「おやすみ」

誰に似ているのか。

マリーは自分の喉を、されるようになぞる。

女っ気のない彼が、女の自分を「似ている」と形容した。それなら、相手は母親か、姉か。

頭を振って、考えるのをやめた。

ボロボロになった毛布をかけ、電気を消す。

心なしか、彼が微笑んでいるように見えた。

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