第3話:わけわかめの配給列

どんよりとした冬の雲が、団地の広場を低く押し潰していた。


 広場には、所在なげな人々の列ができていた。行政が委託したらしい支援団体のワゴン車が、一箱のレトルト食品や古びた毛布を配っている。だが、その列の端で、怒号が上がった。


「なんで俺はダメなんだよ! 住所がないからって、腹が減らないわけじゃねえだろ!」


 叫んだのは、五十代半ばの男、**武夫(たけお)**だった。薄いジャンパーの下で、痩せ細った体が小刻みに震えている。  係員の女性は、困ったように眉を下げたまま、マニュアルを読み上げた。 「……申し訳ありません。こちらの支援は、区内に居住実態がある方を優先させていただく規定でして。今の条件では、対象外なんです」


「対象外? わけわかめだよ、そんな理屈!」


 武夫は地面を蹴りつけた。周囲の目線は冷ややかだ。憐れみと、少しの蔑み。その視線が、武夫の「心のコップ」を、黒い泥のような絶望で満たしていく。


 その時だ。


 列の向こう側から、ガラガラ、ガラガラと、重々しい車輪の音が近づいてきた。  **重蔵(じゅうぞう)**だ。  彼は銀色の巨大な鍋を引いたまま、言い争う二人の横を通り過ぎ、広場の隅にある「ゴミ溜め」の前で足を止めた。


「おい、あんた。……何を見てるんだ」  武夫が苛立ちをぶつける。重蔵は答えず、無言で膝をついた。


 重蔵は、ぬかるんだ土の上に落ちていた、半分潰れた錆びたアルミ缶を拾い上げた。それから、雨に濡れて泥だらけになった段ボールを、分厚い手で丁寧に畳み始めた。


「……何やってんだよ。そんなゴミ、拾ったって一円にもならねえぞ」


 重蔵は、拾い上げた缶の泥を指で拭い、腰に下げた袋へ入れた。 「ゴミじゃねえ。……これは、誰かが落とした『運』だ」


「運だあ? わけわかめなこと言ってんじゃねえよ。ゴミはゴミだろ」


 重蔵は、ゆっくりと立ち上がり、武夫を真正面から見据えた。爪の奥の黒い油が、冬の鈍い光を反射(リフレクション)している。


「あんた、さっき『対象外』だって言われて、自分までゴミになったような顔をしてたな。……いいか、この缶を見てみろ。泥を被って、踏まれて、捨てられてる。だがな、中身はまだアルミだ。磨けば光る。価値があるかないかを決めるのは、あそこのワゴン車の役人じゃねえ。……拾い上げる『手』の方だよ」


 重蔵は、そう言って鍋の蓋を少しだけずらした。    ――ふわり。


 冷えたコンクリートの匂いを一掃する、濃厚な出汁と、焦げた醤油の匂い。  それは、腹の奥を直接掴んで揺さぶるような、圧倒的な「生の匂い」だった。


「食うか。……『運』の入ったスープだ」


 重蔵は武夫に、なみなみと注がれた木椀を差し出した。  武夫は、震える手でそれを受け取った。スープの熱さが、感覚の麻痺した指先に「痛み」として届く。


「……熱っ。……なんだこれ、めちゃくちゃ旨い……」  南瓜の甘み、根菜の歯ごたえ。飲み下すたびに、武夫の「心のコップ」の底に溜まっていた泥が、熱い奔流に流されていく。


「……おじさん。俺、もうずっと、誰かに『お前はいらない』って言われてる気がしてたんだ。制度からも、社会からも。……でも、このスープは、俺を拒絶してない」


「当たり前だ。飯は人を拒まねえ。……武夫と言ったな。あんたがこのスープを旨いと言って食った。その瞬間に、あんたの中の『運』が動き出したんだ」


 重蔵は、再び地面に這いつくばり、風に飛ばされたビニール袋を拾い上げた。 「見てろ。……俺がこのゴミを拾えば、ここは少しだけ『聖域』に近づく。……あんたも、拾ってみるか? 誰かに『もらう』側じゃなく、この場所を『作る』側に回るんだよ」


 武夫は、喉の奥まで温まった体で、ゆっくりと腰を屈めた。  自分の足元に落ちていた、吸い殻を拾い上げる。   「……ああ。……拾うよ。俺も、『運』を拾う」


 その背中を見て、列に並んでいた他の人々も、一人、また一人と腰を浮かした。  支援を待つだけの暗い行列が、いつの間にか、自らの場所を磨き上げる活気へと変わっていく。   「わけわかめ」な理屈で切り捨てられた人々が、重蔵という一人の男の背中に当てられて、自分自身の「誇り」という名の火を、灯し直していた。


 重蔵は、満足げに鼻を鳴らすと、銀の鍋を再び引き始めた。 「……あばよ。運を落とすんじゃねえぞ」


 冬の夕暮れ。  広場には、もう卑屈な空気はなかった。  あるのは、泥だらけの手を洗い、明日を迎えようとする、生身の人間の熱い息吹だけだった。


――第3話 完。


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