闘技場の白蛇
トットットッ、という足音と共に、靴紐と亜麻色の毛先が跳ねる。転げそうになりながら廊下を曲がり、そしてふと、足を止めた。
(どこ、だっけ)
地下闘技場は、万が一に備えて込み入った作りになっている。死神に抱えられて移動していたマリーは、眉をハの字に寄せた。
しかし、止まると言う選択肢はなかった。
気まぐれだとしても、自分を連れ出してくれた人間に応えたかったのだ。あの、暗く、寂しいばかりの地下牢から出してくれた男に。
死神は確かに犯罪者だ。教会から出る時に、あの男がしたことを目にした。夥しい量の死体が床を埋め尽くし、煌びやかだった椅子も、常に清潔だった床も、神聖な絵が描かれたステンドグラスも、赤黒いマーブル模様になっていた。その中で、祭壇に掲げられた聖母像にさえも、乾き掛けの血で汚されていたことが少女の眼に焼き付いている。それに小さく一礼して、マリーを抱き上げ、家に連れ帰った彼の青い目を、心の底から美しいと思ったのだ。長いまつ毛が影を落とした仄暗い藍色は、見たこともない海の様だった。海の様な目をした死神は、彼女に白い靴を履かせ、乱れた髪の毛を漉いて整え、風呂に入れて綺麗な服を着せてくれた。そして、何も言わずに、生活に必要な全てを与えた。
たったそれだけで、マリーは救われた。
この先に何があろうとも構わなかった。向かう先が地獄であろうとも、次は自分が彼の役に立う番である。
そう、決意したのだ。
(まずは、階段を探さなきゃ)
鉄の味がする口の中で唾を飲み込み、角を曲がって駆け出そうとした、その時だった。
「わっ」
マリーの目の前に、突如白い壁が現れる。
小柄な彼女は、避ける術なく、額からその壁にぶつかった。
コンクリートの床に打ち付けた腰がずきずきと痛む。くらりとひっくり返った視界を、頭を振ってリセットし、立ちあがろうと脚に力を込めた、その時である。
「大丈夫ですか?」
涼やかな青年の声が、彼女の頭上に降り立った。
目線を上げると、グレーと紫が混ざった瞳が、案ずるようにマリーを見下ろしていた。
あの時の男だ。
息絶えた男を、無機質に見つめていた、白い男。
名前は知らないが、「白蛇」とだけ書かれていた、あの男。
今回の標的である。
そう気づいた瞬間、首裏の毛が、全て逆立ったような感覚に襲われ、背中にピリピリと静電気が走ったような錯覚に陥る。
彼女は、「被害者」だった。二年もの間暗い地下で暴力を受けているうちに、「加害者」が来る寸前の空気感を掴めるようになっていたのである。自然体でいようと努めても、隠しきれないほどの暴力を振るうことに対する慣れを、直感的に理解できるようになってしまっていた。死神と初めて出会った時も、似たような感覚が常に警笛を鳴らしていた。
しかし、マリーは、それを無視してやらねばならないことがあると知っている。
ひっくり返りそうな心臓を無視して、死神と出会った「あの時」と同様、手の震えを押さえつけ、差し出された白い手を取る。
筋張った手のひらは細く、ひやりと冷たい。グッと上へと引き上げられ、前へつんのめりそうになりながら彼女は立ちあがった。
「ありがとう」
手を離して小さな声で礼を言い、いつでも駆け出せるように左足に力を込める。
「君、こんなところで何を?」
少し考えて、マリーは口を開いた。
「お使い」
白蛇はゆるりと目を細める。
「子供一人では危ないですよ」
「子供じゃない」
慣れない子供扱いに、動揺を誤魔化すようにキッと彼を睨みつける。
瞬きを二回して、彼は柔らかく微笑んだ。
「それでは、私に道中エスコートさせて頂けませんか、レディ」
それは、蓮の花が咲くような穏やかさだった。
薄い唇から、不自然なまでに赤いスプリットタンが覗いている。マリーは少し迷い、差し伸べられた白蛇の手を再び取る。相変わらずヒヤリとした、清流のような手だった。
「どこまで?」
「シャルって人のところまで」
ふむ、と顎に手を当て、
