捨てられた子供
授業が終わり、マリーが連れてこられたのはアナベル邸であった。
相変わらず白く、無機質な、大きな屋敷である。広い廊下には無秩序に芸術品が飾られており、天井は巨人でも住んでいるのかと問いたくなるほど高い。
つまり、初めに来た時と何も変わらなかった。
「来て良かったの」
「セリーヌ様には、お話を通してあるからね。今日はアイツの様子を見るのと、こっちからも犯人探ししてみようと思って」
「できるの?」
白ウサギのシスターは、トントンとこめかみを人差し指で叩いて見せる。
「あれは肉体労働担当。あたしらは、頭脳労働担当。ね?合理的」
マリーは、目の前がぱちぱちと弾けたような感覚がした。
今まで、死神しか動けないと思っていた。しかし、自分にもできることがあると言われたのだ。彼の役に立てるなら、マリーにとって、これ以上の幸福はなかった。
「まずは容疑者のリストアップかな〜……家にいるのがー、ハウスキーパーが六人とー、長女のセラ、長男のカイル、次男のルイ、次女のアンナ、三女のローズ。んで、セリーヌ様か」
指を折りながら人数を上げていき、「多すぎ」と顔を大袈裟に顰めて見せる。マリーは、彼女を見上げて、ポツリと独り言のように言った。
「キーパーさんは、外して良いと思う」
「どうして?」
「本当に大事なものがあるなら、自分や家族で掃除するはず。人が住んでないから、汚れないし」
「なるほど。頭いいね」
片手の小指だけ立てて、少し考えて手を開いた。セリーヌ本人が狂言を起こす理由がないからである。これで、容疑者は五人に絞られた。
「セラとカイルも外して良いんじゃないかな」
「どうして?」
首を傾げるマリーに、シスターは悲しげに笑って彼女の頭を撫でた。
「セリーヌ様に、厳しく躾けられてるからだよ」
「なら、仕返しとか」
「半端なら、そうなるかもね。けど、あの人が、仕返しを許すような、優しい躾をする?」
マリーの頭の中に、セリーヌの姿が浮かぶ。
時計のような女だ。背筋はまっすぐ伸びてスラリと高く、温度を感じさせない瞳は無機物のようだった。おまけに、会社の社長という地位もある。その彼女がする「躾」は、どのようなものだろう。間違いなく、重く、鋭く、冷たいものに違いない。それでいて、人伝にたっぷりとフォローも入れるのだろうか。少なくとも、教会の「躾」はそうだった。憶測に過ぎないそれが、急にリアリティを持つ。
ゆるゆると首を横に振るマリーに、ベルは「でしょ」と心底嫌そうに口を横に引いた。
「でも、これ、想像」
マリーの言葉を無視して、ベルは顎に手を当てる。
「あとは三人か」
「どうやって絞るの」
「決まってるでしょ」
ベルは歯を見せつけて笑い、彼女にグッと顔を近づけた。
「聞き込み♡」
そう笑って、心底嫌そうな顔をするマリーの手を引き、三人の部屋のある二階へと向かった。
二回の一番ドアに近い部屋をノックする。
カタ、と部屋から微かな音がして、それきり音はしない。
「ベルだけど」
一番最初に、死神に名乗ったように完結にそうすると、細くドアが開いて、顔色の悪い男が頭を出す。死神よりも若く、ベルよりも少し年下の男である。ベルを見て表情を綻ばせ、続けてマリーを見てギョッとしたように目を見開いた。
「シスタ、どうしたんですか?」
しかし、一瞬で表情を戻し、何事もなかったようにシスターに笑いかける。マリーは(お忙しいこと)と気づかれないように目を細めた。
シスターは、男に向けて似たように笑いかけた。
「久しぶり、ルイ。調子はどう?」
「見ての通りです」
オーバーに肩をすくめて見せるルイ。骨と皮しかないような腕は生白く、死神とはまた別の細さである。「立ち話もなんですから」と部屋の中を示す手には、青白く血管が透け、不安になる程だった。
