瞳の夢

二ノ前はじめ@ninomaehajime

瞳の夢


 瞳の裏側に未知が映った。

 

 まるで重ね絵だった。左の眼球が別の光景を見た。たまらず右目を閉ざすと、摩訶まか不思議な視界が広がった。

 御伽噺おとぎばなしに出てくる龍が長い尾を引いて、雲の合間からうねる腹を覗かせる。時代劇で目にした服装をした人々が城下町を歩いている。誰も彼もせわしなく往来し、上空を飛翔する荘厳そうごんな龍を振り仰ぐ者はいない。

 

 さらに不思議な光景を目にした。幾つもの浮島が突き出た広大な湖で、奇形のくじらにも似た白い巨人の背中が揺蕩たゆたっている。かと思えば燭台しょくだいの炎が揺らめくお堂を映し出し、さまざまな光彩を放つ楕円形のまゆを前に少年が怪談奇談を語り聞かせている。

 

 山毛欅ぶなの木々を縫って、見えない獣の足跡が腐葉土に刻まれる。現代で地上最大の生き物とされる象など比較にもならない。鋭い爪痕が森の中を徘徊している。

 その痕跡が立ち止まった。視線に射竦いすくめられた。透明な獣がこちらを見上げている。魂をも揺さぶる咆哮を発した。森の木々をおののかせて、はるか空までとどろく。

 

 見咎みとがめられた。そう思った瞬間、視点が弾かれた。

 

 今度は、どの時代に飛ばされたのだろうか。薄っすらとまぶたを開くと、その惨憺さんたんたる光景に愕然がくぜんとした。見渡す限りの山々が踏み荒らされている。途方もなく巨大な何かが通過した痕跡が大地をえぐり、地形まで激変させている。

 

 もはや災害と言っていいだろう。大惨事を引き起こした元凶が目に入る。禍々まがまがしく赤黒い甲殻に覆われた、山脈さえまた大百足おおむかで。とても視界には収まり切らず、尻尾の先端が映っては消える。二本の触覚を震わせて、胴体にそなわった無数のあしで広大な土地を踏み荒らしていた。何かを探している。

 

 脈絡みゃくらくもなく巨体が静止した。毒々しい呼気こきとともに鎌首をもたげる。まだ原型をとどめた山の中腹に血塗られた眼光が向けられる。木立の狭間にいたのは、一人の青年だった。

 

 菅笠すげがさを被り、後ろに伸ばした髪を束ねている。着物越しからでもわかる筋肉質な体に獣の毛皮をまとい、萌葱もえぎ色のはかま脚絆きゃはん草履ぞうりという出で立ちをしていた。禍々しい視線を受け止め、堂々とした佇まいだった。

 

 何より特徴的だったのは、左手にたずさえた大弓だった。大柄な青年の体格にさえ匹敵する。おそらくは竹を素材としているのだろうか。しなやかに湾曲し、鋭く欠けた三日月を思わせた。

 

 彼は腰に帯びた矢筒から白羽の矢を抜いた。草履の底で腐葉土を踏み締め、大弓を持ち上げる。張られたげんを右手で引いて、弓矢を構える。腕の筋肉が盛り上がった。剛弓ごうきゅうの両端が大きく反り、細い弦が見事な扇形を描く。青年の後ろ髪が揺らいだ。

 

 山の上空で、大百足が首を引く。次の瞬間には、その頭部を突進させていた。尋常ではない質量による一撃は風圧をともない、木々の幹をらせる。山塊さんかいを砕くであろう巨体を眼前にしても、青年は一歩たりとて引かなかった。

 

 菅笠の下で霞んだ眼差しが標的を射抜く。渾身の力で引かれた指から白羽の矢が解き放たれる。打ち震える弦が鈴虫に似た音色を奏でた。

 

 その一矢は、扁平へんぺいな額に吸いこまれる。彼我ひがの差を考えれば、針に刺された程度の痛痒つうようも感じないはずだった。射られた一点を中心として、血を塗り固めた色をした甲殻に大きな亀裂が広がる。巨体が仰け反り、大きく開かれた牙が雲まで届く。全ての肢が痙攣けいれんし、単眼から色が薄れていく。

 ちる。己の質量を支える力を失い、空高く粉塵を舞い上がらせて大地へとせた。目の前の山頂に顎を預けて二本の触覚をうなだれる。吹き抜ける風が土煙を晴らして、大百足の怪物を退治した青年の勇姿をさらけ出す。