「ミスター・シャラールのところですか?ここの廊下を通って階段を降りて、一番奥の部屋の」
名前がそうなら、間違いない。マリーがコクンと頷いたのを見て、安心したように紫がかったグレーの目を細める。
「彼なら貴女に無体を働くことはないでしょう。私は嫌われているので、階段の前までしか行けませんが……」
白蛇は足を踏み出した。マリーはここで初めて、誰かと共に歩くという経験をした。死神と並んで歩く時は、決まって歩幅が合わず、途中で抱えられていたからだ。白蛇の身長は高く、体格は死神と変わらない。
それに気づいた時、マリーはジッと彼を見上げた。
「どうかしましたか、レディ?」
「何も」
パッと目を逸らす。頬を薄紅色に染め、少女らしい小さな唇を尖らせた彼女に、白蛇は微苦笑を返した。人差し指を唇に寄せ、困ったように眉を寄せて、吐息だけで笑んで見せる。その仕草は、これまでマリーが出会ったことのない、柳のような男の仕草だ。
来た時と同じように、体格の良い男たちが壁にもたれかかっている。ジッと値踏みするような目線を向けられているにも関わらず、白蛇は堂々と胸を張っていた。板でも入っているのかと問いただしたくなるほど真っ直ぐに背筋を伸ばし、軽く顎を引き、少しだけ上目遣いになるようにして廊下を進む。その様は、まさしく周囲を伺う蛇であった。キロリと眼球のみを動かした時に目が合えば、相手は気まずげに視線を逸らして去っていく。主張しているわけではないが、これが強者であると、持ち合わせた雰囲気が語っている。
キュッと手に入った力に、白蛇は案ずるように彼女と目線を合わせる。その仕草は、死神の何倍も兄らしかった。
「ミスターはこの先の階段を降りたところに」
「ありがとう」
「どういたしまして」
白蛇はしゃがみ込み、これまでに一等優しく笑って見せた。甘やかすような、包み込むようなその笑顔に、トクンと小さく胸が高鳴る。
「どのような用事であれ、これからの君の安全を、心より祈っていますよ」
マリーは何も言わずに、階段を駆け降りた。
薄い天井の向こうから、歓声と野次が聞こえる。どれも男の野太い声だ。興奮しているからなのだろうか、足音が耐えることなく響いている。
ひとつ上の階にあるリングは、むせ返りそうなほどの熱気で溢れていた。
時は数刻前に遡る。
白蛇が、対戦相手であった大男を絞め殺したのである。頬から首にかけて、大きな傷のようなあざのある男が、絡みついた白い腕に首をへし折られる。その様を見ていた観客は、ある者は大番狂わせに歓喜し、ある者は賭けに負けたのを察して、事切れた大男を怒鳴りつけていた。
その男は、残酷な大蛇であった。
爬虫類めいた瞳は冷たく、唇を舐めた舌の先が、二股に分かれている。揉みあっていたと言うのに、汗の一滴も垂らしていない。肩を軽く回して、湧き上がる歓声を、どうでも良さげに眺めていた。そして、休む事もなくマリーを見送ったのである。
彼女が見えなくなったあたりで、白蛇の表情がスッと消えた。
「探しましたよ、えぇ、と」
「白蛇、で良いです。皆さん、そんなふうに呼んでらっしゃるでしょう」
駆け寄ってきたにこやかな付き人から、使い道のない渡されたタオルを無言で受け取り、首にかけて踵を返す。
「お疲れ様」
後ろからかけられたスポンサーの声に、白蛇の男は軽く頭を下げた。彼は気を良くしたのか、肉のついた太い手で彼の肩をたたいた。
「今日も面白い試合だった!次の試合は一ヶ月後だ、それまでゆっくり休んでくれ。後で特上の果実酒を持って行かせよう。何か食べるか?」
「ありがとうございます、ミスター。では、少し眠るので、その後で林檎を一つ、お願いできますか」
もう一度頭を下げ、白蛇は作り物めいた微笑んだ。スポンサーは腹を揺らして「無欲な男だ」と笑う。
「酒と一緒に届けさせよう。疲れてはいなさそうだが、部屋に戻っていろ」
「そうさせていただきます」
スポンサーが背を向けた時、既に白蛇の表情は厳しいものへと変わっていた。
