第二話

 芳賀の姿が消えてすぐ、一本の電話が病院に掛かってきた。遠方に住む、芳賀の母親からだった。母親はかなり取り乱していて、電話を取った看護師も話を聞くのに苦労したようだ。芳賀の母──恵子さんの話は不可解なものだった。


 恵子さんは、夫に先立たれてから長く一人暮らしをしている。

 昨夜も一人、寝室で寝ていると、どこからか声が聞こえて目が覚めた。最初はか細い声だったけれど、耳を澄ましているうちに段々とはっきり聞こえてきた。夢か現実か区別のないまま、耳を澄ましていると、それはどうやら恵子さんを呼ぶ声だと分かった。お母さん、お母さん、と恵子さんに向けて言葉を発しているのだ。

 そんな呼び方をするのは息子の芳賀さんしかいない。しかし、息子は遠い地で入院しているはずだ。ましてやこんな夜分遅くに帰ってくるはずがない。やっぱり空耳か、寝ぼけていただけなのだろう。次第に明瞭になっていく意識の中で薄く目を開ける。

 するとそこに、薄ぼんやりとした豆電球の光に照らされて、ちらちらと影が揺れていることが分かった。その影が、しきりにお母さん、お母さん、と恵子さんを呼んでいる。

 心臓が飛び出るほど驚いた。あんた敏行としゆきけ、と息子の名を呼んだけれど、影は相変わらず揺れている。恵子さんが起きあがろうとするが、体が固まったように力が入らない。

 そうしている間もぼんやりした影は揺れながら、お母さん、お母さん、と繰り返している。背筋に冷たいものが走った。そのとき、ふと全身に力が戻り、がばりと起き上がる。夏の暑い夜、窓は開け放していた。蛙の合唱する声がやけに耳に響いたそうだ。

 あたりを見回してみたけれど、豆電球はいつものように寝室を照らすばかり。影など見当たらない。何かの間違いだったのだろう、と思い眠ることにした。


 翌朝、何故だか胸騒ぎがして早く目が覚めてしまった。時刻は朝の五時。障子の隙間から見える外は既に白んでいる。目だけを開けて横になっていると、突然家の電話が鳴った。こんな朝早くに何の用だろう、と思って茶の間に向かい電話に出た。「もしもし、どなたですか」と尋ねるけれど電話の主は答えない。電話口からはサー、という雑音だけが聞こえる。そこで恵子さんは、昨夜の夢のことを思い出す。ひょっとして、敏行け? と聞く。

 ざーという雑音が途切れた。そう思ったら、『母さん』と聞こえた。やはり電話の主は息子だった。「どうしたのよ」と尋ねるけれど、しばらく無言の時間が続く。ざーという雑音の中に、時折ぶつっと途切れるような音が響く。

『今まで、ありがとうございました』

 突然息子の声がした。

「敏行、どうしたのよ、ねえ。何か悩んでることがあるなら言いなよ、ねえ。お母さん、あんたのことが心配よ」

 何かがあったのは間違いない。恵子さんはひとり息子のことが心配で堪らなかった。しかし、電話の向こうの息子は黙している。相変わらずざーという音だけが響く。

 「ねえ」と声をかけようとした瞬間。何故だか家の外が気になった。玄関の向こうから、誰かに見られているような気がしたのだ。しかし、嫌な感じはしない。これはひょっとして、と思って恵子さんは玄関に向かった。急いで上がり框を飛び越え、履物も履かずに引き戸を引く。

 ああ、やっぱり、と思った。家の前、細い小道を挟んだ用水路の向こうに、芳賀が立っていた。見つかってしまった、とバツの悪そうな表情で、しかし控えめな優しい顔で、こちらを見ている。

 驚いた恵子さんは「何してるんだいあんた!」と息子の手を引き家の中に引っ張りこんだ。真夏だと言うのに体は冷たく、妙に顔色が悪い。急いで茶の間に座らせ、毛布と熱い茶を出す。その間も息子は、妙に畏まった顔で一点を見つめている。ピンと姿勢を伸ばして口を開いた。

「どうしてもお礼が言いたくて」

 なぜそんなことを言うのだと思った。しかし、兎に角、息子が無事であったことに安堵する。

「あんた、そんなこと言って。入院は大丈夫なのかい」と心配した声を出す。息子は、ええまあ、と照れ笑いのようなはにかんだ表情を浮かべた。

「何も食べていなくて。何か食べるものを戴いても良いですか」

 張り詰めた空気が少し緩んだような気がする。いつもの息子がそこにいる、そう思った。「ちょっと待っててね」といい、恵子さんは台所で手早く食事の準備をしていると、背中に視線を感じた。

