第9話:承認欲求の葬列
街には、目に見えない灰色の雪が降り積もっているようだった。
団地の広場に集まった人々は、皆、一様に俯いていた。そこには、第4話で靴を洗った元教師の志乃も、第6話で「自分だけの愛」を求めていたミオも、そして「対象外」の烙印を押された武夫もいた。 彼らの背中を丸めさせているのは、冬の寒さだけではない。それは、社会が、そして自分自身が課した「役に立たなければ生きる価値がない」という、重たく冷たい呪縛だった。
「……私は、何のためにここに居るんだろう」 志乃が、白く洗われた靴を見つめて呟いた。 「教育もできない、誰の役にも立てない。ただ、税金を食い潰して、数字を減らしているだけの存在。……鏡を見るのが、まだ怖いんです」
その言葉に、周囲の人々が深く頷く。 「俺もだ」と武夫が掠れた声で続く。 「制度からも弾かれ、生産性もない。生きてるだけで申し訳ねえ。そんな気持ちが、このコップの中に溜まり続けて、もう溢れそうなんだ」
そこへ、あの大地を揺らすような車輪の音が響いた。 重蔵(じゅうぞう)が、いつもの銀の鍋を引いて現れた。だが今日の彼は、鍋の他に、空っぽの古い木箱を山ほど抱えていた。
「……おい。葬式みたいなツラして、何を並べてやがる」
重蔵の声は、湿った空気を一喝するように響いた。
「重蔵さん……。私たち、もう疲れちゃったんです。何者かにならなきゃいけない、誰かに認められなきゃいけない。そう思えば思うほど、自分が泥みたいに思えて」
ミオが涙を堪えて訴えると、重蔵は広場の中央にどっかと腰を下ろした。
「わけわかめなこと言ってんじゃねえ。……『承認欲求』だあ? 誰かに『いいね』と言われなきゃ、自分の価値が分からねえのか。……よし、今日は葬式だ。あんたらが抱えてる、その腐ったプライドと呪いの葬式を挙げてやる」
重蔵は、空っぽの木箱を一人一人の前に置いた。 「いいか。あんたらの心は、今、泥水で満たされたコップだ。『役に立ちたい』『褒められたい』『嫌われたくない』。そんな濁った水でパンパンだ。……それを、今ここで、全部ひっくり返せ」
「ひっくり返す……?」
「そうだ。空っぽになるんだよ。何者でもない、ただの『生身』に戻るんだ。……ほら、やれ!」
重蔵の烈火のような声に押され、人々は戸惑いながらも、自分の前に置かれた木箱に向かって、架空のコップをひっくり返す動作をした。
――バシャッ、と。
そんな音が聞こえた気がした。 志乃が、武夫が、ミオが、そして集まった街の人々が、一斉に「自分を縛っていた何か」を地面に投げ捨てた。
「……重蔵さん、空っぽになったら、私はどうなっちゃうの? 何も残らないわ」
志乃が不安げに問うと、重蔵は優しく、けれど力強く笑った。
「空っぽになった場所にこそ、本物の熱が入るんだよ。……いいか、よく聴け。あんたが教壇に立っていようが、無職でいようが、病で寝ていようが、そんなことは『ガワ』に過ぎねえ。……生きているだけで、お前さんは光なんだ。頸動脈からアイラブユーが噴き出るくらい、その生身そのものが大正解なんだよ」
重蔵は鍋の蓋を大きく開けた。 立ち上る、シャンパンゴールドの湯気。 今日のスープには、何の飾りもない。ただ、この街で採れた力強い野菜と、重蔵の魂が溶け込んだ、混じり気のない「熱」だけがあった。
「食え。空っぽになった器に、この熱を注ぎ込め。……誰かのためじゃない、お前さん自身が『旨い』と感じるためにだ」
人々は、競うようにスープを啜った。 ――熱い。 ――喉が焼ける。 ――けれど、愛おしい。
一口ごとに、空っぽになった心の奥底に、新しい「自分自身への肯定」が満ちていく。 もう、誰かの相槌も、世間の数字も必要なかった。 「……ああ。……私、私でいてもいいんだ。何にもなれなくても、このスープが温かいと感じるだけで、私は光なんだ」
ミオが顔を上げ、初めて満面の笑みを見せた。 「そうだ。……承認欲求なんて、ゴミと一緒に燃やしちまえ。……俺たちは、僕自身を愛するために、このニッポンに生まれてきたんだ」
重蔵の言葉が、冬の夜空に溶けていく。 広場には、もう卑屈な空気はなかった。 あるのは、空っぽになったからこそ、どんな光でも受け入れられる、澄み渡った人々の瞳だった。
「さあ、葬式はおしまいだ。……明日は、新しい自分のお通夜じゃなく、誕生日にしようぜ」
重蔵は空になった鍋を叩き、豪快に笑った。 孤独なコップをひっくり返した人々は、もう、空っぽになることを恐れてはいなかった。 そこには、一陽来復の光が、静かに、けれど確実に注ぎ始めていたのだから。
――第9話 完。
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