第10話:乃東生(なつかれくさしょうず)の朝
十二月二十二日。一年で最も長い夜が明け、冬至の翌朝がやってきた。
団地の給水塔が、白んでいく空を背に凛と立っている。空気はまだ肌を刺すように冷たいが、どこか昨日までとは違う、瑞々しい気配が混じっていた。
広場の中央には、火を消したばかりの焚き火の跡があった。 重蔵(じゅうぞう)は、使い古した銀の鍋を丁寧に布で拭い、荷台に固定していた。爪の奥の黒い油は相変わらずだが、その横顔には、ひとつの仕事を終えた職人のような、静かな充足感が漂っていた。
「……行くのか、重蔵さん」
背後から声をかけたのは、第一話で死を待っていた老人、源三(げんぞう)だった。その後ろには、少年のタクト、元教師の志乃、そしてミオや武夫、かつて広場で涙を流した若者たちが顔を揃えていた。
重蔵は振り向きもせず、太い指で荷台のロープを締め直した。 「ああ。鍋が空っぽになったら、次の火を探しに行く。それが俺の性分だ」
「……待ってよ! まだ、教わりたいことがたくさんあるんだ」 タクトが駆け寄る。その瞳は、三番ホームで震えていた頃の濁りなど微塵もなく、冬の朝陽を反射してキラキラと輝いていた。
「教えることなんて何もねえよ。……『わけわかめ』なルールに縛られず、腹を温めて、生身のまま歩け。それだけだ」
重蔵は、ようやくゆっくりと彼らの方を向いた。 朝陽が重蔵の背中から差し込み、そのシルエットをシャンパンゴールドに縁取っている。
「……志乃さん、その靴、まだ真っ白だな。武夫、今日の『運』はもう拾ったか? ミオ、お前はもう、鏡の中の自分に『愛してる』って言えたか?」
一人ひとりに投げかけられる言葉は、ぶっきらぼうで、けれど最高に温かい。 志乃は新しい白い靴で一歩踏み出し、微笑んだ。 「ええ。もう泥を恐れたりしません。汚れたら、また洗えばいいんですもの」
「重蔵さん」 ミオが、自分の胸に手を当てて言った。 「私、やっと分かった気がするの。誰かの私にならなくても、私は私のままで、十分に光ってるんだって。……私、私自身を、愛せてる」
その言葉が、凍てついた広場に波紋のように広がっていった。 「俺もだ」「僕も」 小さな、けれど確かな声が重なり合い、やがてそれは一つの合唱(コーラス)のようになって、街の静寂を溶かしていく。
「僕は、私自身を、愛せてる」 「愛せてる」
重蔵は、フンと鼻を鳴らした。 「……ケッ、湿っぽいのは柄じゃねえ。……おい、見ろ」
重蔵が指差した足元。コンクリートの割れ目から、小さな、本当に小さな緑の芽が顔を出していた。 「乃東生(なつかれくさしょうず)だ。冬至の頃に、世界で一番早く芽吹く草だよ。……冬の中に、もう萌(きざ)しは始まってる。あんたらの心も、同じだ」
重蔵は荷台の取っ手を握り、ゆっくりと歩き出した。 ガラガラ、ガラガラ。 聞き慣れたあの鉄の音が、今度は別れの合図ではなく、新しい始まりのファンファーレのように響く。
「……重蔵さん! ありがとう! スープの作り方、僕たちが引き継ぐからね!」 タクトの声が、冬の空に高く響いた。
重蔵は一度だけ、大きく手を振った。 銀色の鍋が朝焼けを反射して、まるで街を去る彗星のように光り、角を曲がって見えなくなった。
重蔵はいなくなった。けれど、広場には「熱」が残っていた。 武夫は慣れた手つきで、吹き溜まりのゴミを「運」として拾い始めた。 源三は、かつてのクレーン操作のような確かな手つきで、大きな鍋に火を熾し始めた。 人々は、もう誰かに救われるのを待つ「対象外」の存在ではなかった。自分自身を愛し、隣人のためにスープを作り、声を掛け合う。
孤独なコップをひっくり返し、空っぽになった場所に注がれたのは、明日を生きるための勇気だった。
錆びついた鉄の街は、今、静かに「冬萌の街」へと姿を変えていく。 空はどこまでも高く、蒼い。 「……さあ、みんな。腹を温めようか」
源三の声に、人々が笑顔で集まってくる。 そこにはもう、凍えるような孤独はどこにもなかった。 ――『聖者のスープと、冬萌の街』全十話 完。
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