重苦しい脱力感に身を包まれ、ゆっくりと控え室に戻った彼を待っていたのは、全身黒い出立をした死神だった。
扉を開けた瞬間、細い腕のどこにそんな力だあるのだと思うほどの怪力で部屋に引き摺り込まれる。足をもつれさせ、机に背中を打ちつけた白蛇は、回らない頭で黒い男を見上げた。
彼は上機嫌にアメイジング・グレイスを口ずさみながら、白蛇の肩を、友人にするようにトン、トンとたたく。
「おめでとォ、チャンピォン、主はお前ォ選ばェた。互いに煩ァしィンァ嫌いだろ?」
うっとりとした微笑みを浮かべて、俯き加減だった彼の顎を鉄パイプで上げた。その青い目は、相変わらず無機質である。ニィ、と笑って、顔を近づけた。
「エクストラ・ラウンドだ。ギブアップァなし。生きてた方ン勝ち。シンプルに行こォぜ、オレァ細々したンァ苦手だ。こンくらいが丁度良い」
何を言っているか、八割は理解できなかった。
しかし、喧嘩を売られていることだけは理解したのだろう。彼は立ち上がり、挑発するように笑って首を傾げた。
「嫌だ、と言ったら?」
「連れねェなァ、チャンピォン。チャレンジャーを無碍にすンじァねェよ」
肩をすくめ、ステレオタイプのアメリカ人の仕草をして見せる死神に、白蛇も同じ仕草を返す。
「君、闘技場に出た事ないでしょう」
「当たり前だろ」
彼は苦笑して、飾りになっていたタオルを机の上に畳んで置いた。首をゴキリと鳴らし、足を肩幅に開く。そして、深呼吸を一つ。
どんな場所でも、自分がやらなければならないことは、変わらない。
「良いですよ」
唇の端が吊り上がる。鉄パイプを握る腕に軽く力が入ったのを見た瞬間、白蛇は彼に踊りかかった。死神は体を捻ってそれを交わし、頭を狙って腕を高く振り上げる。その間合いに、尖らせた手のひらが伸びる。
舌打ちを一つして、白い手を足で蹴り上げ、後ろに勢いよく飛び退いた。
白蛇は、無表情で、抱擁を乞うように腕を前に押し出した。膝裏を狙って、死神の足が長く伸びる。一瞬耐性を崩すも、体を敢えて低くし、仕返しとばかりにその足を狙う。
死神が振り上げた武器は、壁に当たって勢いが死ぬ。長いリーチを活かせないにも関わらず、彼はあいも変わらず穏やかであった。
「焦りはないのですか?」
首を傾げる白蛇に、死神はロザリオを長い指先で持ち上げ、包帯に覆われた片目の前に掲げた。
「俺にァ理由ァある。ここで潰えるわけァねェ」
甘ったるい、普段よりも舌足らずなその口調に、彼の背中を薄寒いものが走った。
さて、地下でも同様に、闘技場の戦士は名と戦闘スタイルがセットで知られている事が多い。それは、白蛇も同様であった。接近戦を得意とし、間合いに入られれば終わり、一度掴まれれば死と同義とされていた。逆に言えば、接近戦を挑まなければ勝機はあると言うことである。しかし、闘技場では銃数少ない禁止事項の一つとされている。それ以外の武器では、予備動作の間に絞め落とされている。
死神エドワード・グレイの名も、同様にアンダーグラウンドでは有名であった。得物は鉄パイプ一本。針金のような体躯からは考えられない怪力で頭を叩き割る。後ろ暗い富豪が、天災、戦争と並んで「死神」を恐れる、というのは、実に有名だ。依頼の妨げとなるならば、女子供であろうとも容赦はしない残酷な男。しかし、鉄パイプで殴り殺すと言うことは、どうしても振り上げる予備動作が必要となる。その点、白蛇と相対したとき、どうあがいても不利であった。
白蛇が再び、手を開いて突撃する。
死神の目前に大きな手のひらが迫る。
しかし、彼は、勝利を確信して目を細めた。
グジュ、と耳障りな音が響いた。
ゆらり、と体が揺れる。
驚愕に目を見開いたのは、白蛇だった。
肩に貫通した、鈍く尖る鉄パイプ。
飛びのこうとした時には、すでに死神の手が目前に迫っていた。
壁に首をを押し付けられ、無理やりパイプを引き抜かれる。暴れる足を踏みつけて、横腹に同じように突き刺した。
ガポ、と唇の端から、黒ずんだ血が溢れる。
流れるような仕草で、逆側の肩も潰した死神の耳が、小さな声を拾った。
