お世話になりました
千猫怪談
第一話
これは、かつて関東のとある場所に存在したD病院についての話だ。
山の上にある丘を切り開いて建てたD病院は、昭和の初期に建てられ、平成に変わる頃までは営業していたという。
当時、D病院で看護師をしていた夏子さんは二十代半ば、患者や見舞い客でごったがえす病院の中で多忙な日々を送っていた。
そんなある日のこと。夏子はいつものように病棟の各部屋を巡回していると、病棟の一番奥にあたる部屋、二〇五号室から賑やかな声が聞こえてくるのが分かった。二〇五号室には現在、三人が入院している。声の主はきっと沢本と飯田だろう。
夏子が「おはようございます」と声を張りながら部屋を覗き込むと、楽しそうに談笑している患者たちの姿が飛び込んでくる。こちらに気づいた沢本から「おう、夏子ちゃん」と調子のいい返事が返ってきた。
沢本は今年で還暦になる、兎に角声が大きくて世話好きな患者だ。続けて、「今日も綺麗だな」なんて言葉が聞こえてくる。一番下の娘と歳が近いということで、夏子のことを可愛がってくれている。
「沢本さん、またそんなこと言って」とムードメーカーの飯田が言葉を飛ばす。日焼けし、肉付きがよい体を見るに、とても病人とは思えないような見た目だ。現場仕事で足を骨折して入院することになったものの、元気が有り余っているらしく、いつも沢本と騒がしくしている。
沢本は「ええやないか、なあ芳賀ちゃん」と言って病室の奥へ視線を投げかける。一番奥のベッドで控えめな笑顔を浮かべながら、芳賀が「ええまあ」と相槌を打った。
芳賀は夏子より二つ年上。遠慮がちで気の弱いところもあるけれど、思慮深く、家族想いの男だ。
「最近元気ないんよ、なんとか言ってやってくれや」
沢本が無遠慮に言った。芳賀は、俯き加減で薄い唇を震わせて、いえ、ちょっと、と口籠った。
「怖い夢を見たんだとさ、子供じゃあるまいし」と飯田が笑う。
「なんですか芳賀さん、確かに病院の生活で心細いのは分かりますけど。そんな思い詰めてたら治るものも治らないですよ」
夏子が明るく言うと、ええ、と僅かに笑い、窓から見える景色に視線を逸らした。
「まったく、気にしいなんだよな芳賀ちゃんは。山ん中ででけえ猿に襲われる夢見ただなんて言うんだよ」
「それが怖い夢──です?」
なーんだそんなこと、と軽く言った。てっきり、事故に遭った、だとか幽霊が出てきたとか、そんな夢なのかと思った。
「ええ。やっぱり変ですよね。別に猿が怖いなんて思ったこともないですし」
「だってよお、芳賀くんは結構な田舎の出でしょ? 猿なんて珍しくないんじゃないの?」
飯田が素朴な疑問を口にする。
「それはそうなんですけど」と、歯切れの悪い口調だ。
「あー、そりゃあ実家に帰りたいって願望じゃねえか? 早く退院してお袋さんを安心させてやりてえんだろ、出来た息子だよなあ」
つい一週間前、芳賀の母親が、わざわざ遠方からこの病院に見舞いに訪れていた。
仕送りは気にしなくていいからね、と母親が言っていたところを見ると、母の家計の足しになれば、と援助をしていたのだろう。芳賀は、療養によって仕送りが滞ってしまっていることを気にしていたのだと思う。
その後も母親は、しきりに出来た息子だ、と夏子や沢本たちに話していた。芳賀は気恥ずかしそうにしながらも、母親を見る目は温かくて、どこかこちらも嬉しくなった。
「なんでそんなこと気にしてるんだい。手術は成功したし、あとちょっとすりゃあ退院だろ?」
飯田が励ますように言い、夏子もそれに同調する。
「そうですよ、きっと、慣れない入院生活だし、体調のこともあって弱気になってるんですよ。気にしない気にしない」
そうですね、と芳賀も笑った。その笑顔で幾分かほっとする。「優しいなあ夏子ちゃんは」と沢本が横槍を入れた。
「芳賀ちゃんよ、嫁に貰うならこんな人がいいじゃねえか。そろそろ身い固めたらどうだ」
なあ夏子ちゃん、と要らぬ世話を焼いた。芳賀の好意には薄々気がついていた。一方の夏子としても、誠実なこの青年に対してまんざらでもない感情が生まれつつあった。優しくて控えめで、いつも一歩引いている芳賀に対して、いつしか好意を抱き始めていた。
当然、その空気は周りにも伝搬する。お節介な沢本と飯田は盛んに二人を近づけようとする。それでもお互いのペースというものもあるのだから、ありがた迷惑というものだ。
一方で、この奥手な男が、沢本の助けによって自分の気持ちを伝えられるのであれば、それもよいかとも思う。
「やだあ、沢本さんったら。まあ、芳賀さんも元気出してくれないと。良くなってもらわないと困るんですから」
笑いながら、ぽん、と軽く肩を叩いた。ふっ、と笑う芳賀から何故か、獣のような匂いがした。
そんなことがあってから数日が経った頃。
この日夜勤だった夏子は、備品が足りないことに気がついて、ひとり、玄関脇の事務室へ向かった。
