仮面の日常
アメリカとイギリスの狭間には、小さな島が浮かんでいる。アメリカ本土から約2キロメートルに位置する島は、20年前の戦争で武器工場として地図から消されていた。現在は使われなかった爆薬や銃、戦闘機をつくるための足場が、雑多に放置されている。
このような来歴から、お世辞にも治安が良いとは言えず、住民もアメリカ本国に住めなくなった、所謂「逸れ者ばかり。本土に近い東側には人が多く住んでいるが、学校もなく、教会で最低限の知識を習う。入るのは容易く、出るに難しい、アリ地獄のような島である。島民の三割は裏社会に肩まで浸かっている、と言うのが島の子供達の間での都市伝説だった。
実際はもう少し多く、四割の大人が裏社会の人間なのだが。
死神はその中でも、様々な意味で有名だった。狂信者であり、獣とも揶揄され、暗殺者でありながらその手口は知れ渡っている。民間人には手を出さず、大罪人に罰を下す。そんな義賊と噂されたこともあった。少しでも後ろ暗い人間は、初めに「青い一つ目の男を見たら逃げろ」と教わるほどだ。
マリーは、チラリと死神を見た。
彼女は、彼を大人の「良い子にしないとオバケが出るよ」という脅しの中の住人だと思っていたのだ。
それが、殺すどころか、無傷で連れて帰られ、住居を提供されるとは思っても見なかった。
とはいえ、死神が彼女をを「普通」に育てられることもなかった。当然である。死神は人間だが、常識から外れすぎている。人外が人間を真っ当に育てられる訳がない。
そして、一番の悲劇は、死神にその自覚がない点である。
いや、そもそもまともに育てるつもりなど無かったのかもしれない。
第一にこの男は一般的な「普通」という概念すら知り得ない。「普通」の人間は、テーブルの上に食べたオレンジの皮を三日も放置しないし、手で物を食べた後石鹸で洗うし、急にタバコを噛みちぎったりしないしと、かけ離れているところを数え上げればキリがない。
その上、この男は、マリーが思っているよりも動かない。日の高いうちは片目を覆う包帯を外し、いびきの一つも立てずに眠りこけているし、たまに起きたと思えばカゴに積んであるリンゴを皮ごと平らげる。そしてその芯を、ビニール袋の張っていないダストボックスに投げてまたソファの上に戻る。夜になれば一時間だけ忽然と姿を消し、何事もなかったかのように戻ってきて、タバコに火をつけるか安いウイスキーの蓋を開けたりする。そんな生活を、少なくとも五日も続けていた。
今も大型の猫のように、大量の説教臭い本が詰まった低い本棚の横で溶けている。
肘置きを枕代わりにして、足を組んで目を閉じているのを横目に、マリーは読み終わった古い天動説の本を本棚に戻して新しいものを引き抜いた。
そして、ページを開こうとして、ふとあたりを見渡す。
ゴミが溢れかけたダストボックス。
シミのついたテーブルクロス。
その上に散らかった、洗われていない食器。
唯一教えてもらったのは、コーヒーの淹れ方のみ。
マリーは幼い頭で考える。
これは、良くないのでは?
この家に来てから、五日経った。
五日間で、死神から大きすぎる服と、暗くない寝床(本棚の上)、使い古されたブランケットを貰った。冷たいパン以外のものは、久しぶりに食べた。暖かく、良い匂いのする紅茶を、死神の真似をしてフーフー息を吹きかけて飲んだ。舌を火傷したマリーに、彼はパチ、と瞬きをし、少し考えて冷蔵庫からペットボトルの水を出してくれた。
暗くも寒くほもない。地下牢と比べれば天国だ。話しかければ応えてくれるし、あの神父と違い、マリーに手をあげることもない。しかし、一つ得れば欲が出るのが人間である。
「エド」
「ンァ?」
聞こえず無視されても良いと思いながら、小さな声でそう呼べば、案外死神の耳は良いらしく、のそりと起き上がって、色の違う瞳でボウっとマリーを見た。
大きな老猫のようだった。
「お掃除、しよう」
「そォじ」
「終わったら、お買い物に行こう」
「おかいもん」
頭が起きていないのか、おうむ返しに単語を繰り返す。マリーは真剣な顔で頷き、ぐるりと部屋を見渡して首を傾げた。
「掃除機、ないの?」
