第3話
鏡餅のようなシルエットの猫、もちねこの頭と体がそれぞれ仕上がり、
「次は塗装」
机の上にはアクリル絵の具と筆が並ぶ。
「まずは猫の色を決めて全身を塗る。白でもね」
「全身ですか」
「そう」
確かに黒猫を作るなら全身を黒く塗りもするのだろうけど、白い猫を作るのであれば、粘土の元の色の白でも良さそうなものだが、
「石粉粘土って前にも言った通り水に溶けちゃうでしょ。それがアクリル絵の具で塗るとそれ自体がコーティングになって水を弾いてくれるの。あとはフィギュア作りにも共通するけど、一度一色に塗ると上からのせる色も調整しやすい。だから全部塗る」
「なるほど」
石粉粘土の特質をカバーして、かつ後工程にも得であるならば、なるほど全身を塗るというのも得心がいく。となれば言われた通りに塗ってみるのだが、
「白に白って見にくいですね」
「フィギュア作りではままあることだよ」
ペタペタと筆を動かしてみれば白の境界線が見にくかったり、かと言って目を凝らせば筆ムラがが気になってきたりと、やってみて課題が色々出てくることに気づく。そんなことに気づいて杏珠はふと祈里を見ると、それでも楽しそうに筆を動かしていた。
そして改めて部室を見回すと、他の部員たちもそれぞれの作業の中で笑みを浮かべていたり、集中して真っ直ぐ手の中の物を見つめたり、苦心を浮かべた顔をしたりとしているが、それでも皆、目の前の制作物から目を逸らしていないことに気づいた。楽しいことも、つまずきそうなことも、皆一様に乗り越えようとしているのだ。それはきっと好きなことだから…。
そんな考えが朧気に杏珠の中に浮かんで、
「どうかしたの?」
「いえ、なんでも…」
祈里に声をかけられて、目の前の白く塗塗りかけの粘土を見る。今、私は楽しいけれど、これが終わったらどうするんだろう、どうなるんだろう。そんな悩みも上から塗り潰せたらいいのにな、なんて思いながら最後の一筆が終わった。
ーーーーーーー
二つの塊を塗り終えるとこれもまた「乾かす時間が必要」とのことで解散となり、その翌日。1-3の教室で杏珠は机に突っ伏していた。
「お嬢さん、どうしたね」
なんてふざけた声のかけ方は、見上げずともそれが誰だかわかってしまう。
「どうもしてないよ」
そう返すと、瑞希は何も言わずに杏珠の前の席に座る。同じクラスになってなんとなくノリが合っただけの2人は、多くを語らずともなんでも通じ合えるほどの友達じゃないし、黙って寄り添うなんてガラでもない。だから、ただ相手が話し始めるまで待つしかしない。そうして少し経ってから、
「昨日さ」
こうして話し始めてしまうのは、その波長が合う相手が貴重であることをなんとなく知っているから。
「また模型部に行ったんだ」
それから杏珠は、自分が粘土細工を作っているという話をした。先輩に教えてもらいながら粘土を捏ねた話、それらが楽しい話までは段々と声色も上がって、聞いてる方にまで楽しさが伝わるようだった。しかし、
「でも、私は楽しいだけなんだよね」
そこからまた、沈んでしまった。突っ伏しながら杏珠はチラリと瑞希を見た。昨日は朧げだった自分の考えが、友人を見て形を持ち出してしまう。朝の練習を終えてそれでもまだうっすら汗をかいている友人が、昨日見た模型部の部員たちが、自分にはないものをありありと見せつけてくるようで眩しく見える。眩しいのに目を逸らしてしまうのは情けなくて、少しずつ輪郭が見えてしまうのも怖くて、だけどやはり目を逸せない。
それは杏珠にはない、
「やり甲斐っていうのかなあ」
言って杏珠は大きくため息をついた。今までは気にも留めてこなかった言葉が、気づいてしまうと重たくのしかかる。
「やり甲斐かあ」
瑞希も、そう呟いてから考え込むように静かになってしまった。結局2人ともやり甲斐という言葉に口を塞がれたまま、時間だけが過ぎていった。
ーーーーーーーーー
昨日まで開けるのに躊躇しなかった戸が、今日はやけに大きく見える。実際は旧校舎のつくりの扉だからそんなに大きくないのだけど、自分の心がしぼんだように感じるからか。
「ふう」
一つ息を吐いて気持ちを整えたのはほとんど無意識だった。意を決す、というほど大それたものじゃあないけれど、それは杏珠にとって必要なことだった。そしてその数秒の逡巡のうちに、
「あ」
後ろから模型部部員が現れた。
「どうしたの?入る?」
その背の高い男子生徒は怪訝も疑念もなく、ただの純粋な疑問のように杏珠に問う。独特なリズムがその人にはあった。
「はい、お邪魔します」
その言葉に押されたように戸に手をかけようとすると、
「あ、
「…御門野杏珠です」
それが自己紹介だと気づくのに少し間が必要だった。それだけを言うと、あとは特に続く会話もなく、ただ杏珠が戸を開けて部室に入るのを待っているのだと気づくのにも数瞬の間が必要だった。
少々気は抜けたが、それがよかったのか手をかけた戸はさほど重く感じなかった。
