破壊者
二人の関係は、それから後も変わらなかった。
それどころか、死神は覚えてすらいなかった。
マリーはそれを見て、考えるのをやめただけの話だ。
だから、二人は、何も変わらず依頼された仕事をこなす。
「マリィ」
マリーは、返事をせずに鍵をかけ、机の上に飛び乗る。そのまま、頬杖をつき、頬を薔薇色に上気させた。
「な、なんだ君は!!ここは君のような子供が来るところじゃ」
乱入者に呆気に取られていたスーツの男が、彼女に向かって、グラスを持っていない方の腕を振り上げながら叫ぶ。マリーは、春の妖精がするように微笑んで、甘い赤色の唇で言った。
「いいの」
「はぁ?何言って」
「もうすぐ、私が『居るところ』になるから」
死神は、その様に不健全さを感じながらも、ぐるりと一度首を大きく回して鳴らす。バキ、と骨が折れたような音が響いた。
そして、ガァン!と一度、威嚇のように床を殴りつけ、うっそりと微笑んだ。とろりと垂れた青い片目は、恋する乙女のように甘い。
「皆殺しだ」
はっきりと、一音ずつ区切るように言った。
煌びやかなパーティー会場に、黒い出立ちで、幽鬼のように佇み、フードに入らなかった長い前髪が顔を半分隠しているその男。
どこからどう見ても異質であった。黒い髪の毛の隙間からギラギラと目を覗かせている。
会場がざわつく。しかし、足が鉄になったように動かない。一歩でも動けば、自分が標的になってしまうかもしれないという恐怖から、守られる側の貴族は逃れる術を知らない。
ボディーガードなど来るはずもない。先刻、憲兵がキッチリ始末してきたからだ。
こうなってしまった理由は、二日前に遡る。
とある秋の夕暮れ時、死神とマリーは、憲兵の総本部を訪れていた。
マリーの視界の隅で、紅葉した葉がハラハラと舞い落ちる。目に眩しいオレンジ色の光に、思わず目を細めた。東の空の端は、すでに青紫色に変わっている。
「マリィ、来るか」
掠れた声で手を伸ばす彼に、緩く首を横に振って答えると、「そォか」と気のない言葉が返ってくる。
丁寧に整備された中庭には、カエデやマンサクが屋根になり、暖色のトンネルが作られている。一歩踏み出すごとに、カサ、と乾いた音がした。
ここは、島を実質的に統治している、憲兵の総本部である。一面の暖色の中に、コンクリート作りの、白いビルが目に眩しい。
呼び出しの手紙を持ってきたジェントルは、「エドワード、お前さん何したんだ」と合わせふためき、「一緒に自首しにいこう」と手を握ったが、マリーは何も気にしていなかった。
マリーの両親は、憲兵によって殺された。
人災であった。
凶悪犯を撃ち殺そうとした憲兵の、流れ弾にあたったのだ。両親を撃った男は、一瞬も躊躇わず、逆に彼女の両親の死に動揺した凶悪犯を、そのまま撃ち殺した。そしてそれを上層部は「必要な犠牲であった」と判断し揉み消した。
故に、マリーは憲兵の冷徹さを知っている。公のためなら、悪魔にでもなれるのだと絶望した三年前を、忘れることはなかった。
事実、この島に裏社会以外の人間が住めるのは憲兵のおかげと言っても良い。本国から見放され、警察ですらたまの定期監査にしか来ないこの島が、無法地帯にならずに済んでいるのは、それ故だった。
だからこそ、本当に危険と判断されたなら、手紙が届くなら即押し入り後処刑されていたはずだ。無論、その時は、死神だけでなく、郵便屋のジェントルも生きてはいないだろう。
マリーはチラリと死神を見遣る。
彼は、クァ、と大きくあくびをして、背中を丸めて、冗談かと思うほど大きな手を無理やりポケットに押し込んで歩いていた。背負ったゴルフバッグが、異様に軽い音を立てている。
