瞳の夢
二ノ前はじめ@ninomaehajime
瞳の夢
瞳の裏側に未知が映った。
まるで重ね絵だった。左の眼球が別の光景を見た。たまらず右目を閉ざすと、
さらに不思議な光景を目にした。幾つもの浮島が突き出た広大な湖で、奇形の
その痕跡が立ち止まった。視線に
今度は、どの時代に飛ばされたのだろうか。薄っすらと
もはや災害と言っていいだろう。大惨事を引き起こした元凶が目に入る。
何より特徴的だったのは、左手に
彼は腰に帯びた矢筒から白羽の矢を抜いた。草履の底で腐葉土を踏み締め、大弓を持ち上げる。張られた
山の上空で、大百足が首を引く。次の瞬間には、その頭部を突進させていた。尋常ではない質量による一撃は風圧を
菅笠の下で霞んだ眼差しが標的を射抜く。渾身の力で引かれた指から白羽の矢が解き放たれる。打ち震える弦が鈴虫に似た音色を奏でた。
その一矢は、
木々よりも高い肢が跨ぐその下で、彼は力なく
今まで信じられない光景を
強い関心に突き動かされたのか、視点が
「覗き見とは
指で傾けた菅笠から薄い瞳が覗く。その眼差しはこちらへと向けられていた。
思わず左目を押さえ、右の瞼を開く。現実に立ち返れば、そこは自分の部屋だった。勉強机があって、学生鞄が脇にかけられている。塾からの帰りで、もうカーテンの外は薄暗い。軋むベッドに腰かけて、自分の膝小僧を見下ろしていた。
階下から母の声がする。夕食ができたのだろう。返事をして、ベッドから立ち上がった。机の上に置いたままの眼帯に手を伸ばし、左目を覆い隠す。
いつの頃からか、左の瞳が異常な景色を映し出した。まるで御伽噺の中の出来事だった。今より澄んだ大空を龍が飛翔し、もっと形容しがたい何かが人の世に
一部の
だから今夜見た光景は、ことさらに特別だった。広大な山地さえ
両親と食卓を囲いながら、眼帯で覆い隠された瞼の裏で、
暗闇を
あれは
頭の奥で、太鼓が高らかに打ち鳴らされる。
瞼を閉じていると、あの祭囃子が聞こえてくる。囃し立てる笛の音、
だめだ、あれを見てはいけない。
本能的にそう思った。授業を受けているときも、家の中にいる時間も、左の瞼を閉じていると
「また来たのか、坊主」
必然的に同級生や家族との語らいは減った。ただ話し相手はいた。瞳の奥で、焚き火が弾けた。満天の星空の下で、夜の森に
おそらく狩った獣だろう。肉を木の串に刺し、炎で
傍らに菅笠を脱いだ青年に、
「あなたは、僕のことがわかるんですか」
「見えているだろう。まずは名乗れ」
静かに
「
名前を告げると、ようやく彼は振り向いた。
「名が二つあるのか。因果な名前だな」
どういう意味だろう。口ごもっていると、彼は名乗りを上げた。
「俺は
串の中の肉を頬張りながら、山彦という青年は言った。
「遠見、棗……どちらの名で呼べばいい」
「棗、で良いです」
不思議な心地だった。頭の中の住人と語らっている。彼は
「棗、お前は
また焚き火が弾けて、小さな火の
「先か後か。どちらにせよ、お前がいる人の世に俺は生きてはいまいよ。
山彦は
「どうして、そこまでわかるんですか」
「魂の毛色が違うからよ。お前ほどでなくとも、それなりに見えるのでな」
薄れた目尻の横を指先で叩く。その仕草は、少し得意気に見えた。案外親しみやすい性格なのかもしれない。
「あなたたちは、僕の妄想ではないのですか」
「幻、ということか。それはお前が決めろ。言葉に大した意味はないのでな」
あまり要領を得ない答えだった。ただ、彼は言った。
「少なくとも、俺はここに生きている」
焚き火が彼の横顔を照らし出す。その表情は穏やかだった。全ての肉を平らげて、彼は大弓を抱える形で横になった。筋肉が盛り上がった片腕に顔を乗せて、瞼を閉じる。
「明日も旅をせねばならぬのでな。人の寝顔を見るのが趣味か、坊主」
話を打ち切られた。すぐに寝息が聞こえてくる。小声で呟いた。
「棗です」
寝ても
不眠の症状が
「お前が見ているという森は、おそらく俺も知っている」
