第5話|弟夫婦の“順調な滑り出し”
第5話|弟夫婦の“順調な滑り出し”
タワマンの朝は、音が少ない。
窓を閉め切ると、街のざわめきはほとんど届かない。
「……やっぱ、この部屋広いね」
悠斗は、リビングのソファに深く腰を沈めた。
革が、ぎし、と低く鳴る。
「でしょ?」
隣で、美咲がスマホをいじりながら笑う。
カーテン越しの光が、彼女の爪に塗られた淡いピンクを照らしていた。
「凛さん、ほんといい部屋持ってたよね」
「……まあ」
悠斗は曖昧に頷いた。
“持ってた”という言い方に、ほんの一瞬だけ、胸がちくりとしたが、すぐに無視した。
「でも、もう私たちの部屋だし」
美咲は、そう言って、腹部をさすった。
まだ膨らんでもいないお腹。
「赤ちゃんのためだもんね」
「……うん」
テーブルの上には、母が置いていった紙袋。
ベビー用品のカタログ。
出産準備チェックリスト。
「お母さん、張り切りすぎだよ」
「初孫だからね」
悠斗は笑った。
その笑いに、少しだけ無理が混じっていた。
「それにさ」
美咲が、ふとスマホから目を上げる。
「生活費のこと、ちゃんと考えないと」
「え?」
「この部屋、家賃五十万でしょ?」
「……まあ」
「管理費もあるし、光熱費も」
「……親が出してくれるって」
「ずっと?」
その一言で、空気が変わった。
「……え?」
「だってさ」
美咲は、ソファから身を乗り出す。
「育児って、お金かかるんだよ?」
「……」
「ミルク、オムツ、病院、ベビーカー」
一つ一つ指折り数える。
「ねえ、悠斗」
「……なに」
「凛さんのクレカ、使えなくなってるよね?」
悠斗の心臓が、どくんと鳴った。
「……え?」
「昨日、ネットで調べ物しようとしたら、決済できなくて」
美咲は、眉をひそめた。
「“このカードは現在ご利用いただけません”って」
「……」
「え、どういうこと?」
悠斗は、視線を逸らした。
「……姉ちゃん、フリーランスだし」
「だから?」
「……収入、安定してないって、母さんが」
「え、ちょっと待って」
美咲の声が、少し高くなる。
「じゃあ、今までの生活費って……」
沈黙。
「……凛さん?」
悠斗は、答えなかった。
「え、もしかして……」
美咲の目が、見開かれる。
「私たち、凛さんのカードで生活してたってこと?」
「……全部じゃない」
「全部じゃなくても!」
美咲は、ソファから立ち上がった。
「じゃあ、これからどうすんの?」
「……親が……」
「親の年金で?」
その言葉が、鋭く突き刺さる。
「……だって、凛さんは一人でも生きられるって……」
「それ、誰が言ったの?」
「……母さん」
美咲は、唇を噛んだ。
「……ちょっと、話が違う」
「何が」
「私はさ」
声が、少し震える。
「安定した生活ができるって、思ってた」
「……」
「タワマンで、出産して、子育てして」
「……」
「なのに、生活費どうすんの?」
悠斗は、額に汗をかいた。
「……働けばいいじゃん」
「私が?」
美咲の声が、冷たくなる。
「妊娠してるのに?」
「……」
「ねえ」
美咲は、ゆっくり近づいた。
「凛さん、今どこにいるの?」
「……知らない」
「連絡、取ってないの?」
「……縁、切るって」
その瞬間、美咲の表情が変わった。
「……は?」
「昨日、実家で」
「ちょっと待って」
美咲は、頭を抱えた。
「え、じゃあ……」
「……」
「私たち、寄るところ、なくない?」
“寄るところ”。
その言葉が、部屋に落ちた。
高い天井。
磨かれた床。
静かな空気。
すべてが、急に不安定に見える。
「……ねえ、悠斗」
「……」
「凛さんに、連絡して」
「……無理だよ」
「なんで」
「……もう、家族じゃないって」
美咲は、しばらく黙っていた。
それから、小さく呟いた。
「……最悪」
その声は、怒りでも悲しみでもなく、
“計算違い”の音だった。
窓の外。
同じ高さのビルが、何事もなかったように並んでいる。
「……順調、だったはずなのに」
美咲が言う。
悠斗は、何も答えなかった。
その沈黙の中で、二人はようやく気づき始めていた。
——寄りかかっていた土台が、
——もう、存在しないことに。
タワマンは、静かだった。
その静けさが、二人の不安を、はっきり映し出していた。
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