「死神か……。馬は、どこに、待たせて……?」
「ヨハネの黙示録か」
ふ、と唇を緩め、霞む視界に死神を見上げる。
「詳しい、ですね」
浅い息をしながら双眸を細める白蛇は、今までで一番、安堵に染まった表情をしていた。
「ピアスをつけてくれませんか」
「ア?」
「お守り、なんです。これ以上は、暴れませんよ。負けたのは、僕だ」
シャツの上に置いてあったピアスを、左耳にだけ突き刺す。ホールから少しずれていたのだろう、耳に血が集まって、赤く痺れが走った。
「一つ、良いですか」
死神は答えない。
それを肯定と受け取ったのか、彼は小さく口を開いた。
「依頼者は、どなたですか?」
少々の沈黙。
死神は、迷った末に「大英雄」とだけ言った。
それだけで理解したのだろう。白蛇は「そうですか」とだけ答えて目を閉じた。
一方、マリーは、ドアの前で小さく深呼吸していた。
ノックは教えられた通りに4回。最後に間を一拍置いて二回。
音もなく、扉が開く。それを抑えていたのは、死神が腕を叩き折った男では無い。金髪の、銅像の様な男だった。
「レディ、どうしたのかな?」
作り物めいた笑みを浮かべるシャルに、マリーは「エドが呼んでこいって」と簡潔に一言告げた。彼の目が大きく見開かれる。グッと大きくなった瞳孔はギラギラと輝いていた。ゆったりと立ち上がって、カメラでもあるかのような仕草でポールハンガーにかかったジャケットを羽織り、内ポケットに入れた拳銃を確かめる。弾が入っていることを確認して、彼は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「案内してくれ」
うっとりと蕩ける、蜂蜜酒の様な声であった。
カツ、カツと革靴の音が響く。
何度かうっかり彼女を追い越しそうになりながらも、シャルとマリーはなんとかその部屋にたどり着いた。
しかし、扉は開けない。
マリーがシャルを見上げると、彼は「開けないの?」と心底ふしぎそうに首を傾げた。彼女は小さくため息をつき、背伸びをしてドアノブをひねる。
キィ、と、木材が軋む音がした。
二人の目の前には、壁に背中を預け、荒い息を吐く白蛇と、ギラギラ片目を輝かせながら鉄パイプを振り上げる死神が、映画のワンシーンの様に存在していた。
ゆるゆると腕を高く上げ、その白髪に振り下ろそうとした、その時。
シャルが息を大きく吸い込む。マリーはその様を見て、咄嗟に耳を塞いだ。
「止まれ!!」
若い男の怒鳴り声が、部屋に満ちた。
邪魔者に怒りを抑えず、首を動かさずに目だけで声の方向を見る死神。
しかし、シャルは平然としている。
「ありがとう、レディ。戻っていいよ」
消音器付きの拳銃のセーフティロックを外しながら、マリーの頭を撫でようとする。彼女はそれを避け、死神の後ろにトテトテと戻って行った。
「オイ」
「ご苦労様。帰って良いよ」
それだけ言って、白蛇に拳銃を構え、女を口説くような口調で言った。
「僕の名前は、偉大な弓兵と同じでね」
右手の拳銃から、弾丸が発射される。消音器で極限まで小さくされた発砲音のせいか、声はクリアに聞こえた。それは、白蛇の右太ももに着弾する。
反動で肩を跳ねさせながらも、シャルは笑みを崩さずに話し続ける。
「古代ペルシャの大英雄なんだけど、知らない訳がないよね。きっとルーツは同じだ」
白蛇は答えない。何も言わずに、ジッとシャルを見ている。
「昔、僕は彼のようになりたかった……。自己犠牲の美しさに憧れたんじゃない、圧倒的な力に魅せられたんだ」
弾丸が音を立てて、肩に、腹に、腰に突き刺さる。わざと即死しない場所に当てているのだ。しゃがみ込んだ彼と、拳銃を構えるシャルの距離は、二メートルも離れていない。この距離であれば、外すほうが困難だろう。
浅く息を繰り返すその額に、シャルは銃口を突きつけた。
「嬉しい誤算だ、レディの足の速さに感謝だね。こうやって、邪魔者を自分の手で消せる」
