第9話|再会
第9話|再会
照明が、ゆっくりと落ちた。
会場に、ざわめきが広がる。
「……始まる」
凛は、ステージ袖で深く息を吸った。
スーツの袖口を整える。
指先に感じる、生地の張り。
安物じゃない。
でも、見せびらかすためのものでもない。
「相原さん、お願いします」
スタッフの声。
「……はい」
一歩、前へ。
拍手が起こる。
それは、以前知っていた“社交辞令の拍手”とは違った。
遅れて、重なって、広がっていく音。
——評価されている音。
「……こんにちは」
マイクを通した自分の声が、会場に響く。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
スクリーンに映る、自分の名前と肩書。
Freelance Engineer / CTO
一瞬、胸の奥が熱くなる。
でも、表情は変えない。
「私は、数年前まで――」
凛は、言葉を選びながら話す。
「……住む場所も、頼れる人も、ありませんでした」
会場が、静まる。
「でも」
凛は、少しだけ笑った。
「コードは、残っていました」
クス、と小さな笑いが起きる。
「仕事は、私を裏切らなかった」
スライドが切り替わる。
グラフ。
成長曲線。
プロダクトの名前。
そのときだった。
視線が、会場の隅に引っかかる。
——あ。
一瞬だけ、鼓動が跳ねた。
やつれた顔。
背中が、少し丸い。
スーツは、体に合っていない。
弟、悠斗。
その隣。
化粧が濃く、笑顔が固い。
元婚約者。
「……」
凛は、ほんの一瞬だけ、言葉を止めた。
会場の誰も、気づかないほどの間。
——来てたんだ。
胸の奥で、何かが揺れた。
でも、それは痛みじゃなかった。
「……続けますね」
凛は、視線をスクリーンに戻す。
「技術は、積み上げた分だけ、正直です」
会場が、頷く。
「嘘は、いずれ露呈する」
ざわ、と小さな波。
「でも、コードは嘘をつかない」
拍手。
凛の声は、安定していた。
数年前、ネットカフェで震えていた声とは違う。
講演が終わる。
「ありがとうございました」
大きな拍手。
立ち上がる人もいる。
凛は、一礼して、壇上を降りた。
——来るな。
心の中で、そう思った。
でも。
「……姉ちゃん」
背後から、かすれた声。
振り向く。
「……久しぶり」
悠斗は、視線を合わせられずにいた。
「……元気そうだな」
「……そう?」
凛は、穏やかに答えた。
「……仕事は、順調」
「……そっか」
その一言に、すべてが詰まっていた。
元婚約者が、一歩前に出る。
「……凛」
名前を呼ばれても、心は動かない。
「……すごいね」
「……ありがとう」
社交辞令。
それ以上でも、それ以下でもない。
「……私たち……」
「……用件は?」
凛は、遮った。
声は、冷たくない。
でも、近くもない。
二人が、言葉に詰まる。
「……あの時は……」
悠斗が、絞り出す。
「……ごめん」
凛は、少し考えた。
「……もう、いい」
「……え?」
「……謝罪、必要ない」
元婚約者が、目を見開く。
「……怒ってないの?」
凛は、首を横に振った。
「……怒る段階は、終わった」
その言葉が、二人を黙らせた。
「……私は、前に進んだだけ」
悠斗の肩が、少し落ちる。
「……俺たち……」
「……戻らないよ」
凛は、はっきり言った。
「……戻る場所が、もう違う」
沈黙。
周囲では、名刺交換の音、笑い声。
世界は、普通に回っている。
「……それじゃ」
凛は、一歩下がった。
「……今日は、これで」
元婚約者が、何か言いかけたが、言葉にならなかった。
凛は、最後に一度だけ、二人を見た。
——哀れでも、憎くもない。
ただ、過去。
「……お元気で」
そう言って、微笑んだ。
その笑顔は、
勝者のものでも、復讐者のものでもなかった。
ただ、
自分の人生を生きている人の顔だった。
凛は、会場を後にする。
ガラス張りのロビー。
夕方の光。
「……風、気持ちいい」
外に出ると、空が高かった。
「……次、どこ行こうか」
スマホを開く。
次の打ち合わせの通知。
「……忙しいな」
でも、その忙しさは、
かつての“必死”とは違う。
凛は、歩き出した。
過去と再会しても、
足は、止まらなかった。
それが、何よりの答えだった。
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