第10話|ざまぁは、静かに
第10話|ざまぁは、静かに
鍵は、思ったより軽かった。
「……これで、全部ですね」
不動産会社の担当者が、丁寧に頭を下げる。
凛は、小さく頷いて、鍵を受け取った。
金属の冷たさが、掌に残る。
でも、それは嫌な冷たさじゃない。
新しいものの、無機質な温度。
「……ありがとうございました」
エントランスを出ると、午後の光が差し込んできた。
高すぎない建物。
派手じゃない街。
だけど、風の通りがいい。
「……静か」
そう呟いた声が、ちゃんと自分の耳に届く。
タワマンみたいに、上じゃない。
でも、ここは――
地に足がついている場所だった。
ドアを開ける。
「……ただいま」
誰もいない部屋。
新しい壁紙の匂い。
まだ何も置かれていない床。
「……うん」
凛は、靴を脱いで、ゆっくり部屋を歩いた。
「……広すぎない」
キッチン。
窓。
ワークスペースにできそうな一角。
「……ちょうどいい」
スーツケースを置き、
ノートPCを机に乗せる。
電源を入れる前、
一瞬だけ、手が止まった。
「……思えば」
凛は、椅子に腰を下ろし、天井を見上げた。
「……家も、家族も、恋人も」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ鳴る。
「……全部、なくなった」
でも。
「……全部じゃなかった」
小さく、笑う。
「……私は、ここにいる」
電源を入れる。
起動音。
「……あの頃」
ネットカフェの個室。
72時間。
赤いログ。
乾いた喉。
「……必死だったな」
でも、必死だったから、
今がある。
スマホが、机の上で震えた。
「……?」
画面を見る。
《New project inquiry》
「……もう来てる」
メールを開く。
《We’d like to discuss a new system design.》
「……早いな」
凛は、自然に口角が上がるのを感じた。
「……待ってた、わけじゃないけど」
キーボードに指を置く前に、
ふと、言葉がこぼれる。
「……ざまぁ、ってね」
誰に向けるでもなく。
「……怒鳴ることでも」
「……復讐することでもない」
一拍。
「……自分の人生を、奪い返すこと」
それだけだ。
誰かを殴らなくてもいい。
誰かを見下さなくてもいい。
「……戻らないって、決めて」
「……前に進むだけ」
それが、いちばん効く。
凛は、画面に向かって言った。
「……私は、もう奪われない」
キーボードを叩く。
《Yes, I’m available. Let’s talk.》
送信。
「……よし」
椅子に深く座り直す。
「……始めよう」
この部屋で。
この名前で。
この人生で。
窓の外。
夕方の光が、ゆっくり色を変えていく。
「……静かだ」
でも、その静けさは、孤独じゃない。
「……満ちてる」
凛は、もう一度、鍵を見た。
「……これは、証拠だ」
誰かに与えられたものじゃない。
奪い返したもの。
「……私の人生」
ノートPCの画面に、
新しい仕事の資料が表示される。
「……忙しくなるな」
そう言って、凛は笑った。
ざまぁは、静かだ。
拍手も、怒号もない。
でも確かに、
勝っている。
凛は、キーボードに指を置いた。
物語は、ここで終わる。
人生は、
ここから続く。
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