最初と同じ、はちみつを溶かしたような声で、うっとりと目を細める。
「最後に何か言い残すことは?」
半分閉じかけていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。壁にもたれて腕を組んでいた死神が、白蛇へ目線を向けた。二人の視線が合わさり、お互いに歯を見せつけて笑ってみせた。
「お前は、英雄になれない」
そうシャルに向けて言い放ち、コプ、と口から血を吐く。無感動にそれを見る彼を無視して、そして真っ直ぐに死神を指差した。
「家族を、大切に」
彼は何も答えない。
二人の視線は、交わったままだった。
最後にマリーに向けて、
「目を閉じて、耳を塞ぎなさい」
と柔らかく微笑んだ。
優勝した時にも見せなかった、純粋な笑みであった。
マリーが目を閉じたのを確認して、彼は瞼を下ろした。
白蛇に、名前はない。
元々持っていた名前は、名乗れない。
白蛇は、本国で、茶色の髪の両親から、真っ白な髪と薄紫色の目を持って生まれた。突然変異である。その証拠に、妹も、弟も、指通りのいい茶髪だった。生まれつき紫外線に弱く、太陽の下を歩くこともできない、まさに岩陰に隠れて生きる蛇のような人生だった。
しかし、父親と母親は彼を慈しんだ。朝に出られないからと、夜に庭でキャッチボールをし、日傘を指して、図書館で並んで、大きすぎる図鑑を広げた。
しかし、彼は満たされない。
しなやかな腕からは考えられない怪力と、それを活かせない環境に、乾きさえ覚えた。しかし、それを親に伝えることはなかった。裕福ではない家庭で、自分と妹と弟を育ててくれた親に迷惑はかけられない、そして、伝えたところで、どうしようもないから。
だから、自分が気味の悪い白蛇と石を投げられても、怪力が怖い泣かれても耐え続けた。
耐えて、耐えて、耐えて、自分の異常性を理解して、死にたいとさえ思った時だった。
「君を、ファイターとして雇いたい」
突然現れた大きく肥えた男の、余分な脂肪がついた手のひらを、白蛇は取った。
乾きは溢れんばかりの水流で満ちた。
何をしても許される。これまで満足に動けなかったことがわかる。
夜の澄んだ月明かりは、くすんだ裸電球へ。芝生の間を風が通り抜けていく音は、割れんばかりの歓声と怒声へ。向かい合うのは、慈愛に目を緩めた父親ではなく、瞳孔の開ききったファイター。雲ができるほどの熱気の中、アリの巣のように張り巡らされた地下闘技場で戦う日々。
満ち足りていた。自分の力を存分に使うことができる環境と、そうしても許される、誰かの役に立っているという事実は救いだった。泥のような自己嫌悪と罪悪感から、逃れられたような気がした。
すっかり屍に慣れた白蛇は、表情を動かすことすら億劫になった。
給金の大半は、本国の家族へと送った。
次第に日常は退屈を呼び始める。自分の勝利を確信しながらリングに上がるのは、ひどくつまらなく思えた。それでも戦い続けたのは、家族のためだった。
故に、彼は茶髪の少女を見たとき驚いた。
自分の妹と、髪の色が同じだけで、慈愛の対象だったのだ。
結果として、彼女は死神の付き人であったが、それでも白蛇は満足だった。
走馬灯で見たのは、経験したこともない、家族と陽の下でのピクニックだった。
夢の中にいるような、穏やかな表情が気に入らないのか、シャルが大袈裟に鼻を鳴らす。
「大きなお世話だ」
間髪入れずに、銃声が響いた。
眉間に穴があき、弾丸が頭蓋を貫通した。
彼がもたれかかっていた壁が、絵の具をぶちまけたような赤に染まる。ゆっくりと床まで鮮やかに血溜まりが広がり、鉄の匂いがツンと鼻をつく。
死神は、慣れたようにその様を見ていた。
ゆっくりと、白蛇の体が横に倒れる。
ゴ、と鈍い音が、コンクリート製の控え室に響いた。ビチャ、と音を立てて、白い髪の毛が、水分を吸って赤黒く染まっていく。
「は、はは、」
その腹に向け、鉛玉を打ち込み続ける。
