第4話|奪われなかったもの

第4話|奪われなかったもの


夜が、いつの間にか朝に変わっていた。

ネットカフェの個室に差し込む蛍光灯の光は、時間を教えてくれない。


「……もう、こんな時間」


凛は首を回し、凝り固まった肩を鳴らした。

骨が擦れる音が、やけに大きく聞こえる。


個室の中は、コーヒーとプラスチックと、少し汗の混じった匂い。

人が「寝泊まりする場所」じゃない匂いだ。


「……でも」


凛は、ノートPCの画面を見つめる。


「……ちゃんと、生きてる」


ブラウザのタブには、修正済みのログ、完了通知、感謝のメッセージ。

画面の白が、やけに眩しい。


「……家は、ない」


小さく呟く。


「……家族も、ない」


それは、昨日実家の玄関を出た時に、はっきり分かったことだった。


「……恋人も、いない」


喉の奥が、少しだけ詰まる。

でも、泣かなかった。


「……全部、奪われた」


そう言ってみる。

けれど、その言葉は、どこか嘘くさい。


凛は、キーボードから手を離し、指先を見つめた。

ささくれ。

爪の形。

コードを書き続けてきた指。


「……あれ?」


胸の奥で、かすかな違和感が生まれる。


「……全部、じゃない」


画面を切り替え、GitHubのプロフィールを開く。

そこにあるのは、自分のハンドルネーム。


——RIN_AH。


「……消えてない」


過去のコミット。

積み上がった履歴。

誰かの星。

フォーク。


「……奪われてない」


指が、少し震えた。


「……技術」


自分が学び、失敗し、夜を削って身につけたもの。


「……実績」


名前を伏せても、コードが語るもの。


「……信用」


一度きりじゃない。

繰り返し選ばれてきたという事実。


「……名前」


本名じゃない。

でも、世界のどこかで、確かに自分を示す名前。


凛は、深く息を吸った。


「……ああ」


胸の奥が、じんわり温かくなる。


「……私は、空っぽじゃない」


隣の個室から、誰かの寝息が聞こえる。

遠くで、ドリンクバーの氷が落ちる音。


凛は、イヤホンを外し、静かな空気を感じた。


その時だった。


スマホが、短く震えた。


「……?」


画面を覗く。


《Hi, we’re looking for someone who can handle a critical outage.》


差出人は、見覚えのあるスタートアップの名前。


「……え」


一瞬、息が止まる。


《ASAP. Are you available?》


「……至急、障害対応……」


声に出して読むと、現実味が増した。


「……私?」


指が、画面の上で止まる。


——今、ネットカフェ。

——所持金、ほとんどなし。

——シャワーも、ベッドもない。


「……でも」


凛は、画面から目を逸らさなかった。


「……“できるか”じゃない」


喉の奥が、すっと冷える。


「……“やるか”だ」


キーボードを叩く。


《Yes. I’m available now.》


送信。


すぐに、既読。


《Thank you. Can we talk now?》


「……早」


ヘッドセットをつける。

耳に、軽い圧。


「……Hello. This is Rin.」


声は、落ち着いていた。


『Thanks for responding so fast. We’re in trouble.』


「……状況、教えてください」


『Production is down. Payments aren’t going through.』


「……決済か」


背筋が、自然と伸びる。


「……ログ、見せてもらえます?」


画面に流れてくる、エラーメッセージ。

赤。

赤。

赤。


「……なるほど」


独り言が漏れる。


「……ここ、昨日のデプロイ?」


『Yes.』


「……原因、分かりました」


『Already?』


「……多分」


凛は、指を走らせる。


「……ここ、ロールバックして、設定一つ戻してください」


『Okay.』


数秒。


『Payments are back.』


「……よし」


胸の奥が、軽く跳ねた。


『You’re fast.』


「……慣れてるだけです」


通話の向こうで、誰かが笑う。


『We need someone like you.』


その言葉が、静かに胸に落ちる。


「……ありがとうございます」


通話が終わる。


凛は、椅子にもたれ、天井を見上げた。


「……ほら」


小さく、笑う。


「……奪われなかった」


家はない。

家族もない。

恋人もいない。


「……でも」


ノートPCに、そっと触れる。


「……私は、まだここにいる」


ハンドルネームが、画面の端で光っている。


「……名前、残ってる」


凛は、深く息を吸った。


「……これでいい」


ネットカフェの薄暗い個室。

でも、心は不思議と、広かった。


「……世界は、まだ、私を知らない」


指を、キーボードに置く。


「……だから、これからだ」


奪われなかったものを、

静かに、武器に変えるために。


凛は、再び画面に向き合った。


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