scene32プラトニック
陽に照らされている氷山の頂きは、なぜ尖っているのか。
幼いころ絵本でみた氷山の絵をなぜか今思い出している。ゆるゆると陽光に溶け出す氷、流れ滴る間に凍る筋、その艶やかな筋と白濁した山肌との境目、を何度も想像した。美しい鋭角、だがその先は実は麗しくぬるぬると濡れ溶け出したばかりの露で滑らかだ。そして、それら露はみだらに流れゆき、やがて行き先を失ってしまう。その行く先を舌先で辿ってみたい、舐めてみたい、そんな想像に耽ってはゴクリとのどを鳴らしたりした。そんな体験を俺は、今なぜかこのタイミングで思い起こしている。完全なバグ、どこにもあるはずのない空間の突起を掴もうとするみたいに、記憶や無意味な思考をただただ右往左往させている。
「アツミ、知らなかったの?」
今度はしっかりとした質問を受信した。
その答えはこうだ、
「知らなかった」
肉体関係のことは知っているし、一度きりではないだろうと思っている。あの二人だ、しかもリョウタは誘った方だしな、アレをナニすることを練習だとか表現する野郎だしな。だけどなんだろうね、恋人だという表現をココナが使ったことが、厭な違和感なんだよ。そう、そこだ、なぜそう断定できる?
ああ、そうだった、こういうときは訊けばいいんだったな。と、訊ねようとした刹那、
「カヲルが心配していたの」
とまた新たなバグを引き起こしそうな情報に、慌てた俺はこう言った。
「ちょっと待ってて」
と。
仁科くんまでがあの二人の関係を知っている?
と、ここで仁科くんの名前が出てくるのだから、もう不安しかない未来を選択したも同じだ、というどんよりとした思考の中で、
『で、君はリョウタに決めてしまったの?』
そんなことを仁科くんから言われたことを思い出した。
あれ、どうなってんだこれ。
それからここで、
『隠しておきたかったのだろうけど、悪いけど……オーナーもカヲルも気づいてる』
そう、そうだ、タクミさんもそう言ったっけ、と思い出す。
そう、そうだったよね、兎にも角にも俺がリョウタのことが好きだということ、雄が好きだということを知っている事実を仁科くんが持っているのはとうに明白だ。で、仁科くんはタクミさんからリョウタのことを聞いた、そんで『あれ? オリョウのことはあっくんが狙ってたみたいだけど大丈夫?』的なことなのかな、これ。
それにしても恋人……って。
ああそうさ、ここをはっきりと訊けばいいのに俺はビビッてるんだ。
まさか、そんなちゃんとした括りがあの二人にあるなんて。
ああ、だがアツミ、きっとないさ!
そう、ないよ、誤解だ、だから訊こう、ちゃんと!
なのに、
「一緒に暮らしてるんだって。だから驚いたの、アツミの部屋にいたから」
再度俺は不安の渦に呑み込まれた。
続いてココナは説明してくれたよ。
ココナは、初めてうちへ来たときまではリョウタと俺が同棲していたと思っていたらしい。リョウタがそう言ったからそう思っていた、そして俺らのことはなんとなく俺のことをみて勘づいてはいたが、俺が否定したので微妙なラインなのかと判断した。
そして仁科くんからタクミさんに新しい恋人ができて、それがリョウタであり同棲を始めたと聞いた。恋人を共有することは珍しくない、とも聞いてきっと俺も知っているのだろうと思った。だが、どうして俺はタクミさんとリョウタの関係を許しているのかと疑問を抱いた。
そしてそれは、もうリョウタへの気持ちを終わらせようとしているからではないか、と考えたりした。だが、俺の部屋へ来たらリョウタがいた。あの時のムードできっとなにかあった、そしてそれは肉体的なことだと感じた。
だけど、リョウタとタクミさんのような関係、つまりは同意の上の関係ではないと受け取った、なぜなら、自分のことを部屋へ招き入れてくれたし、リョウタは出て行ってしまったから、と。
「私ね、気づいたんだ。アツミは、リョウタくんとの関係に踏み出せていないんだって。そう、あのときはっきりと気づいたの」
ココナが静かに語りだした。
「アツミはプラトニックなペアでいたいのかなって。それは相手がリョウタくんだからだとか、そんな簡単なことではなくて、アツミらしい特別な感情というか」
いいや、そんなことはないよ、と俺は心中で答えた。
俺はそんな純粋な人間なんかじゃないよ、立派に性欲だってあるし、だってほら、車中ではココナにだって触れようとしたじゃないか、という俺の声は届かないわけで、
「プラトニックな愛情観を抱いている人だから、アツミはずっとね、性的なことと自分の気持ちとを、うまく合わせることに悩んできた人なのかなって感じたの」
というココナの語り、この言葉で、すん、と心の奥まで一気に澄んだ。
無形の光の矢が放たれて、俺の脳内の隅々を浄化したみたいに。
ああ、なんだか泣けてくる。