「お母さん」

 なぜか冷たく、抑揚のない声だった。ぞくり、として振り返ると、廊下の片隅で、芳賀が恵子さんの後ろ姿を見つめている。

「今まで」

 ありがとうございました、と言った。背筋が冷たくなった。さっきの電話と全く同じ、抑揚のない声。

「あんた!」

 何を言ってるのよ、と言い終わる前に芳賀は玄関に向かって歩いていった。急いで後を追いかけるけれど、もう息子の姿はない。玄関を出た形跡も、芳賀がいた形跡もない。唯一、茶の間には、確かに飲みかけの茶が残っていた。



 そんな経緯で、何かがあったのではと思い慌てて電話を寄越したらしい。芳賀が姿を消した、と伝えたところ、恵子さんは大層驚きながらも、どこか納得したような反応をしたそうだ。

 恵子さんの家は九州地方。D病院のある関東からはほど遠い。芳賀が居なくなった時間帯から考えて、移動できる距離ではないことは間違いない。なんとも不思議な話であった。


 芳賀の行方は、依然として分からないままだった。自宅にも戻っていない、それに、病院は夜間施錠されているのだから出入りは出来ない。朝になり、受付が開けば、誰かが見ているはずだ。忽然と消えてしまった、としか思えない状況だった。夏子は、先日芳賀と交わした会話、そして恵子さんの話を聞くに、どこかでもう戻ってこないのでは、そう思い始めていた。

 すると、沢本と飯田が慌てた様子で夏子に声をかけてきた。

 「思い出したんだ」と沢本が言った。飯田は「でもそんなはずは」と騒ぐ。夏子は二人を落ち着かせて話を聞いた。

「いや、それがさ。俺は夢だと思ってたんだ。その、芳賀ちゃんがよ」

 二人に話しかけたと言うのだ。

「あっちのよお、お山に居るからよろしくな、とか言うんだぜ」

 沢本は窓から見える、向かいの雑木林を指差した。お山の上を切り開いたこの病院は、四方を山に囲まれ、敷地を一歩出ればすぐに深い森が続いているのだ。芳賀は、その森に続く雑木林を指していたという。

「何回もよお、俺に詫びるんだよ。こんなことお願いできるのは沢本さんしかいねえ、だからよろしく、だとかなんとか」

「いいや、そんなこたぁ言ってねえさ。俺には違って聞こえた」と、飯田がすかさず否定する。

 どうやら、会話の内容は違ったけれど、芳賀が二人に声をかけたという記憶は合致している。だから、これは夢ではなかった、と思ったらしい。

「それで、飯田さんには何て?」

「ここの地下室は覗いちゃなんねえってよ」

 地下室──その昔、この病院が療養所だった頃は倉庫として使っていたらしいが、病院の拡張と増改築を経て、いつからか使われなくなったと聞く。

「芳賀ちゃんと、ほら清水さんて居ただろ」

 清水は一ヶ月ほど前に入院していた男性だ。芳賀たちのいる部屋は元々四人部屋。清水がひと足先に退院し、今そのベッドは空いている。

「ここの院長がよ、夜遅くに地下から登ってくるところを見たってんだ。そんで芳賀ちゃんと清水さんは気になって降りてみたらしい。そしたらよ」

 D病院の地下には、今は使われていない倉庫室が並んでいるはずだ。芳賀たちは、なぜかその一番奥の部屋に妙に興味を奪われたらしい。恐る恐る覗いてみると。

「奇妙な、猿みてえな石像が置いてあったんだと」

 猿みたい、と聞いてぞくりとした。以前に芳賀から感じた獣臭の記憶が蘇る。


 芳賀の遺体が見つかったのはそれから二日ほど経ったあとだった。沢本と病院関係者で奥の雑木林を探したところ、森の奥で首を括っている芳賀を発見した。

 芳賀は、やけに低い木にぶら下がっていたそうだ。足がつくかつかないかギリギリの高さ。身長の高いものであれば容易に下ろすことが出来たらしい。まさか最後の最後まで迷惑をかけないように気を遣ったのでは、なんて考えると呆れてしまう。

 芳賀と一緒に、地下室で石像を見た清水もまた、亡くなっていたことが分かった。退院した次の週に突然発狂し、自ら壁に頭を打ちつけて死んだそうだ。その話を聞いたとき、夏子は心の底から震え上がった。

 夏子自身、淡い恋心を抱いていた芳賀を失ったショックからか、はたまたD病院の地下室が怖くなったのか、そのあとすぐに夏子は病院を辞めた。


 数年後、院長が精神を病み、院内で大規模な殺人事件を起こしたことを知った。地下室の石像が関係しているのか、あの病院自体が呪われていたのか、それは定かではない。

 それから数十年が経った今も、夏子は時々、芳賀の気配を感じることがある。スーパーの片隅、住宅街の丘の上。ひっそりと、遠くから夏子を見守るように、控えめに。

 夏子が経験した恐ろしい話だ。

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