中身の一つは当然、いつもの鉄パイプである。しかし、今日は、それに加えて拳銃を一緒に仕舞い込んでいた。
「エド、そんなバッグ持ってたんだ」
「アー、TPOッてやつだ」
ガシガシと頭を硬い爪で掻きながら、非常用階段を上がる。カン、カン、と規則正しい硬い音を響かせる死神の後ろを、音を少し不規則にしながら、同じようにマリーが続いた。
階段を登り切り、非常出口を開けると、殺風景な廊下が続いている。合わせ鏡の世界に迷い込んだのではないかと錯覚するほどに続く同じ景色に、マリーは死神の服の裾を握った。
「ッから入れッて言われたンァが」
ぐるりと首を回して、人形のように傾げる。
「適当に開けるか」
「相変わらず頭の足りてない男だ」
コツ、とわざと音を立てて、後ろから一人の男が登場する。
軍服の男だ。
冷たいアスファルトを連想させる、黒い軍服の男である。闇を切り取ったような、気品がある、ネイビーにも似た夜の男であった。
マリーは、キッと目線を鋭くする。
あまりにも、両親を撃ち殺した男と、雰囲気が似ていたからである。幼かった彼女は、顔を覚えていない。しかし、纏う空気だけは鮮明に覚えている。死神とは質の違う、整然とした暴力性だ。
死神は、心の底から嫌そうに口を横に引いた。
尖った歯の隙間から、溜息にも似た吐息が漏れる。
「そちらの子供は」
「マリー」
死神が口を開く前に、彼女が静かに返事する。
「そうか」
死神は、マリーのことを、ずっと人畜無害な人間だと思っていた。これから、失ってしまった人に出来るだけ似せて育てようとしていた、かわいいお人形さんのようなものだった。(最近になって育て方を間違えたのではないかと思い始めたが)しかし、彼女は、小さく首を横にして、キッと軍服の男を流し目で睨みつけている。その表情は、「家」を破壊した死神ですら見たことがない、ゾッとするほど純粋な敵意に満ちていた。
男は、ポツリと小さな声で呟いた。
「56事件の時の子供か」
「56?」
それを軍服の男がわからないはずもない。しかし、一瞥しただけで、男は死神へと向き直る。
「依頼だ」
「ァ?」
凄む死神を無視して一通の便箋を見せ、
「覚えたな」
と冷ややかに言い切って、便箋にライターで火を付ける。死神は、それに対して反論するでもなく、小さく首をすくめて見せた。
それを一瞥し、カツカツと革靴を鳴らして去っていく男の背中を見ながら、マリーは小声で死神に問いかける。
「誰、あれ」
「オリヴァ・オーガスト」
カッと靴音が止まり、少し振り返って、肩にかけた軍服を揺らしながら、男はそう名乗った。
目元は逆光で見えない。夕焼けで真っ赤な廊下に、細長くシルエットが伸びている。光に縁取られた唇が、はっきりと動いたことだけがよくわかった。
マリーの背中が、チリチリと逆立った。
オリヴァは、それだけ言って、再び革靴を鳴らして廊下の影に消える。
「マリィ」
死神が彼女の手にそっと触れる。
親の機嫌を伺う様なその仕草に、マリーはゆるく首を振ってみせた。
「なんでもないよ」
死神は、続けて彼女の喉を撫でた。
生唾を飲み込む様に上下するそこを、優しくなぞりながら、うっとりと、夢見る様な眼差しで彼女の目を見つめる。
「お前ァ言うンなら、あれも殺してみせるが」
マリーは何も言わずに、オリヴァが行ってしまった道を見つめる。
死神も、従順にそれに習った。
しかし、彼女は首を横に振り、死神の長い人差し指を握りしめた。
「帰ろう」
と小さな声で呟いたのだった。
依頼書の内容は、この島で行われる、裏の権力者のパーティーで参加者を殲滅することであった。
