第1話|追放通知
第1話|追放通知
目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。
カーテン越しの朝の光が、やけに白い。
「……眩し」
喉が乾いていた。
凛はベッドから抜け出し、裸足のままキッチンへ向かう。
床はひんやりしていて、昨夜までの体温を拒むみたいだった。
「コーヒー……」
ポットに手を伸ばした、その瞬間。
——沈黙。
いつも聞こえる、冷蔵庫の低い唸りも、換気扇の微かな振動もない。
耳の奥が、きゅっと縮んだ。
「……あれ?」
蛇口をひねる。
乾いた金属音だけが、カン、と返ってくる。
「……え?」
もう一度、強く回す。
水は落ちない。
焦りが、皮膚の内側をざらざらと撫でた。
「……停電?」
スマホを手に取った瞬間、震えた。
《【重要】家賃引き落とし停止のお知らせ》
《【緊急】電気供給停止》
《【通知】ガス・水道停止》
《【警告】クレジットカードは現在ご利用いただけません》
「……は?」
指先が冷たくなる。
通知を一つずつ、信じられない速度で読み返す。
「……五十、万……?」
家賃の金額を見た瞬間、喉の奥が詰まった。
「……なんで……?」
残高確認。
数字は、ほとんど残っていなかった。
「……ちょっと、待って……」
背後で、冷蔵庫が完全に沈黙した。
部屋が、急に広く、空虚になる。
五十階。
ガラス張りの窓から見える、朝の東京。
昨日と同じ景色なのに、世界だけが切り替わっている。
スマホが鳴った。
——母。
「……はい」
『ああ、凛?』
いつも通りの声。
天気の話でもするみたいな、軽さ。
「……何、これ」
『あ、気づいた?』
「……電気も水も、止まってるんだけど」
『止めたからね』
「……止めた……?」
頭の中で、言葉が転がる。
『もう、あの部屋は凛のじゃないの』
「……は?」
『弟夫婦が住むことになったの。妊娠してるから』
一瞬、音が消えた。
窓の外の車の音も、人の声も、遠のく。
「……妊娠?」
『そう。もう三十近いんだし、家庭持たせないと』
「……誰が』
沈黙。
その間に、答えは勝手に浮かんだ。
『……拓也さん』
胸の奥で、何かが割れた。
「……私の、婚約者、だよね」
『そう。でも仕方ないでしょ』
「……何が』
『凛はフリーランスでしょ。将来、不安定だし』
「……』
『弟は正社員だし、子どももできたし』
「……』
『あなたは一人でも生きていけるでしょ? 頭いいし』
頭が、真っ白になった。
「……じゃあ、私は?」
『もう三十二でしょ。いつまでも甘えないで』
「……』
『荷物、今日中にまとめて。鍵は管理人に』
通話が、切れた。
スマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
床の冷たさが、足裏から心臓まで這い上がってくる。
「……ふざけ……」
声が、喉で潰れる。
「……ふざけんなよ……」
ソファに腰を落とす。
革の感触が、やけに現実味を欠いていた。
「……拓也……」
メッセージアプリを開く。
未読。
電話をかける。
呼び出し音のあと、切れる。
「……説明くらい……」
送信画面に指を置いて、止まった。
——説明されて、何になる?
胸の奥で、冷たい声がした。
「……はは」
乾いた笑いが、こぼれる。
「……全部、奪っておいて……」
立ち上がり、寝室へ。
クローゼットの中、整然と並ぶ服。
でも今、欲しいのはそれじゃない。
ノートパソコンを手に取る。
指先に、わずかな温もり。
「……あんたは、止まってないよね」
電源を入れる。
起動音が、静かに鳴る。
「……よし」
スーツケースに、最低限だけ詰める。
服、充電器、PC。
玄関に立つ。
最後に、部屋を振り返る。
「……さよなら」
思ったより、声は震えなかった。
エレベーターを降りる間、
心臓は、妙に静かだった。
ロビーを抜けると、朝の空気が肺を刺す。
「……寒」
でも、涙は出なかった。
ポケットの中で、スマホが震える。
《海外案件/至急対応可能なエンジニア募集》
画面を見つめて、凛は深く息を吸った。
「……仕事は、奪われてない」
空を見上げる。
タワマンの影が、足元に落ちている。
「……静かに、取り返す」
誰にも聞こえない声で、そう言った。
凛は、歩き出した。
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