「治るかもって聞いてたんだけど」
首を横に振ってから、気づかれないように袖を握り込み、シスターは静かに尋ねた。
彼は嬉しそうに微笑み、手を広げて見せる。その腕には、何本もの管が通され痛々しい。
「もう少しですよ。新しい薬が決まったんです」
「そっか。うん。神のご加護が在らんことを」
「ありがとうございます、シスタ。それでこの子は?」
ルイはベルの後ろに隠れるようにして立っているマリーに視線を移す。彼女は、半身のまま軽く頭を下げ、「マリー・サンチェス」とだけ、小さな声で名乗った。
「今来てる用心棒の妹でね。体調が良くないみたいだから、帰らせようと思って」
「ああ、あの男」
納得したように頷いて、「けど、」と前置きして眉をハの字にした。
「申し訳ないけど、僕は何も知らないんです。ここ一ヶ月くらい、病院以外部屋から出てない」
「ごめん、無神経なこと聞いた」
ベルは軽く頭を下げて声を沈ませる。ルイは、顔の目の前で大袈裟なほどに手を振り、困ったように眉を寄せて明るい笑顔を作る。
「良いんですよ、そんなこと!それより、今度食事でも」
「あー、」
今度は反対に、ベルが眉を寄せる番だった。
マリーは少し考えて、ベルの袖を軽く引く。
「兄さんが待ってるよ、義姉さん」
ルイの表情が硬直する。
ベルは一瞬だけ、唇を歪めて、パッと笑顔をマリーに向けた。
「そうだね!じゃあ、また!」
手をひらりとふり、マリーの背中を軽く押してドアを閉め、大きなため息を一つ。
「あいつ、まだ諦めてなかったのか……」
そこまで言って、聞こえないように大股で部屋から遠ざかる。マリーが小走りで追いつこうとしているのを見て、立ち止まってしゃがみ込んだ。
「助け舟ありぁと……」
「エドとさっきの人、どっちがマシ?」
「どっちもイヤ。舌噛み切って死ぬほうがマシ」
死んだ目でゆらりと立ち上がり、大きなため息を吐く。
「さっきの人、まともそうだったのに」
「だからだよ、まともな奴とか真面目な奴とか大っ嫌い」
「優しくしてたのに?」
「仕事だもん」
ポケットから紙タバコとライターを出して、床を見て、イラついたように舌打ちをして取り出したものをポケットへ戻す。マリーはようやく、ベルが死神と連絡を取っている理由を理解した。「まとも」も「まじめ」も、死神から世界一遠い言葉である。
「次は?」
「お、ちょっと乗り気?」
「ちょっとだけ」
マリーの声に少しだけワクワクしたような色が乗る。ベルはパチンと指を鳴らして彼女の手を取った。
「アンナにしよう!」
しかし、次女は留守だった。
部屋には必要最低限の家具しかなく、セリーヌ女史のように絵画すら飾られていない。ハウスキーパーの話によれば、彼女は本土の大学へ進学したとのことだった。
「じゃあ、あとはローズだけか」
「なんで、」
マリーは独り言のつもりだったが、白ウサギと呼ばれる彼女は耳が良いらしい。くるりと振り向き、首を傾げた。
「なんで、って?」
「そんなに楽しそうなの」
「そう見える?」
ベルはニ、と歯を見せて笑った。
修道女らしくない、明るく活発な笑みだった。
「うちの父親がね。憲兵だったの」
「憲兵」
鸚鵡返しのマリーに、彼女は「そ」と一音だけで肯定を示す。そして、イタズラを思いついた子供か、あるいはアリスを惑わすチェシャ猫の様に目を細めた。
「聞きたい?」
マリーは少し考えて、小さく、しかしはっきりと頷く。ベルは赤い目を伏せた。
「嫌なやつでね。調査でめったに家にも帰らないのに、帰って来たら部屋で顰めっ面して、ずっと椅子に座ってたの」
ベルは懐かしそうに目を細めた。
「私のことが大嫌いでね」
「そう、なの?」
「そうなの。この髪と目のせいでね」