時は翌日。警備員は全て憲兵が抑えるため、ターゲットは社会的地位が高い者。軍人がそこに手を出せばバッシングは免れないが、公にされていない死神がやるなら話は別ということであろう。
そうして、大虐殺は始まった。
音の外れたエーデルワイスを口遊みながら、死神は勢いよく音を立てて、重厚な扉を開け放った。
青、緑、茶と色とりどりの視線が、死神に突き刺さる。死神は、出立に似合わない優雅な礼をして見せ、そうして、マリーに鍵を閉めるように言ったのであった。
深夜のテレビの砂嵐や鴉のしゃがれ声、昼なのに薄暗い路地裏。そんなものがかわいらしく見えるほどに、死神の纏う空気は異様だった。確証はないが、一歩歩みを進めるたびに、何か「良くないモノ」がこちらに向かっていると、本能的にわかるのだ。
人間がまだ野生動物だった時の名残である。掃除機で丁寧に吸い取られ、部屋の隅に溜まり、普段平然煩わしいとしか思われていない塵芥の如き、小さな小さな残り滓が、全力で客全員に、早くここから立ち去れと警告している。
マリーは、自分が対象でないと理解していても、チリチリと背中が泡だった。
死神は、大きく口を横に吊り上げ、一番近くにいた老紳士に踊りかかった。横面を強く殴りつけると、宝石や銀細工で彩られた眼鏡が吹き飛ぶ。カシャンと音を立てて、フレームが曲がった。そのプラスチックが掠めたこめかみが、赤く鬱血している。当たりどころが良かったのか悪かったのか、老紳士はまだ生きていた。
死神は、その首を掴んで持ち上げた。老紳士が腕を掴み、腹を蹴り抵抗するが、彼にとっては子犬が戯れているようにしか感じないのだろう。彼の大きな手の平は、片手で首をぐるりと囲んでいる。哀れな紳士の顔色が、赤から新品のテーブルクロスのような白に変わる。
クラシックを聞くような表情で、死神は最期の力を振り絞る被害者に、ザラザラした声で囁きかける。
「ベイビィ、良ィ子だ、ねンねしな。目ァ覚めたら、ママン腕ン中だ。羨ァしィねェ、嫉妬で気ァ狂いそォだ……」
オールバックに整えた髪を乱れさせながら必死に抵抗していた彼から、くてんと力が抜けた。死神は興味をなくしたようにそれを放り投げ、手の具合を確かめるように握り、ぐるりと首を回した。
マリーは、その様を、ぼうっと夢でも見るように眺めていた。それほどまでに、リアリティがなかったのだ。例えるなら、子供の時に見た悪夢が、牛のように突進してくるようなものである。
開きっぱなしの伽藍堂の目と、ぽっかり開いた口が、無機質に二人を見ていた。
彼は、笑みを浮かべながら次々と客を撲殺していった。見知った顔もあった。おしゃべりなマフィアの若頭が、ヘタクソな命乞いの真似事をするのを無視して、流れるような動作で頭をバキャンと勢いよく叩き割った。
「やッぱ、硬ェなァ。良いもン食ッてる奴ァ、骨ァ丈夫だ」
しみじみと呟く。やれやれだと言うかのような言葉とは裏腹に、口調は歌うように楽しげだ。
クルクルとステッキのように凶器を振り回す。ガチャンガチャンと、皿とグラスが薙ぎ倒される。新品のクロスはソースとワインと血で汚れ、誰もが何あったのかと問いたださずにはいられない様子だった。
死神は、無造作にポケットから拳銃を取り出す。コルトのM1911であった。アメリカ軍でも使われる、「政府」の名を持つ拳銃から放たれた弾丸は、真っ直ぐに煌びやかな女性の眉間を貫いた。ゆらりと後ろに倒れ込んだ彼女を後目に、再び引き金を引く。腕は反動にブレることはなく、弾丸は連続して四人の頭をぶち抜いた。フッと銃口から薄く立ち上る煙をかき消し、腕を突き上げてマリーを振り返る。
