第2話|家族会議という名の処刑
第2話|家族会議という名の処刑
実家の玄関は、相変わらず線香の匂いがした。
古い木の扉を開けると、畳と洗剤と、湿った空気が混じって鼻を突く。
「……ただいま」
返事はない。
奥の居間から、テレビの音だけが流れている。
凛は靴を脱ぎ、畳に足を置いた。
ひんやりした感触が、昨日のタワマンの床より、ずっと生々しい。
「……座って」
母の声がした。
振り向くと、低い座卓の向こうに、両親と弟が並んで座っている。
弟・悠斗は、視線を逸らしたまま、膝の上で手を組んでいた。
その隣には、知らない女――いや、知っている。
凛の元婚約者・拓也の、腕に絡みつくように座る女。
「……来たんだ」
悠斗が、ようやく口を開いた。
「呼ばれたから」
凛は、正座もせず、畳にあぐらをかいた。
その一瞬、母の眉がぴくりと動いた。
「まずね」
父が咳払いをする。
その音が、やけに大きく響いた。
「落ち着いて話そう」
「……落ち着いてるけど」
凛は答えた。
心臓は静かだった。
静かすぎて、自分でも怖いくらい。
母が口を開く。
「凛、あなたも分かってるでしょ」
「……何を?」
「女が三十二で、フリーランスなんて、不安定なの」
空気が、一瞬止まる。
「……それ、今言う?」
「今だから言うのよ」
母は、湯のみを両手で包みながら言った。
「悠斗は正社員だし、家庭を持つの。子どももできたんだから」
「……できた、って」
凛は、女の腹を見た。
ゆったりした服の下は、まだ平らだった。
「本当に?」
女が、きゅっと悠斗の腕を掴む。
「……そういう言い方、やめてください」
「どんな言い方?」
「疑うような……」
「疑うでしょ」
凛の声は、驚くほど淡々としていた。
「昨日まで、私の婚約者だった人が、弟の恋人になってて、妊娠してるって言われて」
「凛!」
母が声を荒げる。
「そんな言い方……!」
「じゃあ、どう言えばいいの」
沈黙。
テレビのバラエティ番組の笑い声が、場違いに響く。
父が言った。
「婚約なんて、正式な書類があったわけじゃないだろう」
「……は?」
「自然消滅だ」
その言葉が、凛の胸に、鈍く落ちた。
「……自然?」
「そうだ。大人なんだから」
「……」
「揉め事にする必要はない」
「……じゃあ」
凛は、ゆっくり息を吸った。
「私が三年付き合って、両家顔合わせまでして、指輪ももらって」
指先が、無意識に空をなぞる。
「それが、“自然消滅”?」
母が、ため息をついた。
「凛、世の中はね、感情だけじゃ動かないの」
「……今さら?」
「弟は守らなきゃいけない立場なの」
「じゃあ、私は?」
その問いに、誰もすぐ答えなかった。
悠斗が、ぽつりと言う。
「姉ちゃんはさ……」
「……なに」
「一人でも生きられるでしょ」
その言葉が、静かに、致命的に刺さる。
「頭いいし、仕事できるし」
「……それ、褒めてる?」
「事実だよ」
女が、安心したように頷く。
「凛さんは、強いですもんね」
その瞬間、凛の中で、何かが完全に切れた。
「……ああ、そう」
凛は立ち上がった。
畳が、きしりと鳴る。
「じゃあ、いい」
母が慌てる。
「ちょっと、話はまだ……」
「もう十分」
凛は、全員を見回した。
「分かった」
「何が?」
「私はね」
一人一人の顔を、はっきりと見る。
「ここでは、もう人じゃないんだって」
「凛!」
「便利で、強くて、切り捨ててもいい存在」
空気が、凍る。
「……だから」
凛は、深く息を吸った。
「私も、家族やめる」
悠斗が、顔を上げた。
「え……?」
「縁、切る」
「ちょ、ちょっと待てよ」
父が慌てて立ち上がる。
「感情的になるな」
「感情的?」
凛は笑った。
音のない笑いだった。
「感情的なのは、そっちでしょ」
「……」
「家も、婚約者も、名誉も、全部奪って」
「……」
「それで、“あなたは一人で生きられる”?」
凛は、鞄を手に取る。
「分かったよ」
玄関に向かいながら、言った。
「生きてみせる」
誰も、引き止めなかった。
靴を履く。
玄関の冷たいタイルが、足裏に伝わる。
「……もう、連絡しないで」
ドアを開ける前、振り返る。
「困っても、助けない」
「凛……!」
母の声を、背中で聞いた。
外に出ると、夕方の空気が冷たい。
肺が、きゅっと縮む。
でも、心は不思議と軽かった。
「……終わった」
それは、絶望じゃなかった。
「……始まったんだ」
凛は、歩き出した。
家族のない世界へ。
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