常に人のいる入院病棟とは違い、外来患者向けの病棟は夜になると消灯されてしまう。最低限の明かりを頼りに歩かなければいけないので、どこか心細い気持ちになる。
診察室の横を足早に進み、玄関前に位置する受付が見えてくる。その突き当たりを折れると目的の事務室がある。
ジジジ、と蛍光灯が鳴った。見ると明かりが点滅している。ああ、蛍光灯が切れかかっているのだな、そう思いながら夏子は突き当たりを曲がった。
事務室から手早く目的の備品を探して来た道を引き返す。いつもは人が多く活気付いているこの場所が、なんだか薄気味悪く感じられた。絶えず蛍光灯が点滅しているせいもあるだろう。
チカチカと点滅する中、最初の曲がり角を曲がると、再び玄関と受付が見えた。そこでドキリと心臓が跳ねた。薄ぼんやりとして仄暗い受付の端に、真っ黒な人影があった。患者向けの椅子に座って、ピンと背筋を伸ばしている。当然窓口には人などいないのに。
見間違えたのだと思った。しかし、どうにもその影は人の形をしている。じじ、という音と同時に蛍光灯の明かりがついた。誰とも知らぬものの影が、はっきりと浮かび上がる。病衣を着た、線の細い男だった。
思わず、きゃあ、と叫び声を上げて、その場に手をついた。目をぎゅっと閉じる。何かの間違いであってほしい。今は深夜三時、そんな時間に、しかも一人で受付に向かって座っているなんて。どう考えてもおかしい。
心臓がバクバクと鳴る音が聞こえる。
どれぐらいそうしていただろうか。なんの気配もしない。やっぱり見間違えたのでは、と期待と不安の入り混じった感情が過ぎる。薄く、目を開けると、受付には誰もいなかった。
「はあ」と大きく息を吐く。なんだ、やっぱり見間違いじゃないか。ここ暫く忙しく働いていたのだから、きっと疲れているんだ。そう自分に言い聞かせて、立ち上がろうとすると、どこからかぬるり、とした視線を感じた。
誰かが、夏子を見ている。なんだかじっとりとした、湿度の高い視線だ。
「あの」
急に背後から話しかけられた。反射的に、いやあ! と叫び声を上げ、振り返る。そこには、所在なさげに立っている芳賀の姿があった。
「わあびっくりした。何、芳賀さんじゃない。どうしたのこんな時間に」
心臓が止まるかと思った。いつからここにいたのだろう。薄暗くて気が付かなかっただけなのか。しかし夏子が人影に驚いているのに、ずっと声もかけずにそこにいたのか。
芳賀はなぜか、もじもじとしている。
「眠れないんです?」
動揺を悟られないよう、声をかける。
「いえ。あの、夏子さん」
お世話になりました、と言った。
え、と声が漏れる。唐突な言葉に反応出来ずにいると、もう一度、お世話になりました、と言った。なんだか会話が噛み合っていない。と言うより、こちらの言葉が届いていないのだろうか。
「なんですそれ、まだ退院は来週じゃないですか」
あはは、と笑い飛ばした。けれど、芳賀は俯き加減でもじもじとしたままだ。
「もし、よければ」と俯きながら芳賀は切り出した。なんだか妙に塩らしい様子だった。その様子にたまりかねて、なんですか? と聞き返す。
「また……」
会いに来てもいいですか、と言った。
どう言う意味なのか、戸惑った。これは、芳賀の告白なのだろうか。だとしても。こんな深夜に、それもこんな薄暗いところで言わなくてもいいじゃないか。不器用にも程があるだろう。と言うより、こっちの状況も考えてほしいものだ。一人で心細い思いで仕事をしているのに。ふと、芳賀に対する不信感がよぎる。
どうにも反応に困っていると、「すみません」と芳賀は悲しそうな顔をした。芳賀の気持ちを踏み躙ってしまったと、どことなく罪悪感を感じる。そもそもが夏子も好意を抱いていたのだ。気まずさを紛らわすために、声を張り「兎に角」と切り出す。
「お話は明日聞きますから、早く寝てくださいな。退院が伸びちゃったら困りますよ」
芳賀は、ええ、とバツの悪そうな顔で俯いて、病棟へ戻ろうとする。その寂しそうな背中に向けて。「いつでも、会いに来てくださいね」と声をかけた。
「ええ。すみません」
芳賀はふと立ち止まり、夏子を見る。すみませんという意味が理解できなかったけれど、きっと、照れ隠しなのだろう、と解釈することにした。
その翌日、芳賀がいなくなった。私物は全て無く、入院着は綺麗に畳まれ、布団は几帳面に整えられていた。まるで最初から誰も居なかったように、忽然と姿を消してしまった。
当然、病院は大騒ぎになった。同室の沢本と飯田は、深く寝入っていたこともあり、全く気が付かなかったそうだ。夜勤だった看護師たちは複数居たけれど、誰も芳賀がいなくなったことに気が付かなかった。ただ、忽然と姿を消してしまったのだ。
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