死神は、包帯を巻きながら「ン……」と否定とも肯定とも取れない声を返す。彼女は、無表情でカーペットの上に落ちている髪の毛を指で摘んだ。
死神は、カク、と首を横に傾げて、掠れた声で一言。
「図太ェ……」
それから、丸一日かけて、二人は家の掃除をした。文章にすれば一行に収まるが、その実は苦労の連続だった。
マリーの小さな手では、高いところの掃除はできない。雑巾で高いところから順番に拭き掃除をするのは、死神の仕事だ。マリーはその横で、溜まった食器を洗い、汚れたクロスを洗濯機に放り込んでいく。クローゼットから壊れかけた掃除機を発掘して目を輝かせたマリーを、死神はなんともいえない表情でを見ていた。
1日で掃除が終わったのは、物が少ない家だったからである。ゴミを捨て、埃を取りさえすれば、必要最低限の二人分の家具と数えられるほどの服しかない。
もっとも、真っ黒だったはずのその服も、いくつかは埃をかぶって白くなっていたのだが。
洗濯紐に黒い服が飜る様を見て、死神は再び、宙へと視線を向ける。
マリーは服の裾で手を拭きながら、全部終わったような顔でタバコに火をつけようとした死神に
「お買い物」
とピシャリと声を投げた。
彼は心底面倒くさそうに、ライターの火を消した。
マーケットは、家から1.5キロほど歩いたところにある。
死神は慣れたように大股で真っ直ぐに歩いていく。その後ろを、マリーが小走りで続いた。
彼はその様をジッと見て、彼女を片手で抱き上げた。左腕の上腕を背もたれのようにして、下腕で腰を支える。
マリーは、新緑色の目を見開いた。
死神はそれに見向きもせず、並んだ果物をボウっと見ている。
「あら、久しぶりじゃない!」
突如、後ろからパッと弾けるような声が投げかけられた。肩を跳ねさせたマリーの足裏に力を込め、彼はゆるゆると振り返る。
「ばァちゃん」
そう呼ばれたのは、初老の夫人だった。ふくよかで、いかにも人がよさそうな笑みを浮かべている。
「あんたまたそんなほっそい体して!食べてないの?うちの息子を見習いなさいな。やだその子どうしたの、随分顔色が悪そうじゃない!」
マシンガンのような早口に、死神は少しおいて、
「食ッてる。最近ァ」
とだけ、半分寝ているような口調で呟いた。
夫人は、呆れ顔だ。よく動く表情筋である。
「ごめんね、お嬢ちゃん。お名前は?」
ズイ、と近づけられた顔には、疑いの色は何一つ浮かんでいない。
「マリー」
そう、小さな声で返す。
夫人は「マリーちゃん、よろしくね」と、健康的に肉のついた手でマリーの手を取った。
「で、アンタはいつもので良いね?」
「ン、助かる」
「どの手で持つのさ」
「この手」
チラ、とマリーに視線をやる。
マリーは、小さな手で、バスケットを受け取った。中はリンゴ、オレンジ、牛乳にシリアル、安いジャーキーが山のように積まれている。
「お代出しな」
死神は、ポケットから裸の硬貨を夫人の手に何枚か乗せた。それをなんとも言えない顔でエプロンのポケットに捩じ込み、それと引き換えに飴玉をバスケットに追加する。
「オイ」
「良いじゃないか、マリーちゃんのだよ」
ねぇ?と問われれば、マリーは頷くことしかできない。
夫人は穏やかに目を細めた。
「この子はお母さんが厳しかったからね。ぼんやりしてるところがあるんだ。見てあげてね」
見てあげて、とはどういう意味か。
その買い物から二日経っても、その意味はわからない。死神はと言えば、ただ空虚に、煙を酸素がわりにして、息をするだけのモノだった。
突如、戸がリズミカルにノックされる。
「アイ」
死神が、舌足らずにそう応えた瞬間、勢いよくドアが放たれた。
バァン!とけたたましい音がして、マリーの肩が、キュウリを置かれた猫のように跳ねる。
「ハァイエドワード!調子はどうだ!?妙に綺麗になってるじゃないか、なんだ、これか?」
「今、最悪にァッた」
気だるげに身体をゆらりと起こし、騒がしく入小指を立てる初老の男をボゥっと見据える。
男は、マリーを見て帽子を軽く上げて片目を閉じて見せた。髪の毛の少ない頭頂部を軽く撫で、再び帽子を被り直して、芝居掛かった大袈裟な仕草で、肩から下げた鞄から封筒を手渡した。
