【1年 4月-9】いつもとは違うこと

 翌朝家に来た綾菜はグレーのスウェット姿で、いつもの綾菜だった。いつものように俺の部屋のベッドを占領されて、これはいつもではないけれど、アイス緑茶を要求された。


 1階で緑茶を用意して2階の俺の部屋に戻ると、綾菜はやはりいつものごとくベッドに仰向けになって漫画を読んでいた。この漫画は2階にある漫画専用部屋からパクってきたもので、真城家4人の趣味が合わさっているので色んなジャンルがある。今日は少女漫画だ。

 

 倒しても中身がこぼれないシリコン蓋にストローを刺した、(ほぼ綾菜用となっている)いつもの黒猫のコップを綾菜の方に持っていくと、綾菜が起き上がる。が、手は動かさない。

 

 この場合、俺はストローを綾菜の口まであてがう。綾菜が一口飲んで「うむ」と言う。これは終了の合図なので、コップは丸テーブルの上に置く。……この人、本当に俺に弁当作ってくれた人?


「けんこー、昨日疲れたから肩揉んで」


 いつも過ぎる。ちなみにこれ、要求を徐々に上げるフット・イン・ザ・ドアのテクニックで、結局は全身マッサージになる。おかげで女性の体を触ることに免疫できちゃったよ、俺。


 綾菜は椅子のように足を曲げてベッドに座るのに対して、俺は綾菜の後ろに正座して座る。


 妹が俺を奴隷と言っていたけれど、絵的には確かに明確な上下関係があるように見えるだろう。だが正直、昨日の関係よりこうして肩を揉む方が安心する。我ながら情けないけれど。


「もちょっと下の方、そう、そこ」


 よく考えると、この安心の正体を探ることこそ、魔女の呪いから解放される近道なのかもしれない。


「あー、もっと強く」


 ハグされると怖くなって、肩揉むと安心するって、どういう状況?


「首筋も。そうそう」


 と言うか綾菜、昨日買ったオレンジの匂いの香水をつけてるな。今いい匂いとか言うのはキモいかな。


「腕も揉んで」

 

 俺がMだからとかそういうのとも違うんだよな。してあげているというか、甘えさせてあげているような感覚に近い。


「手も」


 綾菜は親指の付け根と小指の下を揉まれるのがお気に入りだ。自分で揉んでみても、確かにこの部分は気持ちいい。


「次、背中ね」


 結局これは、綾菜に何かをしてもらうより、何かをしてあげる方が俺は落ち着くということなのだろうか。——でも、何で?


「次、腰」


 腰の定義が難しい。お尻と近過ぎる。下の方ギリギリまでいっちゃったほうが明らかに気持ちよさそうなんだけど、毎回遠慮して様子を見てやっている。


「ふくらはぎも」


 俺という存在が求められているからかもしれない。考えてみれば、そういう機会自体、綾菜を除けばほぼ皆無に等しい。


「足の裏もやって」


 これは押したら痛そうなところを中指の関節で強く押すだけ。足ツボはよくわかってないが、綾菜は満足しているのでよしとしている。


「お茶」


 こうして甘えさせていることで、逆に優位に立っている感覚も少しある。親が子の世話をするように。あと、綾菜に無意識に貸しを作っているようにも思える。

 

「はー、満足。少し寝るからよろしく」


 本当は俺も寝たいけど、黙ってベッドから出ていく。

 まあどうせ、例の漫画のプロジェクトについて簡単なプレゼン資料を作りたかったからいいんだけどさ。


   ◇ ◇ ◇


 パソコンのある勉強机に向かったが、手が動かない。

 綾菜がお茶を残したので、それを飲み干しながら考える。

 ……結局、俺は自己評価が低いんだよな。実際、社交性ないし、協調性もないし、だから友達いないし、良いところがない。俺に人間的な魅力がないと、俺自身が一番よく理解している。


 綾菜がアプローチめいたことをしてくるのが怖い一因は、おそらくそこにある。人間不信もあるけれど、根底に俺なんか人に好かれるはずがないという考えがあるから、金目的ではないかと疑いやすくなっているんだ。


 腑に落ちた。

 だけど、これからどうしよう。

 俺は、脳が絞れてカスカスになるくらい考えた。


   ◇ ◇ ◇

 

