第8話:蒼の聖域と冬の大三角
夜の団地広場は、荒れ狂う暴力の匂いに満ちていた。 金属バットがフェンスを叩く「ガキン!」という乾いた音が、静寂を引き裂く。スプレーの噴射音が、コンクリートの壁をどす黒い怒りで汚していく。 「ぶっ壊してやるよ、こんなクソみたいな街!」 叫んだのは、十九歳のカイだった。金髪は逆立ち、瞳には行き場のない飢えが宿っている。彼らの背後には、同じように社会の「対象外」として弾き出された数人の若者たちが、鋭利な孤独を振り回していた。
そこへ、いつものガラガラという車輪の音が聞こえてきた。 重蔵(じゅうぞう)だ。彼は騒ぎに怯えることもなく、銀の鍋を引いて若者たちの前に立ちはだかった。
「おい、威勢がいいな。だが、そのバットの振り方は『俺を見てくれ』って泣き言にしか聞こえねえぞ」
「あぁ!? 何だジジイ、説教か? ぶち殺されたいのかよ!」 カイがバットを重蔵の鼻先に突きつける。重蔵は鼻で笑い、おもむろに持っていた古い配電盤のレバーを操作した。
――バツン、と。
広場を照らしていた無機質な水銀灯がすべて消えた。 一瞬の静寂。街は、深い蒼(あお)の闇に飲み込まれた。
「何しやがる、真っ暗じゃねえか!」
「騒ぐな。……本当の光を見せてやる」
重蔵が足元にある古い投光器のスイッチを入れる。現れたのは、淡い、幻想的な「蒼い光」だった。雪の色に似たその蒼は、殺気立っていた若者たちの顔を静かに、そして冷静に照らし出した。
「見ろ、上を」
若者たちが、毒気を抜かれたように夜空を見上げた。 そこには、凛とした冬の夜気の中、ダイヤモンドをぶちまけたような星空が広がっていた。街の余計な灯りが消えたことで、宇宙の深淵が剥き出しになっていた。
「あれがシリウスだ。一番明るく光ってる。あっちがプロキオン、上がベテルギウス。繋いでみろ。……あれが『冬の大三角』だ」
重蔵の声は、冷たい空気に溶け込み、不思議な重みを持って彼らの胸に落ちた。
「……綺麗だな。……いや、そんなこと言ってる場合じゃねえんだよ」 カイが吐き捨てる。けれど、バットを握る手から力が抜けていた。 「おじさん、知ってるか? 俺、中学の時からずっと誰からも必要とされてねえんだ。親からも、先生からも、国からも。俺は俺が大嫌いなんだよ! 壊すしかねえんだよ、全部!」
カイの叫びが、蒼い闇に吸い込まれていく。 重蔵は黙って、銀の鍋から湯気の立つスープを注ぎ、カイに突き出した。
「必要とされてねえ? わけわかめなこと言ってんじゃねえよ。……この星を見てみろ。こいつらは何億年も前から、誰かに必要とされるために光ってるわけじゃねえ。ただ、燃えてる。自分の命を使い切って、そこに居るだけだ」
カイはおずおずと、熱いスープを受け取った。 立ち上る湯気が、冷え切った鼻腔をくすぐる。一口啜ると、南瓜の甘みと熱が、氷のようなカイの「心のコップ」を粉々に砕いた。
「……熱っ。……なんだよ、これ」
「あんたも、あの星と同じだ。誰かに認められるために生きてるんじゃねえ。……自分が自分であるために、その生身のまま、ここに立ってりゃいいんだよ」
カイの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。 一度も、人前で泣いたことなんてなかった。強がって、壊して、自分を呪うことでしか立てなかった。 「……俺、本当は、誰かに『お疲れ様』って言って欲しかったんだ……。自分を愛して、いいのかな……」
他の若者たちも、地面にへたり込み、蒼い光の中でむせび泣いていた。 重蔵は戦わなかった。ただ、彼らの上に広がる巨大な宇宙を見せ、一杯の熱を与えただけだ。
「ああ。……自分を愛せねえなら、まずはこのスープを愛せ。……愛せるもんが増えてきゃ、そのうち、自分の顔を鏡で見れるようになる」
冬の大三角が、若者たちの震える肩を、蒼い聖域のように静かに見守っていた。 ――第8話 完。
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