「ハァイ、小さなお嬢さん。私はジェントル、お近づきの印に、こちらをどうぞ」
「ンッけンな、それァオレンだろ」
ひったくるようにして、マリーの手から封筒を奪い取り、蝋で封された封筒を神経質にピリピリと破く。向こう側が透けそうなほど薄い便箋に目を通し、死神は唇の端を吊り上げた。
細かくそれをちぎり、宙にばら撒く。
突如マリーの腋に大きな手を通し、片腕で抱き上げた。彼女は、急な浮遊感に目を丸くする。いつになく上機嫌な彼は、マリーの新緑色の瞳をうっとりと見つめて言った。
「楽しィとこ連れてッてやろォな」
さて、死神がマリーを連れてきたのは、闘技場であった。
家がある郊外から、マーケットを抜けて、歩いて約一時間半の場所に、総合格闘技場がある。そこは昼夜問わず、本国で生活できなかったレスラーや軍人上りの不良、元ボディーガードなどが集まり、最強を決める戦いが行われている。武器は禁止の一対一の素手の勝負で、賭けも行われており、一度勝つだけで四人家族が一月は生活できるほどの金が動く、正に大人の遊び場である。
しかし、その地下にあるのは、さらに苛烈な地下闘技場だ。上階の総合格闘技場で優勝し更に強さを目指す者、戦いにしか興味のないバーサーカー、生粋の殺人犯など、アンダーグラウンドの戦士が集う。武器、目潰し、場外乱闘等、反則が存在しないその舞台で、真の最強が決まるのである。地上とは違い、レフェリーもいない。そんな地下闘技場でも賭けが行われるが、動く額は地上とは比べ物にならない。そのため、大概の選手にはスポンサーがついている。
今回の依頼も、その関係だ。敵対するマフィアの選手を潰せと、別のマフィアの御曹司からの依頼であった。
「まずァ御挨拶だ。それから、契約ン確認」
会社の営業マンのようなことを言いながら、死神はマリーを抱き上げたまま、慣れたように地下への階段を降りる。
マリーは、キョロキョロと珍しそうに目だけであたりを窺っていた。
大柄な男が、廊下に屯して煙草を吸っている。視界が白く濁るのか、パチパチと瞬きをしたマリーの瞳から、大粒の涙がコロリと落ちた。
傷のある男が多い。頬から首にかけて、傷の様な痕がある男が、死神の三倍はありそうな太い腕を組み、目を閉じている。目の下に涙の形に墨を入れたピエロの男が、目を閉じた男の前で壊れた様にゲタゲタと笑っていた。傷の男がカッと目を開き、次の瞬間、ピエロの男は後頭部を段差にぶつけて死んでいた。辺りにいた他の男は、それに見向きもしない。唯一、白髪の人形の様な男が虫を見る様な目を向けていた。しかし、耳元の銀色と赤の大ぶりなピアスを揺らし、そのまま何事もなかったように立ち去る。スタッフらしき老人が、無線機を使って「処分だ!!」とガラガラの声で怒鳴りつけていた。
マリーは、死神の腕に回す力を強くした。
しかし、彼も似た様な者である。
掠れた声で意味のない母音を吐き出し、ガリガリとマリーを抱えていない手で頭を引っ掻いた。
「異常者しかいねェ、だァらイヤなンだよなァ、ここァ……マトモな奴にァ、刺激が強すぎる」
ボツボツと独り言の様に呟き、彼女の首を撫でた。マリーは、(何を言っているんだろう)と思いながらも、反応を返さなかった。
繰り返しになるが、彼も異常者であった。
自分を正常だと思っているタイプの。
長い階段の途中で、無造作に壁を押す。すると、穴が空いて、横にそれる廊下が現れた。
「エド、ここにきた事があるの?」
「アァ、仕事で一度」
スイッチを押して壁を元に戻すと、自動で蛍光灯が点灯する。久しぶりに見た人工の光に、マリーは思わず目を細めた。
エドは何も言わずに、目の前の扉にノックを一度だけして
「オレだ」
と一言だけ言った。
キィ、と細い音と共に扉が開く。
部屋の中には、人が良さそうな笑顔を浮かべた優男が、椅子に座っていた。
褐色の肌に黄金色の瞳。派手な白いスーツ。女遊びが好きそうな、そしてそれを許されていそうな、甘い顔立ちの男だ。
「どうぞ」とハチミツを溶かしたような声で男は言った。死神は無言でマリーを下ろし、手で示された大きな椅子に、慣れた動作で腰を下ろした。急に立ち位置を失ったマリーは、少し迷って椅子の横に立った。