シャルの笑い声に、マリーがゆっくり目をあける。事切れた男を確認して、思っていた何倍もマシな光景に安堵の息を漏らした。
カチカチカチ、と引き金が軽くなる。
「なぁ死神、弾持ってないか?足りないんだ」
大袈裟に腕を肩まで上げて振り返る。
笑みを浮かべた頬にも、豪華な白いスーツにも、返り血が跳ねていた。
死神はため息を一つこぼし、低く唸る。
「贅ェ沢ァ嫌いなンでな」
「我々の特権だよ」
「オレァ貧乏人だ」
それを聞くと、つまらなさそうに彼に振り返る。靴に血が飛び散っているのに初めて気づいて、心底嫌そうに眉を顰めた。
「さて、お仕事ありがとう。帰っていいよ」
「オー」
死神は、いいところを持って行かれた苛立ちを隠さずに返事した。
いつものことだと言わんばかりにニッコリと笑って、「あ、」と表情を変えた。
「レディ・メアリ。ちょっといいかな」
マリーは本当に自分だろうかと少し考えて、チマチマと従順に歩み寄る。シャルは爪先立ちになって、白蛇のピアスをちぎり取った。ブチ、と肉が潰れる耳障りな音がしたことに、大袈裟なまでに顔を顰める。
「手を出して」
素直に差し出した彼女の掌に、そのピアスをポトリと落とした。目を見開いて彼を見返すマリーに、シャルは胸焼けがしそうなほど甘ったるい笑みを浮かべて、唇の前に指を一本立てて見せた。
「女の子はこういうの、好きだろ?」
白い蛍光灯の光に、華奢な円形の銀細工が絡み合い、白い蛍光灯の光を反射している。中央に固定された赤い星形八面体がゆらゆらと回っている。キャッチには、既に半乾きになった赤い血が付いていた。
「洗って売ればいい値段にもなるからな。レディへの依頼料だ、受け取ってくれ」
マリーはどうすればいいのかわからず、ただ
「ありがとう」
と小さく言った。
シャルは満足げに頷き、彼女の耳に口を寄せる。
「帰り際にでも、あの男を兄と呼んでみたらいいよ。あいつなりに、君を可愛がってるみたいだからさ」
チラチラと星が瞬いている。
大戦の終わりに伴って贈られた木が、月夜に薄紅色の花びらをヒラヒラと舞わせていた。
「最悪な仕事だッた」
舌打ちが鋭く響く。
「結局、誰も俺ァ殺せてねェ。ボンボンァ、良ィ所持ッて行きァがッて」
ガァン!と苛立ちをぶつけるように、鉄パイプでアスファルトを殴りつけた。
死神は完全不燃焼であった。
しかし彼は、理性のない怪物ではない。異常者ではあるが、本能のまま暴れ狂う獣ではなかった。契約書に記載された、「依頼主の意向を一番に行動する」という点を守り切ったのである。
とは言え、彼の殺人はストレス発散を兼ねた聖地巡礼である。それを邪魔された事で、腹立たしさは最高潮であった。
「マリィ、あのファッキンに何言われた」
「なんでもないよ」
それから、少し躊躇って
「、兄さん」
死神の、黒い服の裾をキュッと掴んで、マリーはそう口にした。
太々しいような、照れたような、その幼い声色は、歩み寄りの具現化でもあった。
彼は、片方しかない目を大きく見開いた。
大きな手で、マリーの両頬を挟み、目線を合わせる。彼女の双眸が、緩く弧を描いた、その刹那だった。
パァンと破裂音が響いた。
両掌で、拍手をするように、彼女の耳を叩いたのである。タコのできた分厚い手のひらが耳ごと覆い、空気が鼓膜を貫いた。
両耳を射抜かれた激痛で、何も言えずにうずくまる彼女の両耳から、ツゥッと静かに血が滴る。最後に聞いた破裂音が、その脳裏にこびりついている。
「ア、うぁ、ァ……」
理由のわからない暴力に、混乱しながら口から出たのは、意味のない悲鳴であった。
自身の声ですら、くぐもっていてわからない。
鼓膜が破れたのだとうっすら理解した時には、貫通した時のキィンとした耳鳴りが、細長く頭の中に響いていた。
ゆらりと月を背に向けた死神の表情はわからない。青い片側だけの瞳が、チラチラと燃えるように光っている。
「唆したンァ、あいつァな?」
訪ねる声は穏やかであった。
