第7話|逆流する現実

第7話|逆流する現実


その部屋には、ちゃんと窓があった。

ネットカフェを出て、最初に借りたワンルーム。

狭いけれど、カーテン越しに夕日が入る。


「……静か」


凛は、マグカップに残ったコーヒーを一口飲んだ。

少し苦い。

でも、もう嫌じゃなかった。


ノートPCの横で、スマホが震えた。


「……?」


画面を見て、指が止まる。


——悠斗。


弟の名前。


「……今さら」


出ない、という選択肢もあった。

でも、凛は一度、深く息を吸ってから、通話ボタンを押した。


「……なに」


『姉ちゃん……』


声が、やけに弱々しい。


「……どうしたの」


『あのさ……ちょっと、相談があって』


その一言で、だいたい察した。


「……相談?」


『うん』


「……何の」


沈黙。

向こうで、何かを迷っている気配。


『……生活費が、足りなくて』


「……」


『思ったより……きつい』


凛は、窓の外を見た。

夕焼けが、ビルの隙間に沈んでいく。


「……それで?」


『美咲がさ……』


「……元婚約者、ね」


『……うん』


弟の声が、少し詰まる。


『働かないんだ』


「……」


『妊娠してるって言うし……』


「……本当に?」


その一言で、空気が変わった。


『……今は……まだ……』


凛は、目を閉じた。


「……ふうん」


『それに……』


「……まだ、ある?」


『親の年金がさ……』


「……限界?」


『……うん』


一拍。

二拍。


凛は、マグカップを置いた。

底が、コツンと鳴る。


「……それで?」


『……助けてほしい』


声が、震えていた。


『姉ちゃん、今……仕事、うまくいってるんだろ?』


「……どこで聞いたの」


『母さんが……』


「……ああ」


凛は、小さく笑った。


「……都合いいね」


『そんな言い方……』


「……じゃあ、どんな言い方ならいいの」


沈黙。

その沈黙が、答えだった。


『……俺たち、家族だろ』


その言葉が、ゆっくり胸に落ちてくる。


「……違うよ」


凛は、はっきり言った。


『え……?』


「……私はもう、家族じゃない」


『な、なんでそんな……』


「……覚えてない?」


凛の声は、静かだった。


「……家も、婚約者も、名誉も」


「……全部、家族に奪われた」


『……』


「……その時、誰が助けてくれた?」


『……』


「……誰も、いなかった」


弟の息遣いが、少し荒くなる。


『でも……今は……』


「……今は?」


凛は、少しだけ、声を低くした。


「……困ったから?」


『……』


「……それで、家族?」


『姉ちゃん……』


「……私ね」


凛は、ゆっくり言葉を選んだ。


「……あの時、言われたの」


『……』


「……“一人でも生きられるでしょ”って」


『……』


「……だから、生きてる」


『……』


「……一人で」


向こうで、何かが崩れる音がした。

弟が、椅子に座り込んだ気配。


『……冷たいな』


「……冷たい?」


凛は、窓に映る自分を見た。


「……冷たくなったんじゃない」


「……切り離しただけ」


『……』


「……もう、戻らない」


弟の声が、かすれる。


『……少しでいいんだ』


「……少し?」


『……一時的でいいから……』


凛は、首を横に振った。


「……一度、助けたら」


「……ずっと、戻ってくるでしょ」


『……』


「……私は、もうあの場所に戻らない」


『……美咲が……』


「……私に関係ある?」


言い切ると、胸の奥が、すっと軽くなった。


『……親が……』


「……自分で、選んだ結果でしょ」


沈黙。


「……悠斗」


『……』


「……あなたは、奪う側を選んだ」


『……』


「……私は、生き残る側を選んだ」


通話の向こうで、弟が、泣いている気配がした。


『……姉ちゃん……』


「……もう、連絡しないで」


『……』


「……お願い」


静かに、そう言った。


『……』


通話が、切れた。


凛は、しばらくスマホを見つめていた。

画面が、暗くなる。


「……終わった」


そう呟いて、窓を開ける。

夜風が、部屋に流れ込む。


「……寒」


でも、嫌じゃなかった。


「……戻らないって、こういうことなんだ」


胸の奥に、かすかな痛み。

でも、それは、後悔じゃなかった。


「……私は、前に進んでる」


カーテンが、風に揺れる。


凛は、ノートPCを開いた。

次の仕事の通知が、すでに届いている。


「……行こう」


誰に言うでもなく、呟く。


過去は、追いかけてくる。

でも、足は止めない。


凛は、キーボードに指を置いた。


逆流する現実を、

静かに、置き去りにするために。


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