これは本音、今仁科くんのこととかタクミさんのこととか、リョウタのことまでもが綺麗に消え去った。俺は、俺と向き合い、今、あのときこのときのいろんな俺と向き合っている。誰も、一人も笑っていなかった、泣いてもいない、悔やんで悔やみきれないで狂いそうになって苦痛に歪んだ顔をしている俺ばかり、がいた。
あたりまえに……好きになった人を抱きしめて、キスをして、手を繋いだまま眠るんだ。目覚めて、好きになった人の寝顔を穏やかな気持ちで眺めて笑顔になるんだ。それから、目覚めた人は俺の笑顔を喜ぶ、俺はその笑顔を大切にしたいと思う、そんな朝を迎えたかった。そう、甘いささやきも目覚めのキスもいらない、触れている肌が感じている、見つめ合う瞳が感じる、揺れる瞳が知っている、互いの想いを。
でも邪魔するんだ、本能が、穢してしまうんだよ、俺の欲しいアイを。
それでも、どんなせくすをするのか知ったとき、俺は欲しいアイを見失っても構わないと思ってしまった。辛抱できなかった、抱きしめてほしい、ソソリタツアレ、俺は単純な欲情に何度も挫けたんだよ。勝てやしない、俺が俺を慰めることの何がいけない? って。
答えをくれない世界は背徳へと俺を追い詰めた。
ああ、そうだよこれが自然だと、本能に従えばいいんだと。知ればわかる、味わえばわかる、そうすればそこに答えがある、何者かを知ることができるはずと。
だけど、あんな快楽の中で知ったものなんてなにもないよ。
快楽の中には快感しかなかった。目覚めたときに俺が目にしたのは、疵つけられた俺の身代わりだけだ。
『君には瑞々しいサボテンであれと言いたい』
俺の身代わりはそう言って俺を奮い立たせて、
『君だけは……君のことを見殺しにするなヨ』
と言って見事に俺のことを現実に墜落させた。
まるで呪い、だ。
俺はもう俺の身代わりを消してしまいたかった。
たった独りで戦うことなんかできるわけがない、この世界は弱者をどれだけ見殺しにできるかで生き延びるためのチケットに価値がつく。
俺が俺のことを見殺しにできないのなら、チケットは俺に巻き付いて、俺ごと融けてしまっていた、だろ?
こんな世界で瑞々しく生きることなんて、その為に何度も疵をつけることになるなんて、そんな選択をどうして俺が選ぶと思ったの?
……選んだ俺は笑顔を大切にできたのだろうか。
声のない俺の問いに答えるつもりはないよ、確率は収束する、俺の生きてきた時間内じゃ無理だろうけれど。ああ、無理さ、知ってた、わかってた、みんな知ってる、幸福なんて確率とは全くの無縁だ、ちっぽけな人生というテスト期間中で確率を語るなんて無意味なんだよ、期待値に翻弄されるなんて愚かだ。
『……選んだ俺は笑顔を大切にできたのだろうか』
大切にできたのかできるのかではない、するしかないんだ、そうするしかないんだってみんな知ってるさ。だから一握りなんだ、選択した道が幸運で祝福される道だったと思えるのは。それを運がいいとかって言うんだよねド貧民は。
なんなんだよ、もう。
人生は我慢大会なの?
「アツミ?」
ココナが俺のことを呼んだ、俺はゆっくりと偽の瞬きをしてからもう一つ奥の、真の瞼を開いた。ココナはもしかしたら何度も俺のことを呼んでいたのかもしれない、かなり心配そうな表情だ。
「ごめんね。考えごとばかりで」
言い訳をしてから、
「リョウタとタクミさんが恋人なのかどうかは知らないんだ。同棲のことも。それよりもココナの最後の言葉の方が気になってしまって。俺は自分のことを話したりすることが苦手だから説明はできないけれど、ココナの言う通りかもしれないと思う」
と話した。
そう、泣けたのだから、ココナの言う通りなのだろうと思う。
俺は一筋の涙の痕を軽く指の腹でなぞって消して、笑って見せた。この笑顔に嘘はないつもりだが、ここで笑うのが正しいのかどうかはわからないでいる。ただ苦しんではいないことを、わかりやすく伝えるにはいい手段だと思う。
「アツミは素敵」
そう言ってココナは立ち上がり、俺の側へ座った。
俺はココナの動きを顔ごと追いながら、隣へ座ったココナの方へ肩を開いた。
「守ってあげられたらいいのに、アツミの笑顔を」
ココナは静かにそう言って、優しい呪文をキスに込めてくれた。
俺は静かに偽と真の瞼を閉じてそのキスを受け取った。
そして、生まれて初めて赦された気がした。
こんなに穏やかに静かにゆっくりと唇が触れることを待ったことはない。触れる直前もその瞬間も後も、同じ気持ちでいられるキスは初めてだ。
心地よかった。なにもかもを許し、許してもらえる気がする。
球の中にあって平坦な空間、どこまでも見渡せるような気分、安楽、浮遊感のない現実の中で感じる心地よい感覚。こんな安らかな時間が俺の安っぽい人生にも埋もれていたなんて。
そして、プラトニックを求めるなら、きっとこんなキスをするのだろうと思った。
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