大弓を背負った青年、山彦は旅をしていた。澄み渡った青空の下、
「俺の母は、瞼の裏側で見てはならないものを見た。その両目に命を宿した」
山彦は巨人の眼差しを
「そうして俺たちが生まれた」
どこまで信じていいかわからない。ただ気になったことを口にした。
「俺、たち?」
「ああ、俺には兄弟がいる。どちらが兄か弟かは知らぬが、名を
風が草木を揺らした。葉擦れの音がする。静かに発せられたのは、殺気だろうか。覗いていた瞳が
「俺は、あれを殺すために旅をしている」
その一言に喉が鳴った。こちらの緊張が伝わったのか、彼は引き締めた頬を緩めた。急に青山へと向かって、大声で叫んだ。
「どこにいる、海彦」
「うわん」
何とも奇妙なやまびこだった。
睡眠不足が祟り、塾を休むことにした。とても勉強していられる体調ではない。頭の中で、より鮮明になった祭囃子が聞こえる。眼帯を取り払いたい衝動に駆られながら、
「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。世にも不思議な紙芝居でございますよ」
響いてきた呼び声に意識が引っ張られた。帰り道にある公園で、奇妙な人影を見た。被っているのは、笠だろうか。頭頂部が尖り、水平に広がった独特なつばから薄い布が垂れている。時代劇で見る、白い小花を散らした羽織を着て、やはり脚絆に草鞋と時代錯誤な服装をしている。
古めかしい
なぜだか
「今日の演目は『山彦と海彦』でさあ。悲しき兄弟の争いでございます。どうか
山彦と海彦は母親の両目から生まれたという。
片方は人に寄り、その片割れは魔に寄っていた。海彦に養父を殺され、実の兄弟は対立する。水の巫女の力を借りて、山彦はかの
「お話は、これで
たった一人だけの見物客の前で、奇妙な形の笠を被った紙芝居屋は
「いやあ、坊ちゃんだけでも観てくださってありがたい限りでさあ。時代が違うと、どうにも勝手が違いまして」
垂れた布で顔を覆い隠した男は、笠の上から頭を掻く。紙芝居屋に尋ねた。
「今の話は、本当にあったことなの」
「おや、どうしてそう思います。これはただの御伽噺でございますよ」
自分のことを話すべきか悩んだ。この
「もしかすると、坊ちゃんは彼らのことをご存じで?」
どこかわざとらしい口振りだった。不眠のせいで判断能力も鈍っていたのだろう。夢の中の出来事として、今まで見た光景を一部話した。現実離れをした存在が
紙芝居屋の男は唸った。
「そりゃあ遠見の目でございますね。過去まで覗き見るとは、坊ちゃんの左目はとんだ掘り出し物でさあ」
思わず眼帯を押さえた。実際に左目で目撃した光景だとは告げていない。あからさまに覆い隠しているとはいえ、どうしてそこまでわかるのだろう。
「森の中で祭囃子の音色が聞こえると。そいつはいけない。いずれ連れていかれますぜ」
奇怪な紙芝居屋がにじり寄ってきた。後ずさる。夕暮れの公園の中を風が吹き抜け、茂みを揺らした。男の顔を覆い隠していた布地から垣間見えた。その下の
どこかで見覚えがあった。ああ、そうか。これは
「いらねえなら、その目ん玉をあっしにくだせえ」
尻餅をつく。こちらに向かって、木の
その覆いを外せ、棗。
考える間はなかった。力強い声音に突き動かされて、眼帯を取り払う。瞳の奥底で、山彦が大弓を構えていた。四方に裂けた瞳がその姿を幾つも映し出す。限界まで引き絞られた弦から、指が離される。解き放たれた白羽の矢は、瞳の表面を突き破ることなくすり抜けて、標的を
「おやまあ」
空中を舞いながら、
「ちっと、欲張りすぎましたかね」
気を失う直前、再び声がした。
さらばだ、棗。達者でな。
次に病院で目覚めたときには、左目から見えた不可思議な事象は全て
この瞳が見た、何もかもが未知の夢だった。
瞳の夢 二ノ前はじめ@ninomaehajime @ninomaehajime
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