蜘蛛の糸の様に細い銀色の髪の毛を、作り物じみた白い指に絡ませる。長い同じ色のまつ毛が瞬きする度揺れ、血の色が透けた赤い瞳孔が白い光を反射している。
「母親は大事にしてくれたけど、父親は私を家から出さなかった。簡単な読み書きを教えて、あとは教会にポイ」
クシャクシャに丸めたゴミクズを籠に投げ入れる様なジェスチャーの彼女は、それでもまだカラリと夏空の様に笑っている。
「悲しくないの」
「悲しいけどね、結局自分がどうしたいかって考えたら、ここが一番なの」
ベルの年齢は死神よりも三つほど下である。閉じ込められて納得する様な性格でもない上に、やろうと思えば何でもできるバイタリティーだってあった。
「やりたいことをやるには、まずは権力と地位だからね。大事にしなよ」
「やりたいことができるから、今、そんなに楽しそうなの?」
「あとは、ちょっとした憧れ、かな」
「そうなの?」
「うん」
頷く彼女の横顔は、眩しいものを見つめる少女の様にも見えた。
「さて、昔話はおしまい!ローズ、探しに行こう!」
「どんな人なの?」
薄く鮮やかな唇に人差し指を当て、目線を上に彷徨わせる。そして、記憶を手繰って、言葉という鉤針で、頭の中に探し人を編む。
「セリーヌ様には似てない、かな。似てるのは髪が長いところくらい。金髪で、見た目は割と派手らしくて……」
「あんな風に?」
マリーの新緑色の目は、窓の向こうを見つめている。同じ方向を、ベルの視線が追いかけた。
向かいの廊下を、ツインテールを揺らして真っ赤なワンピースの女が歩いている。年は、ベルよりむしろマリーに近そうな、「女性」ではなく「少女」である。
「あれか!」
「しーッ。聞こえる」
「ごめん」
ベルは声を顰めて、気づかれないように窓に目をやる。金髪の少女は、鼻歌でも歌い出しそうなほどに上機嫌で、枠の外へと消えていった。
「あっち、何があるの?」
「階段だったと思うんだけど」
「その先は?」
「先?」
そういえば知らないな、と小さな声で呟いたベルは、片膝を立てブーツのヒールをくるりと回した。コロリ、と音を立てて取れたそれをポケットの中に捩じ込み、マリーに目配せする。
「走れるね?」
彼女は、コクリと小さく頷き、年相応に笑って見せた。ベルもそれに頷き返し、ローズが消えた方向へと足を進めた。
辿り着いた先は、地下だった。
アナベル家の者しか入れない、地下のコレクションルームである。薄暗い部屋の壁一面に引き出しが付いている。しかし、整理された様子はなく、視界を遮るようにコンテナや彫刻が立ち並んでいた。
マリーは、二ヶ月前のことを思い出す。あの闘技場での出来事も、地下でのことだった。
ゾワリ、と背中の毛が逆立つ。猛烈に嫌な予感がして、隣のベルの手に力を込めた。
ベルは、何も言わずに、その手を握り返す。
ローズはそれを知らずか、上機嫌に引き出しを開けたり閉めたりと物色している。鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。
一応、警戒しようというつもりはあるのだろう。左手には、一丁の拳銃を握っている。嫋やかな手だ、発砲経験があるのかは分からないが。
その、白く、上質な石膏のような指には、飴色の宝石がついた指輪がはまっていた。
「あいつに言いに行こう」
マリーの耳元で、ベルが囁く。
しかし、彼女の瞳は、指輪に釘付けであった。
手が動くたびに、照明に照らされてチラチラと光る。宵の明星のようなそれが、仄暗く汚されるところを、どうにか間近で見られないだろうか。
美しいものは、血染めになって、さらに輝く。
あの、白蛇のピアスのように。
「マリー?」
ふらりと立ち上がり、一歩踏み出す。小さな爪先が、コンテナを蹴った。
