第5話:日陰のインパチェンスたち
第5話:日陰のインパチェンスたち
遮光カーテンの隙間から漏れる一筋の光が、埃の舞う部屋を無情に切り裂いていた。 **真二(しんじ)**は、その光から逃げるようにベッドの隅で膝を抱えていた。かつて自分を照らしていた「万能薬の笑顔」を持つ恋人が、この部屋から去ってから、どれほどの月日が流れただろうか。
「……また、ひとりごとだ」
真二は、Omoinotakeの「ひとりごと」をなぞるように、誰に届くあてもない言葉を吐き出した。 どんな言葉も、相槌を打ってくれる「あなた」がいなければ、ただの空虚な振動でしかない。夜行性の泣き虫な自分を飼い慣らせず、癒えきることのない思い出をかさぶたにして、ただ呼吸だけを続けている。
その時、ドアの向こうから、重厚な金属音が響いた。 ガタン、と何かが置かれる音。そして、野太い声が壁を透過してきた。
「おい、いつまでその『かさぶた』をいじってやがる。血が出る前に、スープでも飲め」
重蔵(じゅうぞう)だ。 彼は、真二が頑なに開けようとしない玄関の前に、銀色の鍋を携えて座り込んでいた。
「……帰ってください。僕は今、誰とも話したくないんだ。ふたりごとの世界には、もう戻れないから」
「ふたりごとじゃなきゃ、言葉に価値はねえのか? わけわかめなこと言ってんじゃねえよ」
重蔵は、ドア越しに独り言のように続けた。 「いいか。お前が今言った『ひとりごと』を、俺がここで聴いてる。相槌は打たねえが、このスープの湯気が代わりに頷いてやるよ。……ほら、ドアの隙間を見てみろ」
真二が視線を落とすと、郵便受けの隙間から、温かな、白い湯気がゆらゆらと流れ込んできた。それは、南瓜と味噌の、どこまでも優しい匂いだった。
「……いい匂いだ。……彼女が好きだった花と同じ、優しい匂いがする」
「影は、悪じゃねえんだよ、真二。インパチェンスって花を知ってるか? 日陰でしか咲けねえ、寂しがり屋の花だ。だがな、日陰にいるからこそ、見える星があるだろ。……お前が今、その暗闇で探してる答えは、無理に外に出たって見つからねえよ」
重蔵は、ドアの下のわずかな隙間に、薄く平たい容器に注いだスープを滑り込ませた。 真二は、吸い寄せられるようにそれを手にとった。
――温かい。
それは、失った「あなた」の体温に似ていた。 一口啜ると、喉の奥に溜まっていた「さよなら」の塊が、ゆっくりと溶け出していく。
「お前は、あの日言えなかった『おかえり』をずっと飼ってるんだな。……いいじゃねえか。その言葉がいつか届く日まで、この日陰で、じっくり自分を温め直せ」
真二は、スープの温もりに顔を埋めた。 初めて、自分が自分として呼吸をしている感覚が戻ってきた。誰かの相槌がなくても、このスープの熱さが、自分の存在を肯定してくれている。
「……重蔵さん。僕、まだ『さよなら』は言わずに待ってみるよ。……苦しくても、いつか自分に『おかえり』って言えるまで」
「ああ。……夜行性の泣き虫も、たまには腹が減るだろ。……明日も、ここに置いてってやるからな」
重蔵の足音が、遠ざかっていく。 真二は、少しだけ遮光カーテンを開けた。 そこには、今まで眩しすぎて直視できなかった冬の月が、静かに、優しく、真二の「影」を照らしていた。
独り言が、いつか「ふたりごと」になる日まで。 真二は、思い出をかさぶたにするのではなく、明日を生きるための年輪にしようと、初めて心に決めた。
――第5話 完。
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