「ヘッドショォッ」
少し悩んでパチパチと拍手するマリーに、死神は自慢げに歯を見せつけて笑った。悲鳴も意に介さず、手首を返し、マガジンとセフティ・ロックを、おもちゃを手にした子供のように眺める。
「流石ハンド・カノン。古いモデルでも威力ァ別格。あン堅物、面白ィもン寄越しァがッた」
そこで、クルリと振り返る。マリーと、目線がパチリと合う。死神はそのまま、大ぶりの軍用銃を彼女に投げた。
目を丸くしてキャッチする彼女に、「持ッとけ」とだけ声を掛け、再び利き手に鉄パイプを握り直した。
「が、オレァこッちンが好みだ」
うっとりと鈍い銀色のそれを撫でながら、床をめいいっぱいの力で殴りつけた。
ガァン!と耳が痛くなるほどの音が響き、体が硬直する。悲鳴でいっぱいだった空間は静まり返り、死神の足音だけが、タンと重く鳴った。
死体と血の沼を掻き分けながら、彼は嗤っていた。やがて、黒いシャツとスラックスも、見てわかるほどの返り血で、ベッタリと二倍に重くなる。普段病的なまでに白い頬は上気し、薄ピンクに染まっている。それを彩るように、首からデコルテにかけて血が飛び散っている。青い片目はうっとりと細まり、骨が折れ、肉が潰れる不愉快な音が連鎖して、やがて動いている者は、彼とマリーだけになる。
ふらり、と死神の体が揺れた。
倒れる寸前で机に飛び乗り体を投げ出し、バタンと仰向けになる。ゴン、と頭をぶつけた鈍い音がした。
「マリィ、ワイン取ッてくれ」
「これ?」
「ヤ、赤ァ良い」
イヤイヤ期を迎えた子供のような口調で首を横に振る。マリーは、戸惑いながらも、自分の隣に立っている未開封のワインの瓶を死神に手渡した。
彼は冗談みたいに長い腕でそれを受け取り、細まった場所を、鉄パイプの血がついていないところで慎重に叩いた。パリン、と軽い音を立ててボトルが割れ、そこに唇を寄せる。
「美味しいの?」
「ァンか言ッたか?」
クンと長い足で勢いをつけ、ダンと机の上に胡座をかいて座り込む。空いた方の手で、マリーの首を撫でた。
「別に」
彼女はそう言って目を逸らす。
「お代わりあるよ」
心底嬉しそうに、切れた唇の端を吊り上げる死神に、マリーは安堵した。怪我をするはずもないが、無事で良かった、と、心の底から思ったのだ。
「ン」
返り血なのか自分のものなのかもわからない、唇の端のそれを、同じくらい赤い舌で舐め取り、ポケットから煙草とライターとを取り出す。トントンと底を叩いて一本咥え、風もないのに、回りに手で塀を作って火をつけた。
赤ワインを口の中で燻しながら飲む死神に、マリーは、ソムリエが見たら憤死しそうだと思った。味は分からないが、目を細め、口元に薄らと微笑みを浮かべる彼が、人外のようだとも。
彼女の視界の端に、ザラリと何かが光った。
机からヒョイと飛び降り、それに向けて駆け出す。
光ったのは、空になった真鍮の薬莢であった。シャンデリアの光を受け、傷だらけのそれが鈍く輝いている。
彼女が今まで見てきたものとは、別格だった。白蛇のピアスと琥珀の指輪は、透明で儚かった。しかし、これは違う。無骨で圧倒的な力を持っていた、その残骸である。
マリーは、恐る恐るそれを拾い上げた。
人差し指の第二関節ほどのそれは、落ちた時についたのか、細かく傷が入っている。底にはアルファベットと数字が並んでいる。中を覗くと、火薬が入っていたせいだろうか、真っ黒に煤けていた。
どくりと心臓が大きく鳴る。
やってはいけないとわかっている。やれば怒られるともわかっている。けど、バレなければ良いのでは?
