第4話:泥の付いたライラック
第4話:泥の付いたライラック
空気がキンと凍てついた、冬の午後。 団地の片隅にある古びたベンチで、**志乃(しの)**は自分の手を見つめていた。 かつて教壇に立ち、子供たちに「正直に生きなさい」と説いていたその手は、今では震えを止めることすらできない。過去のたった一度の失敗、守れなかった生徒への後悔。それが泥のように彼女にこびりつき、自分を「汚れた、出来損ないの大人」だと思い込ませていた。
「……摩訶不思議ね。偽っている人ほど愛されて、正直に苦しむ私は、こんな場所で独り」
志乃は、Mrs. GREEN APPLEの「クスシキ」の旋律を口ずさむように呟いた。 自分軸の世界で、一周半廻った愛を探しているけれど、どこにも自分に効く薬は見当たらない。
ガタゴト、ガタゴト。 静寂を破るように、あの「鉄の音」が近づいてきた。 銀色の鍋を引いた男、**重蔵(じゅうぞう)**だ。彼は志乃の横で足を止めると、彼女の足元にある、泥だらけの古いスニーカーをじっと見つめた。
「……おい。そんな泥を履いたままじゃ、どこへも行けねえぞ」
重蔵の声は、低く、慈悲深く響いた。
「……いいんです。私はもう、どこへも行く資格なんてないから。この泥は、私の罪と同じなんです。洗っても、きっと落ちない」
「罪だあ? わけわかめなこと言ってんじゃねえよ。泥は、ただの土と水の混ざりもんだ。……よし、靴を洗おう」
重蔵は、荷台からバケツと、使い古されたブラシ、そして小さな石鹸を取り出した。 彼は迷わず膝をつき、志乃の靴を預かると、バケツの冷たい水に浸した。
「……あ、重蔵さん! 私がやります、そんな汚いもの」
「黙って見てな。……『あなたが居る』。それだけで、今日も生きる傷みを思い知らされる。……あんたが抱えてるその傷みは、この泥と同じだ。溜め込みすぎて、固まっちまっただけだ」
シャカシャカ、シャカシャカ。 重蔵が力強くブラシを動かす。レモンの香りがする洗剤の泡が、真っ黒な泥を包み込み、浮き上がらせていく。
「愛してると、ごめんねの差。まるで月と太陽だな。……あんたは、自分を許せないから『ごめんね』ばかり言ってる。だがな、たまには自分に『愛してる』って言ってやってもバチは当たらねえぞ」
重蔵は、バケツの水を勢いよくぶっかけた。 濁った水が地面に流れ出し、その下から、真っ白な布地が顔を出す。
「……あ……」
志乃は息を呑んだ。 重蔵は仕上げに、乾いた布で靴を磨き上げた。 ――キュッ。
小気味よい音が、冬の静かな公園に響いた。
「ほら、見てみな。……あんた、まだ綺麗じゃねえか」
差し出された靴は、見違えるほど白く、清々しい輝きを放っていた。 志乃は、その靴を受け取った。指先に伝わる、洗いたての布の感触と、レモンの清涼な香り。
「……私、まだ、綺麗になれるんでしょうか。……こんな私でも、素直に笑って歩ける日が、来るんでしょうか」
「当たり前だ。……病になった自分の歌を、口ずさんで歩けばいい。ひとりの夜も、ひとりの道もな。……この靴なら、どこまでだって行ける」
重蔵は、空になったバケツを荷台に載せると、再び歩き出した。 志乃は、その白い靴に足を入れた。 足元が軽い。心の中の泥が、さっきの泡と一緒に洗い流されたような気がした。 「……クスシキ時間の流れで、私も、大切を見つけたい。……ありがとうございます、重蔵さん」
志乃の声は、もう震えていなかった。 彼女はベンチから立ち上がり、一歩、踏み出した。 泥だらけだったはずのライラックの蕾が、冬の光の中で、ひっそりと芽吹く準備を始めていた。
――第4話 完。
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