【1年 4月-8】魔女のかけた呪い

 結局、綾菜は昼食にニンニクラーメンを選択した。香水のプレゼントが決め手だった。


 ラーメンは醤油ベースでトッピングに焦がしニンニク、もやし、チャーシュー、セルフですりおろしニンニクを追加できた。麺の量が選べてニンニク抜きメニューもあったので、女性もターゲットとして意識しているのだろう。


 毒を食らわば皿まで、じゃなくてニンニクを喰らわばマシマシで、と俺らは追加のニンニクをガンガンに入れて食べた。うまかった。


 それから薬局を見つけて口臭ケア用品を買い、食料品売り場で200mLの牛乳を買って飲んだ。香水選びは傍から見れば微笑ましいイチャイチャカップルだっただろう。——近付かなければ。


 そういう意味では、知り合いに会わないか二重の意味で冷や冷やした。


   ◇ ◇ ◇


 綾菜パパ用の弁当箱と俺が綾菜に作る用の弁当箱を買って、最後にモール内のゲーセンに寄った。普通に楽しんだけど、ずっと荷物が邪魔だった。最初に物を買えばしんどくなるのはよく考えたらわかるはずで、明らかに脳内シミュレーション不足だ。


『準備を失敗すると、失敗を準備することになる』——ベンジャミン・フランクリン。


 モールから帰る頃には、空が赤らみかけていた。帰りの話題は、部活について。綾菜のおすすめは、この前部室に入った漫画文芸部だ。


「実質帰宅部でもいいらしいけど、ショートストーリーを作ってるなら丁度よくない?」


「うーん、俺のは文字というよりイメージなんだよ。漫画の原作みたいな」


「絵を誰かに描いてもらえばいいじゃん」


「そうやって同人的に創作するモチベーションがないんだよ。それならいっそ、SNSでバズるような本格的なものを作りたい。作れるかはおいといて」


「いいじゃん。けんこーなら、プロか、プロ志望の人を雇って描いてもらうこともできるね。……あっ!」


 失言ですね、綾菜さん。そんなにキョロキョロしても、誰もいないけどね。


「俺は学校の人とそういうプロジェクトにした方がバズりやすそうで良いと思う。成長コンテンツにもなる。でも、そんな人いるかな」


「同じクラスの漫画文芸部の林さんのイラスト上手だったよ。アカウント教えてもらったから、あとでシェアするね。あと背景くらいならあたしも手伝えるかも。美術部だったし」


「それは助かる。アシスタントがいると林さんも受けやすいかもね。想像したら楽しくなってきた」


「いいね。学校、もっと楽しくなるね」


 歯を見せて嬉しそうに笑みを作る綾菜を見て、胸が切なくなる。その存在が光のように眩しく俺の心を照らすのに、俺の心が濁っているせいで、俺の心の後ろにできる影も際立って見える。


 綾菜の表情は本物のように思える。本気で俺を心配して、よかったねって喜んでいるように。


 でも、金目当ての人間だって多少の優しさを持っていてもおかしくはないし、学校という接点があったほうがこんな人間に都合がいいのも事実だ。……ああ、そんなことを考えている自分が嫌になる。


 何か揺らがないものはないだろうか。

 嘘かもしれないものを取り除いて、それでも残るものはないだろうか。


 方法的懐疑。そうか、確かそんな言葉があった。絶対的な真実が何か、方法的に全てを疑ってみれば、明らかになる。

 デカルトの答えは自己の存在。今の俺の場合は——。


「——綾菜が笑ってくれるのは、嬉しいんだよな、俺」


 思わずぽつりと口から言葉が出た。

 それは、それだけは、今の俺にとって嘘偽りのない真実だ。

 綾菜は俺の言葉の意味を捉えかねているようだった。俺は慌てて取り繕う。


「……えー。あ、つまり、漫画を作ったら一番に見せたいってこと」


「あたしが一番の読者ってこと? アシスタントするなら読者と言えるかは微妙だけど……でも、ありがと。完成するの楽しみだね」


 俺の家に着いた。オレンジの香水の入った袋だけを持っていた綾菜に、他の荷物を渡してお別れする。


「じゃ、また」「また」


 明日はどうするか、聞かなかった。聞けばよかったかな。

 荷物を置いて靴を脱ごうとしたとき、気付いた。


 俺って、ヘタレだ。


 このデートの提案も手繋ぎも綾菜任せで、俺からは何もしていない。恋愛の話にはろくにリアクションしなかったし、香水選びのときだって、綾菜が俺の好きな匂いを聞いてきた流れに従っただけだ。