 

 木々よりも高い肢が跨ぐその下で、彼は力なく胡坐あぐらいていた。膝の上に大弓を横たわらせて、毛皮に覆われた背中を丸めている。精魂尽き果てた様子で、大量の汗が額から顎へとしたたり落ちる。

 

 今まで信じられない光景をの当たりにしてきた。その中でも飛び抜けている。この地球上に存在できるとは思えない奇想天外な化け物を、ただの青年が弓矢で仕留めてしまうなど、何もかもが荒唐無稽である。

 

 強い関心に突き動かされたのか、視点がたくましい後ろ姿に寄る。不意に青年が振り返った。肩越しに笑う。


「覗き見とは随分ずいぶんと良い趣味をしているな、坊主」

 

 指で傾けた菅笠から薄い瞳が覗く。その眼差しはこちらへと向けられていた。

 


 

 思わず左目を押さえ、右の瞼を開く。現実に立ち返れば、そこは自分の部屋だった。勉強机があって、学生鞄が脇にかけられている。塾からの帰りで、もうカーテンの外は薄暗い。軋むベッドに腰かけて、自分の膝小僧を見下ろしていた。

 階下から母の声がする。夕食ができたのだろう。返事をして、ベッドから立ち上がった。机の上に置いたままの眼帯に手を伸ばし、左目を覆い隠す。

 

 いつの頃からか、左の瞳が異常な景色を映し出した。まるで御伽噺の中の出来事だった。今より澄んだ大空を龍が飛翔し、もっと形容しがたい何かが人の世に蔓延はびこっていた。古風な着物に身を包んだ人々は、傍らにあっても異様な存在に気づくことはない。

 

 一部の毛色けいろが変わった人間たちが、その奇妙な何かを認識していた。反応はさまざまで、多くは忌み嫌い、遠ざけて、あるいは受け入れた。実在するのなら、あれらは人の手に余る。

 

 だから今夜見た光景は、ことさらに特別だった。広大な山地さえ蹂躙じゅうりんする怪物を、ただの青年が弓矢で退治してのけた。あまつさえ、こちらに話しかけてきたのだ。

 

 両親と食卓を囲いながら、眼帯で覆い隠された瞼の裏で、くらい森の輪郭りんかくが浮かび上がっている。奇怪な影がうごめいていた。異様に長い四肢で樹上を跨ぎ、不定形の何かが這いずっている。頭部が眼球に置き換わったふくろうが、じれた枝の上に止まっている。

 

 暗闇をはらんだ木立の狭間に、炎をともしているらしい行列が垣間かいま見える。どこか聞き覚えのある音色が耳朶じだを打つ。

 

 あれは祭囃子まつりばやしだろうか。



 

 頭の奥で、太鼓が高らかに打ち鳴らされる。

 

 瞼を閉じていると、あの祭囃子が聞こえてくる。囃し立てる笛の音、かねなど複数の和楽器が奏でられる。四六しろく時中じちゅう聞こえて、気が狂いそうだった。しかも、日に日に近づいてくる。

 

 だめだ、あれを見てはいけない。

 

 本能的にそう思った。授業を受けているときも、家の中にいる時間も、左の瞼を閉じていると常闇とこやみの森の陰影が浮かび上がってくる。気が狂いそうだった。だから昼休みの中庭や自分の部屋に避難して、眼帯を取り払った。


「また来たのか、坊主」

 

 必然的に同級生や家族との語らいは減った。ただ話し相手はいた。瞳の奥で、焚き火が弾けた。満天の星空の下で、夜の森にだいだい色が灯っている。その灯りの前で、つるが這いずる倒木に腰かけた人影があった。逞しく、獣の毛皮に覆われた背中。斜めになった竹の大弓を背負っている。

 

 おそらく狩った獣だろう。肉を木の串に刺し、炎であぶっている。こちらを振り向きもせず、焼き上がった串を手に取り、かじりつく。肉汁にくじゅうが垂れた。

 傍らに菅笠を脱いだ青年に、を決して話しかけた。


「あなたは、僕のことがわかるんですか」

「見えているだろう。まずは名乗れ」

 

