第15話:鍵のかかった温室と、三時のスープ
第14話:鍵のかかった温室と、三時のスープ
正午のチャイムが遠くで鳴る。それは十七歳の**結衣(ゆい)**にとって、世界から切り離されたことを告げる弔鐘(ちょうしょう)だった。 自室の遮光カーテンは、もう三週間も閉じられたままだ。部屋には、脱ぎ捨てられた制服の柔軟剤が抜けたような、埃っぽい匂いが淀んでいる。
「……あ、キレてる。呆れてる。周りの視線。……全部、バグだ」
結衣はベッドの上で、Mrs. GREEN APPLEの歌詞をなぞるように呟いた。 クラスのグループLINEから弾き出され、存在しないものとして扱われる「透明な暴力」。教科書にも問題集にも載っていない、この「生き地獄」のやり過ごし方を、誰も教えてはくれなかった。 結衣の「心のコップ」は、いじめという名の泥水で満たされ、もう一滴の希望も受け入れられないほどに、表面張力で耐えていた。
その時。 一階の玄関先から、ガラガラ、ガラガラという、この住宅街には不釣り合いな重い車輪の音が聞こえてきた。
「おい、そこに居るのは分かってるぞ。インパチェンスの芽」
地響きのような野太い声が、二階の結衣の部屋まで届く。 重蔵(じゅうぞう)だ。彼は結衣の母親に許可を得たのか、庭に面した掃き出し窓のすぐ外に、あの銀色の鍋を置いた。
「……誰? 帰ってください。私、今は誰とも……」
「日陰で咲くのがそんなに悪いことか。わけわかめなこと言ってんじゃねえ。……ほら、窓を開けろ。このスープは、鍵のかかった心じゃねえと、本当の味が分からねえんだ」
結衣はおずおずと立ち上がり、カーテンを数センチだけ開けた。 冬の低い陽光が、暗い部屋をシャンパンゴールドに切り裂く。眩しさに瞳孔を収縮させながら見下ろすと、そこには油の染みたジャンパーを着た、熊のような大男が立っていた。
「……おじさん、何なの。……私、学校に行けない、ダメな人間なんだよ」
「ダメな人間? そんなもんは、この世に一人もいねえよ。……居るのは、ただ『腹を空かせた生身の人間』だけだ」
重蔵は、湯気の立ち上るスープを、結衣が窓から下ろした紐付きの籠に載せた。 ――ふわり。
窓を通り抜けてきたのは、鰹節の深い出汁と、焦げた醤油の匂い。そして、微かな柚子の香り。 結衣は、震える手でその椀を手に取った。 一口啜ると、喉を焼くような熱さが、冷え切った食道を強引に押し広げていく。南瓜(なんきん)の暴力的なまでの甘みが、絶望で荒れた胃壁を優しく包み込んだ。
「……熱っ。……でも、すごく、おいしい。……おじさん、これ、なに?」
「『ん』のつく運だ。南瓜、蓮根、饂飩。……いいか、結衣。お前が今、これを『おいしい』と感じた。それが、お前がまだ死んでない、立派な証明だ。……学校なんてのは、ただの箱だ。そこに入れなかったからって、お前さんの価値が消えるわけじゃねえ」
結衣の目から、大粒の涙がスープの中に落ちた。 それは、三週間、誰にも見せられずに溜め込んできた、透明な毒だった。
「……私、みんなと同じように笑いたかった。……自分を好きになりたかった」
「羨ましい、ただ虚しい。……そんな夜もあるだろうさ。だがな、お前はあの子たちになる必要はねえ。……Darling(ダーリン)、自分自身の本当の音を聴け。……お前が今、ここで呼吸してる。それだけで、お前はこの世の文化財(たからもの)なんだよ」
重蔵は、庭先に咲く小さな**竜の玉(りゅうのたま)**を指差した。 「見ろ。雪が降ろうが、誰に踏まれようが、こいつは赤く光ってる。……お前の『熱』も、誰にも奪わせるな。……1700回踏まれたって、1701回目に芽を出せば、お前の勝ちだ」
結衣は、空になった椀を抱きしめた。 お腹の底から、自分を愛してやりたいという、小さな、けれど確かな火が灯り始めていた。
「……おじさん。私、明日からゴミ拾い、始めてみる。……外に出るのはまだ怖いけど、自分の周りの『運』を拾うことからなら、できる気がする」
「ああ。……いいツラになったな。……また会おうぜ、三時の温室でな」
重蔵は空になった鍋を引いて、夕暮れの街へと消えていった。 結衣は、遮光カーテンを力いっぱい開け放った。 そこには、冬至を過ぎたばかりの、昨日よりも少しだけ長くなった太陽の光が、満ち溢れていた。 「……おかえり、私」
十七歳の少女は、自分自身の目を見つめて、初めて小さく、けれど誇らしげに笑った。 ――第14話 完。
『聖者のスープと、冬萌(ふゆもえ)の街 ――孤独なコップをひっくり返して――』 春秋花壇 @mai5000jp
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