扉を開けていたのは、大柄なスーツを着た男であった。全ての指に指輪のようにタトゥーが入れ込んであり、こめかみから後頭部にかけて、大きな虎が吠えている。
音を立てずに扉を閉め、チェーンをかける。
そして、コツコツと足音を立てて優男の横に、後ろに腕を組んで控えた。
「ご苦労」
大男は、何も言わずに頭を下げた。
「久しぶりだね、死神。そっちは妹かな?子供がいたなら言ってくれよ。金になったのに」
「帰えンぞ」
「冗談だよ。お嬢さんも、座っていいよ」
クス、と微笑む優男とは反対に、死神は心の底から不機嫌そうであった。
マリーは死神から少し離れたところに、ストンと腰を下ろして、両手を太ももの上に置いた。
優男は、それに満足げに頷く。
「さて、お話に入ろう。お嬢さんには少し刺激が強いかもしれないから、出ていてくれて構わないよ」
「慎ェよ、オレァ今すぐ帰ッていンだぜ」
不機嫌さを隠さない死神。それを初めて見たマリーが不安そうにチラリと大男を見た。一瞬彼は気の毒そうに眉を下げたが、すぐに無表情に戻る。
優男は肩をすくめ、机の上に両手を組んだ。
「僕はアーラシュ・シャラール。シャルと呼んで欲しい。レディ、お名前を伺っても?」
彼女は死神の様子をチラと伺い、小さく
「マリー」
とだけ名乗った。
シャルと名乗った優男は、マリーに「よろしく」と気障な微笑みを浮かべた。
死神は、足元の毛の長いカーペットに、つま先で絵を描きながら煙草に火をつけた。
「この部屋は禁煙だ」
シャルが笑みを消し、眉間に深い皺を刻む。
死神は、オイルライターをポケットにしまい、犬歯で煙草を挟んだまま吐息だけで笑って見せた。
「知ッたことじァねェ」
「仕方のない不作法者だね」
困っていない表情で困ったジェスチャーをして見せるのを無視して、死神は天井に向けて煙を吐き出した。
甘い香りが充満し、悪趣味なシャンデリアの光がぼやける。
彼は諦めたのか、再び煙草に口をつけた死神に資料を投げる。
「最近、僕のボディーガードが良く消えるんだ。ボディーガードと言っても、会社の人間じゃないぜ、パパと僕の審査を通った元軍人の屈強な男共だ。昨日買ったこいつは元ベトナム戦争陸軍軍曹で機関銃の扱いが上手いんだ、知ってるか?帰ってきても本国から勲章を貰ってるんだ。そうだ、本国で思い出したが、この間新しいジュエリーショップを買ってね。高い買い物だと思うだろう?それがそうでもなかったんだ!わかるか?偽物を売ってたんだ。これにはパパも怒ってな?目の前で店長の頭をぶち抜いて……。ああ!あの時は手を叩いて笑ったよ!これなんか良いだろう?詫びに貰ったんだ。この時計は二組で一つになっている。双子時計さ。一つが黒でもう一つがシルバー。両方とも美しいだろう?シルバーの方は最近女に渡したんだけど、キャァキャァ喜んで」
黒の時計を見つめながら、ベラベラと喋り続けるシャルは、突然立ち上がった死神に気づかない。鉄パイプを徐に振り上げ、それに気づいて受け止めようとした大男の腕に、無造作に叩きつけた。
続けて、うめき声を上げる大男を無視して喋り続ける彼の目の前の、ガラス張りの机を叩き割る。
ガシャン!と大きな音がして、破片が飛び散る。
破片の一つが、彼の頬を切り裂き、ツゥっと血が一滴溢れた。
そこで初めて、にっこりと張り付けたような笑みを浮かべて死神を見上げた。
「酷いな。高かったんだけど」
「暇潰しィ来てンじァねンだ。オレァ気が長い方じァねェンァ、お前が一番わァッてンだろ?テンカウントで本題に入れ、頭叩き割ンぜ」
低く唸り、淡々と腕を振り上げる彼に、シャルはやれやれと手を肩の上にして首を振り、一枚の書類を差し出した。死神はそれを引ったくるようにして受け取り、グシャグシャに丸めてポケットに捩じ込んだ。
「書いてないけど、アイツを見つけたら、僕に報告して欲しいんだ」
死神は答えずに立ち上がる。
マリーも、慌ててそれに続いた。
「引き受けてくれるかい?」
「アァ、仕事ァする」
彼女を抱き上げ、部屋を後にする。
視界の端で、腕を押さえてこちらを睨め付ける男と、笑顔で手を振るシャルが、閉まるドアと同時に消えていった。