顔を片手で上げて無理やり目を合わせ、空いた方の手で喉を撫で上げた。鋭い痛みと強い違和感の中、普段と一切変わりないその手つきが不気味である。マリーの涙で揺れる瞳を見て、死神は悲痛に顔を歪めた。
「痛い、痛いなァ、マリィ……悪ィなァ、オレにンなことォさせたお前ァ、悪い子だ、地獄に落ちらァな……」
彼女は、ここで初めて、死神の異常性に気がついた。
教会を襲撃し、血の嵐を巻き起こしたことは気がついていた。しかし、彼女は実際にその様を見ていたわけではない。
赤子に対する罪悪感の宿った微笑みも、少女に向ける値踏みするような眼差しも、少年を眺める無関心な目も、青年と呼んでも問題ないような男子を睨みつける憎しみのこもった瞳も、彼女は何も知らない。
残虐性の塊。サイコホラーの擬人化。歪をそのまま体現した黒い男。しかし理性的で、止まることを知っている。
この男は異常者だ。
罪悪感を捨てることなく、自分が起こした殺戮の被害者を悼みながらも、笑いながら無機質に命を刈り取る者。
死神が「死神」たる所以であった。
ならば、謝罪は無意味だ。
「地獄に行くのはエドだけだよ」
彼女は、謝罪の声を飲み込んで精一杯彼を睨みつけた。腹の中が、燃えているかのように熱い。アァ、これが「怒り」か、と、彼女はどこか他人事のような頭で考えた。
昔、母親が言った「自分を正しく持ちなさい」という言葉が、彼女の頭の中でパチンと光る。
「ア?」
地面に放り投げた鉄パイプを握り、軽く手首を動かして調子を確かめる。
尖った先端をマリーの目の先に突きつけ、もう一度低く唸った。もう1ミリでも動けば、彼女は失明するだろう。
「良い子なマリィ、もう一度言ッてくれ」
マリーはうっすらと微笑み、死神の青い瞳を真っ直ぐに見据えた。
「私が、地獄に連れて行く。それが終わったら、そのまま消えるの。地面に溶けて海になって、星になって、空になる。エドはそこで止まっていたら」
マリーは、涙を薄く浮かべながらも、氷漬けの花のように笑って見せる。自分でも何を言っているのか分からないが、理不尽なことは嫌、ということだけが、頭の中を支配していた。
死神は、目を大きく見開き、利き手に持った凶器を手から滑り落とした。
「……エド?」
カラン、と高い音が響く。
死神は、遠くを見つめるように目を細めた。
そして、喉を指先でなぞり、その華奢な背中に腕を回す。
背中を一度軽く叩き、大きく伸びをして、来た時と同じようにマリーを抱き上げた。
「どこへ行くの?」
「帰ンだよ」
頭が痛くなるほど、優しい声だった。
こびりついた血を袖で拭い、刺激が少しでも減るようにフードを被せる。
「辛くァねェか」
ざらついた声で尋ねる。
マリーは、小さく頷き体を縮めた。
彼女は目を閉じて考える。
彼女が今体験したものこそが、死神である男の暴力性の一端だったのだろう。しかし、今までの彼はどうだっただろうか。自分を監獄から連れ出し、衣食住を与えたのもまた彼である。
何が琴線に触れたのかは知らない。しかし、誰かに重ねられているのは分かっている。
それなら、出来るだけそれに近づけるように生活すればいい。
自分を見てもらえなくても構わない。この男の異常性ごと飲み込む。
マリーの脳裏には、慈愛に満ちた白蛇の、自分を案ずる声が蘇っていた。
あの男は、なによりも美しかった。その欠片を持つだけで、強くなれるような気さえした。
答えが出れば、ひどく単純に思えた。
薄く目をひらけば、見覚えのあるマーケットまで帰ってきていた。
「お給金はどうなるの?」
ピタ、と足が止まる。
「このままと背中と、どッちァいい?」
「や」
どちらとも取れない、愚図るようなその仕草に、ガシガシと頭を引っ掻いて、再び歩みを進める。
しばらくして、死神はポツリと呟いた。
「そのうち、ジェントルァ届けィ来る」
「私が帳簿付けていい?」
死神は、少し微笑んで緩慢に頷いた。
マリーもまた、同じように微笑んだ。
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