トン、と小さな音がしたのと、ローズが振り返ったのはほぼ同時である。
一瞬時が止まった。
「誰!」
ヒステリックにローズが叫ぶ。キン、と頭に釘を打たれたような声が、マリーの鼓膜を揺らした。
「こんっのバカ!!!」
金髪の女が発砲したのと、白ウサギがマリーを抱きしめて床に抱きついたのは、ほど同時であった。
数秒前まで彼女が立っていた場所を、銃弾が通り過ぎる。白ウサギの長い銀髪の先が、黒く焼き切れた。
「マリー、怪我は!?」
「ない。ごめんね、ありがとう」
「どーもぉ!」
彼女はマリーを抱えたまま、真っ直ぐ銃を構えるローズを見据えた。
手は震えているが、口元は笑みに歪んでいる。
ローズの顔面は、青を通り越して紙のような白である。ひかし、唇だけが、紅く人工的に彩られていた。
「や、っちゃった、私、私、撃っちゃった!」
ギラギラと開いた瞳孔と唇から漏れる興奮し切った呼吸。迷うことなく、第二撃に備えて銃をリロードして、引き金を引く。
「来るんじゃなかった!」
発砲音と同時にベルが大声で叫んだ。
一瞬ローズが怯んだ隙にベルはマリーの手を引き、真っすぐに駆ける。
積み上がったコンテナの影に転がり込み、小さくため息を一つ。その間も、銃声は止まない。
「耳塞いでな」
「どうするの」
「いいから」
片膝を立てて座り直し、スカートを捲り上げる。
真っ白な太腿に黒いガーターベルトが食い込んでいる。そこには、一丁の自動拳銃が下がっていた。
目を丸くするマリーを無視して、弾丸をこめる。スライドを引いて、引き金に人差し指をかけた。
「そんなの持ってたの」
「ナイショだからね」
茶目っ気たっぷりにウインクを一つ。そしてそのまま安全装置を外し、発砲。
ダンダンダン!と連続した音が、マシンガンと発砲音と薬莢が落ちる澄んだ音に紛れた。
耳を切り裂くような悲鳴と共に、発砲音が止まる。
「どうなったの」
銃撃戦の中にいながらも、マリーの声は冷静である。ベルは、人差し指を一本、唇の前に立てて、ポケットから鏡を取り出した。中には、小さく顔を抑えるローズが映っている。
「当たったっぽい」
「どこに?」
「ここ」
トントン、と頬の隅を叩く彼女に、「それって意味なくない」と声をかける前に、悲鳴がヒステリックなものに変わる。
「何するのよ!」
「うっわ、怖」
滅茶苦茶に銃弾がばら撒かれる。
ダダダダダ、と声も聞こえないような発砲音が響いて、そのうちの一つが鏡を撃ち抜いた。破片がキラキラと舞って、一つがベルの頬を切り裂いた。
コンテナが揺れる。破壊も時間の問題だろう。
「ごめんね、巻き込んで」
庇うように抱きしめ、泣きそうに歪んだ笑顔で、そう小さく呟いた。
「いずれ絶対に弾が切れるから、だから、その隙に逃げて。あれは責任持って止めるから。」
返事はない。
ただ、黙ってマリーはベルに抱えられている。
銃声が何度も轟く。コンテナが、衝撃を受けて揺れる。
「マリー?」
「何か言った?」
声に覆い被さるように銃声が響く。何も聴こえていなかったらしい。ちなみに、マリーが死神に鼓膜を叩き破られたのは二ヶ月前、完治したのは一ヶ月前である。
ベルは大きなため息をついて、一言ずつ区切るように言った。
「弾切れのタイミングで逃げて。私が惹きつける」
「必要ないよ」
マリーは、興味をなくしたように目線を下に戻した。
「は!?」
「エドが来るから」
「なんで」
「ドアの前で、見張ってるんでしょ」
銃声が一瞬途切れた。
その隙間に、重たい足音と草臥れた革靴の足音、そして、何かを引きずるような音。
喉を鳴らすような笑い声が、低く聞こえた気がした。
「甘ェんァよなァ……」
酒とタバコで掠れた声と共に、重い扉が開いて光が差す。黒く細長いシルエットが床にクッキリと浮かび上がった。