 静かにさとされて、思わず背筋を伸ばした。


遠見とおみなつめです」

 名前を告げると、ようやく彼は振り向いた。精悍せいかんな面持ちに、静かな笑みをたたえている。


「名が二つあるのか。因果な名前だな」

 どういう意味だろう。口ごもっていると、彼は名乗りを上げた。


「俺は山彦やまひこという」

 

 串の中の肉を頬張りながら、山彦という青年は言った。


「遠見、棗……どちらの名で呼べばいい」

「棗、で良いです」

 

 不思議な心地だった。頭の中の住人と語らっている。彼はたいらげた木の串を投げ捨てながら、こともなげに言う。


「棗、お前は今生こんじょうに生きる人間ではないだろう」

 また焚き火が弾けて、小さな火のを上げた。


「先か後か。どちらにせよ、お前がいる人の世に俺は生きてはいまいよ。千里眼せんりがんと言ったか。時を越えて見る光景など、ろくなものではないぞ」

 山彦は泰然たいぜんとしている。頭の中で問いかけた。


「どうして、そこまでわかるんですか」

「魂の毛色が違うからよ。お前ほどでなくとも、それなりに見えるのでな」

 

 薄れた目尻の横を指先で叩く。その仕草は、少し得意気に見えた。案外親しみやすい性格なのかもしれない。

 

 つばを呑み、少々覚悟のいる質問をした。


「あなたたちは、僕の妄想ではないのですか」

「幻、ということか。それはお前が決めろ。言葉に大した意味はないのでな」

 

 あまり要領を得ない答えだった。ただ、彼は言った。


「少なくとも、俺はここに生きている」

 

 焚き火が彼の横顔を照らし出す。その表情は穏やかだった。全ての肉を平らげて、彼は大弓を抱える形で横になった。筋肉が盛り上がった片腕に顔を乗せて、瞼を閉じる。


「明日も旅をせねばならぬのでな。人の寝顔を見るのが趣味か、坊主」

 話を打ち切られた。すぐに寝息が聞こえてくる。小声で呟いた。


「棗です」



 

 寝てもめても、あの祭囃子の音色が聞こえる。

 不眠の症状がひどくなり、睡眠導入剤を処方してもらった。それでも眠れそうにない夜は、左側の瞳の奥を見た。


「お前が見ているという森は、おそらく俺も知っている」

 

 大弓を背負った青年、山彦は旅をしていた。澄み渡った青空の下、振分ふりわけ荷物を揺らして峠道とうげみちを歩いている。青山の狭間で、ざんばら頭の黒い頭が覗いていた。大きな黒目が、興味深そうに彼の歩みを追っている。


「俺の母は、瞼の裏側で見てはならないものを見た。その両目に命を宿した」

 山彦は巨人の眼差しを一向いっこうに気にした素振りがなく、後ろ髪をなびかせる。


「そうして俺たちが生まれた」

 どこまで信じていいかわからない。ただ気になったことを口にした。


「俺、たち?」

「ああ、俺には兄弟がいる。どちらが兄か弟かは知らぬが、名を海彦うみひこという」

 

 風が草木を揺らした。葉擦れの音がする。静かに発せられたのは、殺気だろうか。覗いていた瞳が山間やまあいへと消えた。


「俺は、あれを殺すために旅をしている」

 

 その一言に喉が鳴った。こちらの緊張が伝わったのか、彼は引き締めた頬を緩めた。急に青山へと向かって、大声で叫んだ。


「どこにいる、海彦」

 

 奔放ほんぽうな振る舞いに、呆気あっけに取られた。その楽しげな叫び声が反復されることはなく、一拍いっぱくを置いて一言だけ返ってきた。


「うわん」

 

 何とも奇妙なやまびこだった。



 

 睡眠不足が祟り、塾を休むことにした。とても勉強していられる体調ではない。頭の中で、より鮮明になった祭囃子が聞こえる。眼帯を取り払いたい衝動に駆られながら、覚束おぼつかない足取りで家路を歩いていた。


「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。世にも不思議な紙芝居でございますよ」

 

 響いてきた呼び声に意識が引っ張られた。帰り道にある公園で、奇妙な人影を見た。被っているのは、笠だろうか。頭頂部が尖り、水平に広がった独特なつばから薄い布が垂れている。時代劇で見る、白い小花を散らした羽織を着て、やはり脚絆に草鞋と時代錯誤な服装をしている。

 