 がっつり寝た綾菜は、昼に起きて一旦家に昼食を食べに帰って、また戻ってきた。マッサージで中断されていた漫画を綾菜が読む間、俺は今度こそプレゼン資料を作った。


 そのあと、2時間ほど一緒に勉強をした。綾菜は理系科目がヤバそうだったので、いろいろ教えた。


 勉強にひと区切りついて、綾菜が「そろそろ帰る」とベッドから立ち上がった。俺はしばしの逡巡の末に、綾菜を呼び止めた。


「嫌なことじゃないけど、言っておきたいことがあって」


「……なに?」


 綾菜がベッドの上の座椅子に座り直す。俺の緊張を察し取って、表情が険しい。

 逆の立場なら、急だし、わけがわからなくて困惑すると思う。昨日手繋ぎデートして、ハグして、それなりに甘い雰囲気だったのに。


 でも、俺は言わなければならない。


「実は、重過ぎでもないけど軽くもない頼みごとがあって。でも一方的だと申し訳ないから、お返しに綾菜の頼みごとをひとつ聞く。お金をあげるのは無理だけど」


「重過ぎでもないけど軽くもない……ってことは少しは重いってこと? ごめんけど、やってあげるかどうかはぶっちゃけ内容によるよ」


「それはもちろんわかってる。俺からは言うだけで、どうするかは綾菜次第でいい。あとエッチなことではないから」


「……それは先に言ってよ」


 綾菜の顔が少し赤くなった。どうやら勘違いをしていたらしい。まあこれは俺が全面的に悪い。


「でも俺が先に言うとまずい事情があるから、まず綾菜の頼みごとを教えてほしい。限度はあるけど、無理めでも叶える。迷惑料だと思ってほしい」


「頼みごとかぁ。急に言われてもなぁ……」


「今すぐじゃなくても、今日じゃなくてもいい。ただ、俺の話は綾菜の頼みごとの後でする。気になるかもしれないけど、それはごめん」


「無理めってどの程度? スキンヘッドにしてって言ったらする?」


「する」


「ガチじゃん。そのくらいのことなんだ。……もしかして、もう家に来ないでほしいとか?」


 綾菜の寂しそうな顔を見て、胸が苦しくなる。不安になるよな。ごめん。

 

「綾菜が家に来るのは大歓迎だよ」


「そっか。その頼みごとは、あたしにとって嫌なこと?」


「嫌かどうか、俺にはわからない。嫌かもしれないし、もしかしたら全く負担じゃないかもしれない」


「じゃあ逆に、前に言ってた一緒に世界旅行に行きたいとか?」


「それも違う。でも、それが可能なら俺の頼みごとも解決するかもしれない」


「何だろう……。なぞなぞみたいになってるけど」


「不安なのは申し訳ないけど、俺の頼みごとを当てようとするのはナシにしてほしい。当たらない可能性が高いし、話が先に進まないから」


「そっか。でも、ぶっちゃけ気になるよ」


「一方的でごめん。でも、その代わりに、綾菜の頼みごとは結構しんどいものでもいいから」


「どのくらい大きい話なのか、まだよくわかってないから……。例えば、あたしが結婚してって言ったらするレベル?」


「……!」


 それは想定していなかった。でもまあ。


「する。結婚する。ただし、その場合は俺の頼みごとを綾菜は必ず実行するってのが条件ね。そうじゃないと流石に客観的に考えて条件が釣り合ってないから」


「ちょっと、ちょっと待って。あたしとけんこーが結婚するってことだよ? それをOKするレベルってこと?」


「うん。厳密に言うと、俺ら未成年だから婚約だし、俺の頼みごとの内容は少し変えないといけないとは思う。どう変えればいいかは、時間をかけて考える必要があるけど」


「子どもが欲しいとかじゃないよね?」


「エッチなことじゃないって言ったじゃん」


「ごめんごめん。じゃあ、あたしの頼みごとはまだ保留にしていい? 結婚ですら通るんだったら、もっとちゃんと考えたい」


「わかった。悩ませてごめん。最初に言ったけど、お金をあげるとか、高いものを買うとかは無理なので、それだけ候補から外してほしい」


「わかった。……ところで、昨日罰ゲームするって約束したよね? 覚えてる?」


 そう言えば、あのときもなぞなぞみたいなことしてたっけ。


「覚えてる。軽いのって話だったよね。いいよ。やる」


「後ろからハグしてほしい。ぎゅーって。実はそういうの、夢だったんだよね」


 ……えーと。罰ゲームの意味わかってる?


「ほら、ここ座って」


 綾菜が立って、自分が座っていたベッドの上の座椅子を叩く。そこに俺が座って、綾菜が俺の脚の間に入る感じか。俺に拒否権ない流れのやつだ。


 あ、でも、待った。


「ごめんけど、何と言うかその……。男性特有の問題が……」


「それはわかってるし気にしない。そんなこと気にしてたらあたし、一生エッチなことできないじゃん」


 俺が座椅子に座ると、綾菜は容赦なく俺の前に来て座った。もうどうにでもなあれ。

 綾菜が俺の腕を取り、自分の体に回す。


「はい。ぎゅーってして。ぎゅーって」


 ぎゅー。


「へへへ。ねえ、あのさ……」


 綾菜が俺の腕を握ってくる。


「何?」


「手を繋いで学校行こうよ。昔みたいに」


「うん、わかった」


「ねえ、あとさ」


「何?」


「お弁当、やっぱり毎日でもいいよ」


「それは嫌。それが綾菜の頼みごとだとしても拒否する。俺もちゃんと修行したいから。一方的にやってもらうのは嫌」


「そっか」


 綾菜の手の握りが弱くなる。

 

「ねえ」 


「何?」


「どこにも行かないって言って」


「……」


 嘘は、言えないな。


「綾菜の頼みごとが終わるまでは、どこにも行かない」


「……そっか」


 綾菜の声から落胆が伝わる。


 こう言うしかないんです、ごめんなさい。


「このオレンジの香水、やっぱりいい匂いだね」


「……言うのが遅い。気付いてないのかと思った」

 

 ヘタレでごめんなさい。

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