マリーは、躊躇いがちに死神の裾を引いた。
「どんなお仕事」
「ア?アー……」
丸めたA4サイズの紙をポケットから取り出し、皺を伸ばしてマリーに手渡す。細かい皺で文字が掠れている箇所もあるが、読めないほどではない。
内容は、シャルの選手を倒した男を、行動不能にすること。手段は問わず、また証拠隠滅も考えなくて良いとシンプルに書いてあった。マグショットのようなアングルの顔写真で、白髪の標的が不機嫌そうに彼女を睨んでいる。
「あ、」
パチ、と彼女の頭の中に、虫の死骸を見るような目をした、階段でのその相手が蘇る。
「ア?」
「この人、さっきいた」
死神の片目が、キュッと猫のように細くなる。
「どォに」
「階段」
そこから死神の行動は早かった。
階段にいたということは、今日の試合に出るということだ。
右手にはマリーを抱きかかえ、左手にはいつもの鉄パイプ。
ギラついた目で、顎を上げて、口元に笑みを浮かべたまま、彼は肉食獣のように階段を駆け上がっていた。
いつもの老猫のような様が、嘘のようだ。
所々に、オレンジ色の裸電球がぶら下がっているだけのそこは薄暗い。狭い道に、力強く足音が響く。
階段のすぐ隣には、選手控室がある。10の部屋が並んでいるが、一日三試合しかないため、使われている部屋は約半数。その日に出場する選手は、二時間前にそこにいなければならない。着替えや貴重品をその部屋に置いて保管するのが一般的だ。時間を守る人間はまず居ない(守れるなら本国で生活できている)が、部屋の使用だけは守られている。
選手は、皆誇りを持っているからだ。命を懸けて戦う気力のある者たちは、他人の荷物を盗むことはない。だから、鍵をかけずに部屋を出られる。お互いを戦士として尊敬し合っているからこそできることである。
しかし、ここにいるのは戦士ではない。
「どんァ服着てた」
「白いシャツに、茶色いズボン」
「他ァ」
瞳を閉じて思い出す。
しかし、彼女の脳裏に蘇るのは、あの冷たい無機質な瞳だけであった。
白く硬質な、あの人形のような男。温度を感じさせない戦闘人形。踵を返した時に、シャラリと音を立てて、銀色と赤が揺れていた。
「ピアスしてた。銀と赤の、大きい」
「愛してンぜ、聡明なマリィ」
言うが早いが、一瞬彼女の頬に八重歯を立て、一番近くの控室に飛び込んだ。
「なんだお前は!」
「シャラールの使いのもンだが、部屋を間違えた。悪ィな」
「出て行け!」
「イエス、サー。夜道に気ィつけろ」
ひらりと振り上げられた拳を交わし、死神は次の部屋へと飛び込む。部屋はもぬけの殻であったが、どこを探してもピアスは見つからない。
「シャツ、これじゃない」
彼の腕の中で、マリーがポツリとつぶやいた瞬間、死神はあっさり部屋を後にした。
三番目に入った部屋は、備品のスポーツタオルが置いてあるだけだった。彼はそれを認識した瞬間に扉を閉めた。
判断が早いなぁ、と、彼女は他人事のような思った。
四番目に入った部屋は、ひどく殺風景だった。置かれてあるはずのタオルもなく、ロッカーの鍵も外されていない。
死神は、慎重にロッカーを開く。
几帳面に畳まれたシャツと茶色のスラックス。そして、大ぶりな銀色のピアスが二つ光っていた。
死神の隻眼が、不気味に弧を描いた。
「ァ違いねェか」
マリーが力強く頷く。
彼女を地面に下ろすと、目線を合わせた。
「道ァ覚えてンな」
再び彼女が頷く。
「た、ぶん」
死神は「良い子だ」と低く笑って髪の毛を乱した。笑顔のまま立ち上がり、何処からか取り出した鉄パイプを握りしめ、軽く手首を振って調子を確かめる。音を立てて首を鳴らし、無機質な扉を開けた。
「あンボンボン、引きずッて来い。お使いだ、できンな?」
宥めるような口調で、扉を開ける。一瞬、マリーが緩く目を細め、「行ってきます」と呟いた。
勢いよく飛び出した彼女の頭上で、スタートのピストルのように、試合が終わった事を知らせる、質の悪い銅鑼の音が響いた。
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