 古めかしい大八車だいはちぐるまの傾きに合わせて、その上に載せられた木の枠も少し斜めになっている。絵を差し入れ、次々と入れ替えていく紙芝居の道具だ。枠の中には演目らしい表紙が描かれている。浮世絵に近い。大きな弓を担いだ青年と、一糸いっし纏わぬ姿を長い白髪で覆い隠した子供が対峙たいじしている。山の中に白波が躍っているという、奇妙な構図だった。

 

 なぜだか既視感きしかんを覚えた。


「今日の演目は『山彦と海彦』でさあ。悲しき兄弟の争いでございます。どうか刮目かつもくしていってくだせえ」

 

 人気ひとけのない公園の前で足が止まる。奇妙な風体ふうていの紙芝居屋を見た。



 

 山彦と海彦は母親の両目から生まれたという。

 

 片方は人に寄り、その片割れは魔に寄っていた。海彦に養父を殺され、実の兄弟は対立する。水の巫女の力を借りて、山彦はかの魔性ましょうの右腕を射抜いた。討ち果たすことは叶わず、彼は海彦を仕留めることを誓って旅に出た。


「お話は、これで仕舞しまいでございます」

 

 たった一人だけの見物客の前で、奇妙な形の笠を被った紙芝居屋はうやうやしく一礼をした。拍手すべきか悩み、結局棒立ちのままだった。


「いやあ、坊ちゃんだけでも観てくださってありがたい限りでさあ。時代が違うと、どうにも勝手が違いまして」

 垂れた布で顔を覆い隠した男は、笠の上から頭を掻く。紙芝居屋に尋ねた。


「今の話は、本当にあったことなの」

「おや、どうしてそう思います。これはただの御伽噺でございますよ」

 

 自分のことを話すべきか悩んだ。この素性すじょうの知れない紙芝居屋に全て打ち明けるなど、正気の沙汰さたではない。こちらの沈黙に、彼は布の下で顎を撫でた。


「もしかすると、坊ちゃんは彼らのことをご存じで?」

 

 どこかわざとらしい口振りだった。不眠のせいで判断能力も鈍っていたのだろう。夢の中の出来事として、今まで見た光景を一部話した。現実離れをした存在が闊歩かっぽし、暗い森で祭囃子が聞こえる。さらに山彦と名乗る人物にあちらから話しかけられたのだと。

 

 紙芝居屋の男は唸った。


「そりゃあ遠見の目でございますね。過去まで覗き見るとは、坊ちゃんの左目はとんだ掘り出し物でさあ」

 思わず眼帯を押さえた。実際に左目で目撃した光景だとは告げていない。あからさまに覆い隠しているとはいえ、どうしてそこまでわかるのだろう。


「森の中で祭囃子の音色が聞こえると。そいつはいけない。いずれ連れていかれますぜ」

 

 奇怪な紙芝居屋がにじり寄ってきた。後ずさる。夕暮れの公園の中を風が吹き抜け、茂みを揺らした。男の顔を覆い隠していた布地から垣間見えた。その下の面貌めんぼうを目の当たりにして、喉から悲鳴がほとばしった。顔面が四方に割れて、その隙間から幾つもの縦に裂けた瞳が凝視していた。

 

 どこかで見覚えがあった。ああ、そうか。これはしきみ裂開れっかいした実だ。


「いらねえなら、その目ん玉をあっしにくだせえ」

 

 尻餅をつく。こちらに向かって、木のこずえにも似た指先が迫ってきた。鋭く尖っている。その先端から目を離せない。身動きできずにいると、頭の中で声が響いた。

 

 その覆いを外せ、棗。

 

 考える間はなかった。力強い声音に突き動かされて、眼帯を取り払う。瞳の奥底で、山彦が大弓を構えていた。四方に裂けた瞳がその姿を幾つも映し出す。限界まで引き絞られた弦から、指が離される。解き放たれた白羽の矢は、瞳の表面を突き破ることなくすり抜けて、標的をたがわず射抜いた。眼前で紙芝居屋の肉体がぜた。


「おやまあ」

 空中を舞いながら、異形いぎょうの首が呟く。

「ちっと、欲張りすぎましたかね」

 

 気を失う直前、再び声がした。

 

 さらばだ、棗。達者でな。

 

 次に病院で目覚めたときには、左目から見えた不可思議な事象は全てち切られていた。もう祭囃子の音色も聞こえない。

 

 この瞳が見た、何もかもが未知の夢だった。

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