 金目当てかもしれないかなんて関係ない。してもらってばかりで、こっちからは何もしないのは、ただのヘタレだ。


 俺は玄関を出た。綾菜はちょうど白駒家の前に着いたところだった。俺は走りながら叫んだ。


「綾菜!」


 驚いた綾菜が止まって振り返る。急いで追いついて綾菜の前に来ると、思ったより息が上がってしまっていて苦しい。


「ごめん……ちょっと……」


 心臓がずっとバクバクしている。これは走ったせいか、緊張のせいか。

 実は、用意していた言葉がある。

 言えたら最高だと思いつつ、言えないだろうと思っていた言葉が。


「何? どした?」


 綾菜はキョトンとした顔をしている。俺が手ぶらで追いかけてきたのだから当然だ。


「ちょっと待って……」


 何とか息を整える。気まずい。大きく深呼吸をする。


「俺さ……、俺……」


 勇気だ。健康。ここは多少アホでも、勇気だ。


「……俺、明日死ぬかも」


「は?」


 綾菜は眉間に皺を寄せて怪訝な顔をした。

 あ、これ伝わってないやつだ。

 説明するの、めっちゃ恥ずかしいんですけど。と言うか何て説明しよう。——ほら、カフェで喋ったとき……。


 綾菜が顔を綻ばせ、道に荷物を置いた。


 わかったのだ、と思った。

 次は綾菜が腕を広げて「いいよ」とか言うと思っていた。

 だから俺は全く無警戒だった。


 綾菜がいきなり俺に抱きついてきた。


 勢いが強過ぎて、よろけかけた。ラグビーのタックルみたいだった。洒落にならないくらい強くて、本能が物理的な危険に反応して緊張がふっ飛んでいった。


 抱きつき慣れていないから加減がわかってないのか。そう考えると微笑ましい。


 俺も綾菜の体に腕を回す。思ったより華奢だ。この存在は男より弱くて守られるべきものなんだと感じる。


 時代遅れだけど、男女平等なんて無理じゃないか、これ。だってこんなの知っちゃったら、男の方が守ろうと頑張るに決まってるでしょ。


 俺の人生の幸せの最高記録が更新されたのを、はっきりと感じる。脳内で何らかの物質が分泌されていて、俺はこの物質の中毒になり、これから何度もこの快感を求めることになるのだと直感が理解している。


 オレンジの香水を上書きするように漂う髪のローズの香りと、それに重なって仄かに香る甘い頭皮の皮脂の匂い。呼吸や脈拍、体の全ての筋肉の収縮が合わさって作られる、質量の動きの微妙な感触。今、腕の中に愛する生き物がいるという感覚がとても心地良い。その生き物がわがままを通そうと、細い腕を俺の背中に回して、強めに俺の体を引き寄せている、この圧力が愛おしい。


 これで金のためだったら死ぬよ、俺。

 ガチで死ぬよこんなの。

 死なないまでも、誰も信じられなくなって、廃人になる自信はある。俺の人生において、それほどに綾菜の存在は大きい。

 つまり、もし、綾菜が魔女Bなら——。


 

 これからの人生、地獄だ。



 咄嗟に、俺は綾菜の肩を押して綾菜から離れていた。突き飛ばすというほどではなかったけれど、結構無理に力を入れてしまった。


「あ、えーっと、これは……その……」


 目が泳いで綾菜の顔を直視できない。気まずい。


「あれでしょ、男の子特有のやつでしょ。あたし、ミリョクテキ過ぎたかな。ははは」


 綾菜は少し引きつった顔で笑った。俺も動揺を隠しながら愛想笑いを返した。気まずい勘違いだが、勘違いの方がまだましだ。


 目と目が合って、お互い次をどうするか探り合っている。

 沈黙が続いた。長かった。おそらく綾菜と俺の考えていることは全く違う。だからこそ輪をかけて気まずい。


「……ニンニク食べたの失敗だったね」


 綾菜は笑って、道に置いた荷物を持った。


「じゃ、また明日」「……また明日」


 綾菜が白駒家に入っていき、俺は来た道を戻った。自己嫌悪で涙が出てきて止まらない。忘れようとするほどに、綾菜が魔女Bになるイメージが強くなる。


 そんなわけないって思うのに、万が一のダメージが深刻過ぎて、脳が看過を拒んでいる。俺の過去の経験が、可能性を問答無用で突きつけてくる。



 神様。

 あなたの存在なんて全く信じていないけど。

 でも、神様。

 10億円、なかったことになりませんか。

 10億円が当たらずに、今日があったことになりませんか。

 ぶっちゃけますよ。

 初恋なんです。

 ずっと大好きな幼馴染なんですよ。

 今、この瞬間だけは、俺の心を、一点の曇りもない喜びだけで満たしてくださいよ。

 魔女のかけた呪いを解いてくださいよ。

 神様。

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