「な、何よあんた!」
銃声が一発響く。
大きく狙いの逸れた弾丸が、ショーケースのガラスにヒビを入れた。死神は大きくあくびをして、音を鳴らして首を回す。
「エイムもガタガタ、持ち方もなッてねェ。そもそも粗悪品でお話にならねェ。良いとこンやつ、なァンも知らねェやつァ、銃持ッただけで強くなッたつもりでいる。わからねェなァ、人ォ撃ッたこともねェ、お行儀の良いお嬢ちャんお坊ちャんッてのァ。ハイになッてるだけッて自分で分かッてねェ……」
「な、何、嫌っ、来ないで!撃つわよ!」
「出来ンァらやッてみろよ、人間の目ェ見て殺したこともねェガキに、出来ンならよォ」
ザリ、ザリと鉄パイプを引きずる音に紛れて、詩でも諳んじるような文句が朗々と響く。ローズの言葉を完全に無視して、ゆっくりに近づく。死神が一歩近づく度に、彼女は一歩後ずさる。タイミングを見定めているようにも、トドメを刺さずに遊んでいるようにも見えた。たらりと赤い血が一滴、紙のように白い頬を伝った。
ベルはマリーを振り返る。彼女は、ぼうっと逆光の中で浮かび上がる、死神の青い瞳をジッとみつめていた。
薬物に浮かされたようなその眼差しに、ベルの背中を、薄寒いものが駆ける。
それを知らず、死神は少し首を傾げて言葉を続けた。
「ァから、急なもンに弱ェ」
「口と鼻、塞いで」
マリーがベルに小さく呟いたのと、死神が嗤ったのはほぼ同時であった。
「こォんな風に」
全員視界が真っ白に濁った。
その中で、唯一死神だけが、大股でゆったりと歩いている。草臥れた革靴の足音を響かせて、当然のように左手の拳銃を叩き落とし、捕まえた兎を持つようにツインテールを握りしめた。
「知ッてるか、十戒の六番目」
突如、グッと死神が顔を近づけた。
震えながらローズが、はく、と口を開けて、閉じた。
その幼さが残る顔は青く血の気が引き、歯がカチカチと音を立てている。
「知ッてるか、知らねェか。どッちだ」
尚も声色は優しい。壊れたおもちゃのようにコクコクと頷くローズの表情は、どう見ても怯えに染まっている。
その様子を気にも留めず、宥めるように吐息だけで嗤って指を立てた。
「良ィ子だ。言ッてみろ」
俯いたまま膝をつき、瞼をきつく閉じる。
「盗んではならないッ!」
早口で捲し立てるようにそう叫んだ彼女の声は裏返っている。死神は出来の悪い生徒へ向ける眼差しのまま頷いた。
「パーフェクトだ、レィディ」
彼女の目前にしゃがみ込み、その美しい金髪を掴む手に力を込める。痛みに涙で潤ませた勝気な目を、無理やり合わせた。死神は心底楽しそうに唇の端を吊り上げながら、歌うように続ける。
「じァ、手ェ後ろで組ンで跪け。安心しろ、主はお前ンことォ厭うことァねェ……。確かに、家ンもンァお前ンもんだ……が、レィディ、お前ンお母さまァ薄情だなァ?すッかりお怒りで、その強欲な不成者ン首を持ッてこいだと」
「ウソよ!」
金切り声にうっとりと目を細め、「ウソだと良ァッたのになァ」とザラザラした声で呟く。泣き出したローズの、目の前で音を立ててコピー用紙を開く。
「エド、それ、見えてないと思うよ」
「ア?アー…」
マリーの冷静な声に、一度クールダウンしたのだろう。死神は掴んでいた髪の毛から手を離す。彼女は顔からコンクリートの地面に落ち、鼻柱が折れたのか、ドクドクと鼻血が溢れ出た。強かに打ち付けた額が赤い。
涙で滲んだ目の前に、ヒラヒラと突きつけられた契約書の署名は、紛れもなく彼女の母親のものであった。
「『人物の如何に関わらず、窃盗犯の抹消を依頼す』ァとよ。オレに依頼してきた時から、お前の終わりァ決まッてンだよ」
ぐしゃぐしゃに丸め直して、再びポケットに捩じ込む。役者のように腕を大きく広げ、「もッとも」と前置きして、恍惚とした笑みを浮かべてマリーとベルを振り返った。