「失礼します」
「いらっしゃい杏珠ちゃん」
祈里は机の上に新聞紙を敷いて用意を済ませていた。その様子は杏珠が来ることを一つも疑っていないようだった。
「今日は最後まで仕上げていくよ」
杏珠が席につくと、祈里は拳を握る。
「と言っても顔とか模様描くだけなんだけどね」
言って昨日と同様絵の具と筆を広げる。ただし筆は細いのが追加されていた。
「これは面相筆って言って、細かい作業向けの筆。顔とか描く時に使うよ」
学校で買う画材セットの筆よりも細い筆は、確かに小さい物を描くのに向いていそうだ。
「下書きするか一発勝負するかは好き好きね」
言って祈里は鉛筆を手に取る。どうやら下書き派らしい。一方で杏珠は、白い塊とにらめっこをして、鉛筆も筆も手に取れずにいた。
「どうしたの?」
そんな様子の杏珠を見て、祈里も手を止める。
「いえ、…どうしたものかと」
実際、猫をの形を作っているうちは、粘土を捏ねたりやすりがけをしたりと、新鮮な体験に気を取られていて、完成形がどうなるとか考えることはなかった。だから、この白い塊にどんな猫を描けばいいのか、わからないでいた。
「描くのが決まってない感じ?」
「…そうですね。色々と浮かんじゃって」
猫、と言われれば頭に浮かぶものはあるが、マスコット的ディフォルメとなるとその像は曖昧になる。どれにしようと絞るにしても、その選択肢すら絞り込めない。こういうことに明確な正解なんてないのもわかっているけれど、それもかえって悩みを拗れさせて、故に筆すら持てないでいる
「うんうん、存分に悩むといいよ」
そんな杏珠に対して、妙に訳知りな顔で祈里は鉛筆を動かす。自分の悩みなんて知らないはずの祈里のそんな態度に、内心を見透かされた気分になってしまう。けれど、
「うぐぐ」
何かが納得いかなかったのか消しゴムを使ってやり直しているあたり、一緒に苦心する仲間が欲しかっただけかもしれない。とはいえ、時間は有限であり、いつまでも悩んではいられない。というより、自分が作ったこの猫がつんつるてんののっぺらぼうであることなど許せない。
「んー」
といって、闇雲に悩んだところで、どんな風にするかの像は朧げなまま。
「どうとでも出来るって、難しい」
ふと、そんな言葉が口を突いて出ていた。それは独り言でありながら、ハッキリと祈里の耳にも聞こえていて、
「そうだねえ」
またも消しゴムを動かしながら杏珠の呟きに応えた。
「どうしても決められないなら、お手本を真似てもいいし、スマホでそれっぽいの検索するのも手だよね」
それは杏珠の中にはない選択肢だった。
「いいんですか?」
「いいも何も、そこも含めて自由でその人次第だよ」
その人次第。その言葉が何か心のつっかえていたところにハマる感じがして、杏珠は少しだけ気が軽くなったのを感じた。
人のやり甲斐や情熱を羨ましく思う自分がイヤになって、勝手に息苦しく感じていた。人の物は人の物でしかなくて、羨んだところでどうしようもないことだともわかっていた。
やり甲斐も情熱も、その人次第。つまり人は、それを得る時に「選んで」きたということ。選ぶ必要があるということ。そしてその選択肢は、自分で絞り込むことができるということ。
杏珠はまだその選択肢が見えていなかったんだ、とそう気づいたのかもしれない。それはまだ自分に選ぶ権利が残されていると気づいたのかもしれない。
「そうですね」
杏珠はそう言って、プリントを見ると作り始めた時のことを思い出す。どうすればいいのか分からず粘土を捏ねはじめて、どうにか形を整える時に参考にしたのは、プリントに載っている手本の形だった。その形をなぞったから、今目の間の白い粘土塊は、鏡餅と猫のシルエットをしている。この餅猫にどうなって欲しいか、はきっとこれに近い形になって欲しかったのだと。
そして杏珠は筆をとった。
ーーーーーー
「ふう」
一息ついて、杏珠は筆と粘土塊を置いた。絵付けを始めてから20分近く、ずっと筆を動かし続けて、ようやく完成して集中を解いたから少し疲労感があるけれど、それもまた心地よく思えてくる。
「お、可愛くできたね」
祈里は鉛筆から筆に持ち替えて絵付けの途中で、手元から顔を上げて杏珠の餅猫を見る。そこには、プリントの手本に似た、けれど少し表情の違う三毛猫模様の粘土があった。
「なんとか、出来たと思います」
集中して固まった体を、小さく伸びをしてほぐす。思い描いた通りの完璧とは言えないけれど、できる限りのことはできたと胸を張って言える。
「あとは頭と体の向きがあるなら合わせて、接着剤でくっ着けたら完成だよ」
言われて渡された接着剤を、粘土塊の接着面に塗って貼り合わせる。爪楊枝と穴がガイドになって合わせやすい。そして三毛猫模様の鏡餅猫は完成した。
「あとは接着剤が乾くのを待つだけだね」
一応。
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