幸い、怒る者は、ワインに舌鼓をうっている。
ごくりと唾を飲み込み、衝動のまま、舌の上に乗せようとしたその時だった。
「それァダメだ」
いつから背後に立っていたのか、死神がマリーの腕を抑えた。振り返った彼女には、逆光で表情がわからない。
焦りを押さえつけ、聞き分けのない女に言い聞かせるような口調で、さらに力を込めて、ゆっくりと一音一音区切るように言葉を続ける。
「持ッて帰るンァ良い。愛でるンも許してァる。が、口にァ入れンな」
幼い子供に言い聞かせるような事を、死神は真っ直ぐ言った。ギリ、と更に腕に力が篭り、マリーは苦痛に、眉間に皺を寄せる。
「エド、痛い」
「理解しろ」
片方の空いた手で、喉を撫でられる。そして、急に力を入れられた。気道を親指で軽く塞がれ、彼女の息が一瞬詰まる。
「髪の毛ン一本から、足ン爪の一欠まで、お前ァ全部俺ンモンだ。全部俺ン管理ン下にある」
分かッたか、と静かに問いかけられ、コクコクと必死に頷くと、死神は乱暴に手を離した。小さく咳き込むマリーの手から、空になった薬莢が転がり落ち、血溜まりに落ちてピチャリと音を立てた。
彼はそれを拾い上げ、優しく握り込ませると、ヒョイといつものように片手で彼女を抱き上げる。
「帰るンだろ、マリィ?」
マリーは自分の腕にチラリと視線を落とす。真っ赤に手形が残り、彼の指先が当たっていたであろう箇所は、青く変色している。彼女は、そこを軽く撫でながら、コクンと小さく頷いた。それからあたりを見渡し、小さく首を傾げる。
「このまま、帰って良いの?」
床は夥しい死体で埋め尽くされている。壁には真っ赤に血が飛び散り、既に乾燥して変色していた。鉄の臭いと、華やかな料理の香り、そして、ワインの香りが混ざり合い、正常な人間ならその場で吐いているだろう。
「オリヴァ、怒らせたら面倒ァな……」
「何か言われてる?」
「ぜェんぶブチ壊してこい、ッて」
死神は面倒くさそうにガシガシと頭皮を引っ掻き、不自然に膨らんだポケットに手を入れた。大きな手を開いた時、手のひらに乗っていたのは、小さな爆弾である。タイマーがついており、時間は5分を指している。
「足りるの?」
「ンァわけねェだろ」
長い指の小さな爪でマリーの額を軽く突き、抱き上げたまま、慣れた足取りで地下へと降りる。鼻歌でも歌い出しそうなほど足取りは軽く、一歩はいつも以上に大きい。階段を二つ飛ばしで降りる死神の首に腕を回し、マリーは白い頬に散ったソースを親指で拭った。
「何を探してるの?」
「ここァなァ、元々武器庫だ」
残り三つになった階段を飛び降りる。左手に抱えたマリーを右手でも抑え、体が浮いた感覚に目を細めた彼女の目尻をなぞった。
「酔ッたか、マリィ」
「ううん、平気」
死神の腕から飛び降り、暗闇をグルリと見渡す。多少慣れた視界で、壁と一体化した棚と、並んでいるナニカの影が見えた。死神が吸っている煙草とは違う、咽せそうな火薬の匂いが鼻をくすぐる。
「火薬庫?」
「あァ」
目が慣れたとはいえ、ラベルには何が書いてあるのか、ほとんど分からない。アルファベット幾つかの羅列であろうか。マリーは一度きつく閉じ、一拍置いて開けて、目を細めた。
「どれが良いの?」
「TNTッてラベルがあンだろ」
長く節くれ立った指で神経質にラベルをなぞりながら、少女を振り返らずに死神は言った。
「マリィ」
「NG」
目の前に突き出されたアルファベットを読み上げると、小瓶を透かして棚に戻した。
「半分盲ァこれだからいかねェ。一人じャァ文字すら見えねェ」
頭をぐしゃぐしゃとかき乱しながら、再びマリーを抱き上げた。死神の胸に、小さな耳が当たる。異常なまでに落ち着いた彼の心音に、マリーの心臓は嫌な音を立てて跳ねた。
「エド」
「ン?」