「証人ァ二人もいンだ、十分ァろ?」
ヒッ、と喉から悲鳴が漏れ出る。
「お願い、助けて。なんでもする、殺さないで」
死神は残念そうに、首をゆるゆると振って、握りしめた凶器に力を込めた。
「聞き分けねェ女ァ好きじァねェ。それとも、俺ンことォ話ァ通じるとでも思ッてンのか?」
横面を固い爪先で蹴り飛ばし、怯えしか宿っていない無い瞳を見下ろす。持つ者としての気高い美しさのあった顔は、もはや痣と血液で薄汚れ、見る影もない。逆光で死神の表情は分からず、そのくせに、月明かりに照らされ、歯だけが三日月型に白く浮かび上がっている
「見て分かれよ」
はっきりと唇が動く。
ローズの瞳が、大きく瞳が見開かれた。
「理解しろ」
下から見る死神の顔は、フードに邪魔されず、はっきりと視認できる。整った顔立ちの美丈夫は、それを慈悲の形に歪めた。
「オレァお前ン死神だ。な?命乞いァ無駄なンだよ」
そう言った直後、側頭部部を、思い切り鉄パイプで殴りつけた。
ガン、とはじめに硬い音がした。ぐらりと身体が揺れ、力が向いた方向にドサリと倒れる。切れた皮膚から血液がトクトクと流れ出し、眉間から、身開かれたままの目の横を通って、地面に流れ落ちた。赤の混じる小麦色の髪の毛に隠れた頭皮が、内側から赤、青、黄と変色している。
死神は無言で、もう一度同じ箇所に凶器を振り下ろす。
今度こそ、頭蓋骨が割れた音がした。
「お貴族サマァ違ェなァ……良ィもん食ッてッから、骨ァ硬い……」
血液に混じって、黄ばんだ体液が流れ出す。
やがて、それは肩甲骨までの、大きな血溜まりを作った。
強張っていた身体が弛緩して、カサと衣擦れの音がした。
しゃがみ込み、しみじみと呟いた死神にマリーは駆け寄る。
「お前だッたか、マリィ」
悪戯が成功したように笑う死神の横を通り抜け、マリーは息絶えたローズの前にしゃがみ込む。
「エド」
「ア?」
「この人、死んだの」
「アー」
肯定とも否定とも取れない返事に、「だったら」と、苦労を知らない指から、血のついた琥珀の指輪を抜き取った。
やっぱりだ。
マリーは、うっとりと笑みを浮かべた。
とろりと新緑色の瞳が綻び、口元に淡い笑みが浮かぶ。頬が薔薇の花のように色づき、ロマン主義の絵画のようであった。
縁の血液を拭うこともせず、中央に施された琥珀を指の腹で撫でる。
死神の喉が、音を立てて上下した。
「私のにして、良いよね?」
「構いません」
死神が口を開く前に、凛とした妙齢の女性の声が響いた。
屋敷の女主人、セリーヌである。
「もとより、この娘の私物はは全て処分するつもりでしたから」
ニコリともせず、彼女は言い放つ。
チラリとモノとなった娘に「哀れな」と冷たい目を向ける。
これはもしかしたら、死神の地雷なのではないか。マリーは死神を見上げる。
彼の目元は、長い黒髪に隠れて見えない。しかし、口元は普段と変わらない。一文字に切り結ばれた唇が解けて、「次の場所でン幸福をお祈りしております」と、少し舌足らずに嘯くだけであった。
ニコリともせずに、セリーヌは続ける。
「割れたガラスは纏めて置いてくだされば結構です。ベル、教会のことでお話があります。着いてきなさい」
「はい、セリーヌ様」
そう返事して、ベルは恭しく頭を下げる。顔を上げた時には、隠し用のない嫌悪の色を浮かべていた。
「オレァ雑用じァねェンだが……」
死神は、面倒くさそうに破片を人差し指と親指でつまむ。そうして、一つため息をついた。マリーも、それに倣って、破片を拾い上げる。
破片が、指先に、赤い線を描いた。
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