第3話|ネットカフェの夜

第3話|ネットカフェの夜


ネットカフェのドアを開けた瞬間、

甘い消臭スプレーと、古いカーペットの匂いが混じって鼻を刺した。


「……ここ、か」


フロントの女性は、凛の顔を見ても何も聞かなかった。

身分証を出し、料金を支払う。

残高を思い出さないように、考えない。


「個室、こちらです」


通された通路は狭く、壁に貼られたポスターが剥がれかけている。

キーボードを叩く音、咳、誰かのくぐもった笑い声。

人の生活の、裏側の音。


「……落ち着け」


個室のドアを閉めると、わずかな静寂が落ちた。

椅子は安っぽく、座ると軋む。

机は狭い。でも――


「……十分」


凛はスーツケースを足元に置き、ノートPCを取り出した。

天板に置いた瞬間、軽い衝撃が指先に返ってくる。


「……あんたが、最後の味方だね」


画面を開く。

起動音。

暗闇に、白い光。


ヘッドフォンを装着すると、世界が少し遠のいた。

エアコンの低い唸りだけが、耳に残る。


「……よし」


凛は、背筋を伸ばした。

眠気も、悲しみも、後回し。


「……仕事は、裏切らない」


声に出して言うと、不思議と呼吸が整った。


ブラウザを開く。

メール。

未読、二十七件。


「……多いな」


以前、対応しきれずに保留にしていた海外案件。

返事が遅れて、流れたと思っていた仕事。


「……今なら、全部受ける」


指が、自然と動く。


《Hi, sorry for the late reply. I’m available now.》


送信。


もう一通。


《I can start immediately.》


送信。


「……狩り、だね」


呟きながら、GitHubを開く。

自分のリポジトリ。

過去のコード。

コミットログ。


「……ちゃんと、残ってる」


胸の奥が、少しだけ温かくなる。


「……私、消えてなかった」


隣の個室から、誰かが咳をする。

キーボードの連打音。

深夜の生活音。


凛は、コードを眺めながら、独り言を続ける。


「……ここ、もう少し最適化できるな」


「……あ、ここ、昔の癖だ」


画面の中では、すべてが正直だった。

嘘も、感情も、忖度もない。


「……いいよね」


凛は、ふっと笑う。


「……裏切らない」


スマホが、震えた。


《Are you really available now?》


「……来た」


凛は、すぐに返信する。


《Yes. I can handle backend and infra.》


間もなく、通話リクエスト。


「……出るか」


ヘッドセットを調整する。


「Hello. This is Rin.」


相手の声は、少し疲れていた。


『We have a production issue. Can you take a look?』


「Sure. Send me the access.」


画面に流れてくるログ。

エラー。

無数の赤。


「……なるほど」


独り言が、自然と増える。


「……ここ、怪しい」


「……やっぱり」


指が走る。

時間の感覚が、薄れていく。


隣の物音も、もう気にならない。


『How long do you need?』


「……One hour. Maybe less.」


沈黙。

そのあと、相手が息を吐く音。


『Please.』


「……任せて」


通話を切る。


凛は、深く息を吸った。


「……大丈夫」


自分に言い聞かせる。


「……私は、これで生きてきた」


画面の中のコードが、応えるように整っていく。


一時間後。


「……はい」


修正完了。

デプロイ。


数秒の沈黙。


『It works.』


「……よかった」


胸の奥が、きゅっと緩む。


『You saved us.』


「……いえ」


ヘッドセットを外し、椅子にもたれる。


「……はぁ」


初めて、疲れを感じた。


スマホが、また震える。


《We’d like to offer a longer contract.》


「……」


画面を見つめて、凛は小さく笑った。


「……始まった」


ネットカフェの薄暗い天井。

蛍光灯の白い光。


「……ここからだ」


スーツケースに寄りかかりながら、呟く。


「……家も、家族も、失ったけど」


ノートPCに、そっと手を置く。


「……仕事は、私を捨てなかった」


外は、まだ夜。

でも、凛の中では、確かに朝が近づいていた。


「……狩りは、続く」


彼女は、再びキーボードに指を置いた。


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