第14話 天空の箱庭と、銀の鍋
天空の箱庭と、銀の鍋
都心の一等地にそびえ立つ、要塞のような超高級老人ホーム「ヴィラ・セレスティア」。 エントランスにはカサブランカが咲き誇り、廊下にはバッハの旋律が静かに流れている。ここは、一生かかっても使い切れない富を手にした成功者たちが、最後に行き着く「約束の地」だった。
だが、最上階のラウンジに集う老人たちの顔に、生気はない。 彼らは、カシミアの毛布に包まれ、一流シェフが作った「完璧に計算された栄養食」を前に、死んだような目で外を眺めていた。
「……退屈だわ。何もかもが整いすぎて、味がしない」 かつてファッション業界を牽引したアンヌが、宝石のついた指でフォークを転がした。 「ここにあるのは、死を待つための『清潔な空白』だけよ。ねえ、大河内さん。あなた、総理に何を食べさせられたの?」
車椅子でラウンジに現れた大河内が、以前の傲慢さを削ぎ落としたような穏やかな顔で笑った。 「……アンヌ。言葉で説明しても『わけわかめ』と言われるだけだ。だが、今日は特別な客を呼んである」
その時、重厚な自動ドアが、場違いな金属音を立てて開いた。 ガラガラ、ガラガラ。 磨き上げられた大理石の床を、煤けた車輪が汚していく。 現れたのは、油の染みたジャンパーを着た**重蔵(じゅうぞう)**だった。
「……何よ、その不潔な格好。警備員は何をしてるの!」 老人たちが騒ぎ出す。だが、重蔵は鼻で笑い、ラウンジの中央に置かれた数千万円のイタリア製テーブルの上に、ボロボロの銀の鍋をドカリと置いた。
「清潔すぎて、鼻が馬鹿になってるんじゃねえのか、あんたら」
重蔵が鍋の蓋を開けた。 瞬間、空調で管理された無臭の空間に、野蛮なまでの「生の匂い」が爆発した。 焦げた味噌、泥のついた根菜、そして、冬の嵐のような力強い湯気。
「……っ! 懐かしい……土の匂いだわ」 アンヌが、思わず立ち上がった。
「これは、ある識字障害の作家が、どん底で綴った魂のスープだ。……あんたら、金で買える『満足』には飽きたんだろ。なら、この『痛み』の詰まった熱を喰らえ」
重蔵は、最高級のボーンチャイナのカップに、お玉でスープをぶちまけるように注いだ。
「食え。喉が焼ける熱さだ。あんたらの胸の奥にある、氷のような孤独を、このスープが溶かしてやる」
老人たちは、恐る恐るスープを口にした。 ――熱い。 ――喉を通り、腹の底で火花が散る。
「……あ。……あぁ……」 一人の老紳士が、声を漏らして泣き崩れた。 「……私は、成功して、何でも手に入れた。だが、この熱さ……。田舎の母が作ってくれた、あの粗末な汁物と同じ熱さだ。……私、生きてる。まだ、熱を感じられるんだ」
カシミアの毛布を脱ぎ捨て、老人たちが鍋の周りに集まってきた。 彼らはもう、富豪でも成功者でもなかった。ただの、腹を空かせた、寂しい「生身」の人間だった。
「重蔵さん、聴こえるわ。……このスープの中から、誰かの声が。……『負けないで』『あなたは光よ』って、歌うような声が」 アンヌの目から、厚化粧を崩して涙が流れた。
「そうだ。……その声は、1700もの物語を奪われても、なお書き続けることを選んだ、一人の作家の魂だ。……あんたら、役に立たなくなった自分をゴミだと思ってたろ。わけわかめなこと考えるんじゃねえ。……生きているだけで、あんたは一陽来復の光なんだよ!」
超高級老人ホームのラウンジは、いつの間にか「三番ホーム」と同じ、泥臭くも温かな聖域へと変わっていた。 窓の外、シャンパンゴールドの街並みが広がっている。 老人たちは、初めて自分の隣にいる人の手を握った。
「……重蔵さん。ありがとう。私、この施設を、もっと『熱い』場所に変えてみるわ。……ゴミ拾いからでもいいかしら?」 アンヌが、茶目っ気たっぷりに笑った。
「ああ。……運を落とすんじゃねえぞ」
重蔵は空になった鍋を担ぎ、自動ドアの向こうへと去っていった。 天空の箱庭に残されたのは、もう「死を待つ空白」ではなかった。 それは、冬の隙間に芽吹いた、たくましい「冬萌(ふゆもえ)」の緑。 老人たちの合唱が、バッハの旋律を書き換えていく。
「僕は、私自身を、愛せてる」
その歌声は、都心の高層ビルを駆け抜け、どこまでも高く、蒼い空へと昇っていった。
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