第7話:高反発の慈悲
第7話:高反発の慈悲
団地の最上階、北向きの湿った部屋。そこには「生きる」というよりは「維持される」だけの時間が、淀んだ空気の中に漂っていた。 八十歳のキクは、万年床の中で、じっと天井の染みを見つめていた。 脊椎を悪くし、寝たきりになって数ヶ月。腰から背中にかけて、焼けるような、あるいは何かが深く潜り込んでくるような鈍い痛みが、片時も彼女を離さない。
「……あいたたた。……どうしよう、この痛みを。どうしよう、あばらの奥を」
キクは、米津玄師の「IRIS OUT」の激しいリズムが脳内で鳴り響くのを感じていた。 痛みは乱心となり、気づけば意識が蕩尽(とうじん)していく。頸動脈から「助けて」が噴き出そうになっても、部屋には相槌を打つ者さえいない。瞳孔が開き、苦痛に溺れ死にそうな孤独。 ガタン、と玄関で重い音がした。
「おい、キク。生きてるか。脳みその中で『やめろ馬鹿』とモラリティが喚いてるんじゃねえか」
重蔵(じゅうぞう)だ。 彼は今日、銀の鍋ではなく、大きな、丸められたウレタンの束を背負って現れた。
「……重蔵さん。もう、四つ角のオセロは黒しかないの。どこを向いても、痛くて、真っ暗で……」
「わけわかめなこと言ってんじゃねえ。……ひっくり返っても勝ちようがねえなら、盤面ごと変えちまえばいいんだよ」
重蔵は、キクの痩せ細った体を、羽毛のように軽々と抱き上げた。 爪の奥に染み付いた油の匂い。それが、キクにとってはどんな香水よりも、現実を繋ぎ止める確かな「生」の匂いに感じられた。
「いいか、キク。あんたの背中に空いた穴(褥瘡)は、あんたの弱点じゃねえ。……戦ってきた『年輪』だ。だがな、これ以上痛めつける必要もねえ」
重蔵は、古い煎餅布団をひっぺがすと、持参した高反発のマットレスを敷き詰めた。 「……重蔵さん。これ、高いんでしょう? 私、払えないわ……」
「カツアゲ放題のこの世の中で、金のことなんて気にしてどうする。……これは俺の、自分勝手な『ラブ』だ。いいから、身を預けてみろ」
重蔵はキクを、その真新しいマットレスの上に静かに下ろした。 ――ふわ、と。
キクの体から、余計な力が抜けていった。 マットレスが、彼女の痛む箇所を的確に押し返し、重力を分散させていく。ザラメが溶けるように甘い解放感が、あばらの奥まで染み渡った。
「……ああ……。痛くない。……重蔵さん、痛くないわ。今、このマットレスだけが大正解よ」
「そうだろ。……頸動脈からアイラブユーが噴き出るくらい、安らかに寝てろ。……アイリスアウトだ。苦しい景色は、一度ここで暗転させて終わらせちまえ」
重蔵はキクの枕元に、保温瓶に入れた「ん」のつくスープを置いた。 「……パチモンでもいい、何でもいい。今、あんたが笑える全てが欲しい。……俺の工夫(チート)で、あんたのルールを書き換えてやったからな」
キクの瞳孔が、苦痛ではなく、安堵でゆっくりと閉じていく。 重蔵は、暗い部屋の窓を少しだけ開けた。 そこからは、冬の星座が、矢を刺すように鋭く、けれど優しく光り輝いていた。 高反発の慈悲。 それは、制度が「対象外」と見捨てた場所に、重蔵が自分の手で築き上げた、世界で一番小さな、けれど一番強固な「安全地帯」だった。
――第7話 完。
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