薬品特有の甘ったるい匂いと、同じほどに甘い声。足元に爆弾を置いて、爪先でボタンを押す。
赤い5:00が、4:59、4:58と1秒ごとに減っていく。それを確認して、死神は駆け出した。
マリーの耳元で、風が唸るような音がする。きた時と同じに、二段飛ばしで階段を駆け上がり、ドアを閉めることもなく、入り口に置いていた得物を掴む。死神の、カサついた唇に笑みが浮かぶ。そして、左手を大きく振りかぶった。左の足を引き、右の手は抱いた少女の横顔を覆っている。胸に強く押しつけられて、マリーのまろい頬がふにゃりと形を変えた。
彼はその手を、上から下へ、まっすぐに振り下ろして、ガラス張りの玄関を叩き割った。ガチャン!と大きな音がして、その窓ガラスが砕け散り、月明かりに破片がキラキラと舞い散る。
それはまるで、星が降ってきたかのようだ。
観客が二人しかいないのが勿体無いくらいに、美しい光景だった。
「捕まッてろよ、マリィ」
ニ、と彼の唇が釣り上がる。青い隻眼がキュウと細くなり、獣のような大きな吐息が耳をくすぐった。
長い脚に力を込め、半分割れた窓から飛び出した。
バリン!と音が響く。
そのまま二人は、アスファルトに転がり込んだ。
二人とも、全身細かい擦り傷と切り傷だらけだった。
先に立ち上がったのは死神だった。
頭を起こして膝をついたマリーを何事もなかったかのように抱え、一気に坂を駆け降りる。黒いパーカーの背面が、風を孕んで大きく広がった。
全身チリチリと削がれるような痛みに、マリーは一瞬眉を顰めた。しかし、死神の傷はさらにひどい。彼女を抱いた手のひらは、擦りむいて皮なのか繊維なのかも分からないものが細く垂れ、風に靡いている。
「エド、怪我、」
「あァ、痛ェ!が、止まりァ死ぬからなァ」
「それはやだな」
「だろォ!?」
いつになく上機嫌な死神は、燃え盛る恒星のようだった。はっきりと見える青い眼はギラギラと輝き、興奮で瞳孔は大きく開いている。切り傷だらけの頬は恋でもしたかの様に紅色に染まり、笑った形に開いた唇からは鋭い犬歯が覗いていた。
火薬庫の甘ったるい笑顔が嘘の様に、獣じみたそれだった。しかし、普段の「死神」の纏う、言いようのない恐ろしさは感じさせない。一頭の狼の様で、荒々しくも美しい。
心臓は激しく脈打ち、血液が流れるゴウゴウという音は濁流にも似て響いている。
死神の生涯の中で、この瞬間は、最も楽しい逃走劇だった。
死神が大きな一歩で地面を踏み締めた瞬間、爆発音が響いた。次いで、建物が崩れる音。何かが焦げる様な、嫌な煙の臭い。
駆ける彼の背中を、暴風が殴りつける。風に靡かれて舞うマリーの髪の毛を、死神は力強く押さえつけた。
「ど、うなったの、エド」
「仕事ァ終わッた」
そう静かに呟いて、振り返る。
そこにあったのは、半壊したパーティー会場だった。窓から覗くオレンジ色の炎は、建物全体を覆い隠す勢いで燃え盛っている。黒くたちのぼる煙は、消防車を呼ぶ狼煙となることだろう。地下からも火の手が上がっているのか、一階は潰れる寸前だった。
マリーはそれを、無感動で見つめていた。
建物が壊れたことより、死体が焼けて証拠が消えていくより、隣でそれを見つめる死神の方が、よほど美しかったからだ。
真っ赤だった頬はいつの間にか白く戻り、満足げに倒壊していく会場を見つめている。
まるで、精巧に作られたドールのような横顔だった。
青い瞳の中にオレンジ色の光が映り込み、希少な宝石にも似た色をしている。このまま抉り取って、瓶に詰めてしまいたいと思うくらいには。
命を薪に、業火はさらに燃え広がる。
大きな音を立てて、会館は崩壊した。
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