scene30想い人

 なるほど、あの門はあそこにあるべきだったと思わせた。


山一つこの『環 たまき』が所有しているのか?

想像以上に広大な土地を横断してやっと建物を確かめたとき、俺はあの門が所有地の始まりを知らせる重要な起点だったと理解した。そして、この玄関の広さと、空に覆われているかのような建物の低さ、更に、数多の灯篭の灯りが終点に届いていないかのようで建物の奥行きを不鮮明にしている。延延続く回廊を想うと、名もなき星に不時着した異星人さながらに俺は、茫然と立ち尽くすしかなかった。

続いて俺は、ココナへ荷物は自分がと宣言したことが恥ずかくなった。

だってここは旅館であり公然と手厚いサービスを受けられる場所なのだから。到着を静かに見守っていた男女の仲居さんらが、人に付き物に付き働いてくださる。薄明りでもわかる清潔感のある制服、男女の区別なしに鶯色の作務衣を着た数名が静かに従事している。

全くの手ぶらで俺らは、即座に案内に従い歩き出した。神代さんは東京へ戻ると言い、そこであっさりと別れた。

ロビーから数分歩くとすっきりと清々しい床板がびっしりと続く回廊へ出た。それにしてもこれだけの灯篭の数をよく管理できているな、俺はそのことに感心しながら半分は惚けながら歩き続ける。惚けてしまうのは、あまりにも回廊の景色が幻想的で美しいからだ。庭には一切の灯りがなく、そこが土なのか草なのか水なのかがまるで定かではなく、まるで宙に浮いているようだった。また、おびただしい数の灯篭は、回廊の床と柱に丁度それぞれの灯りが途切れる間際で繋がっているように見え、うっすらと繋がる灯りの境目までもが計算されているのか、思い通りに描かれた模様のように馴染んでいる。

そしてあまり寒さを感じないのは、床自体が温かい上に温風が流れているからだ。なんという繊細な気遣いだろう、温風が足元に絡みついて冷えがやわらぐ。ガラスで覆えばこの回廊だって冷暖房が利くだろうに、こんな真冬に自然の風を感じ取りながら移動できるのは心憎い仕掛けだ。ああ、父上と母上をお連れしたい、そんな独り言が心中で零れた。

風、木々と草花の揺れ踊り擦れる音、うすく漏れ漂う楽団の奏、何処かの誰かの話し声がこだまになって揺らぎ、天界の宴へ続く道を想像させる。そう、こんな空間なら誰もが浮かれてしまうだろう、だが決して乱雑で下品にはならない、そんな宴に違いない。善き者たちの集い、やわらかな笑顔から零れ漂う声は弾力のある宝石のように輝きつつ床を転がり、またシャボン玉のように空を泳ぐ……という画を描く俺は、もうすっかり心を穏やかに清く落ち着かせていた。

「お着きになりました。こちらでございます」

心地よく案内されて俺らは部屋に着いた。

そして、俺らは揃って小さく声をあげた。

繊細で優美な組子模様の格子戸を開いて部屋に入ると、いくつかの衝立の他は一切の壁がない部屋、そうだと一瞬でわかる部屋だったからだ。

「奥の左手に洗面所がございます。御用の際は呼び鈴をご利用くださいませ」

そうとだけ言うと仲居さんは早々に行ってしまった。

なるほど呼び鈴はほぼ部屋の中央の卓上にある。洒落た木製の雀の背にボタン、それを確かめ部屋の中の探索を始めるとすでに届いていた荷物に気づく。

「壁がクローゼットなのね、なんて素敵な箪笥」

ココナがそう教えてくれる。

俺は荷物のある場所とは違う部屋の端まで行き、窓の外を確かめた。壁に沿ってここにも回廊があり、どうやら部屋は六角に象られていることがわかった。ここの回廊は一部ガラスで覆われて景色を損なわないまま寒暖を気にせずくつろげるようになっている。行き来する回廊はあれで素晴らしかったが、さすがに部屋ではこうであることがありがたい、と一人思い、どこまでも繊細な気遣いで彩られている宿に悦ぶ。

「すごく素敵なところね」

ココナが俺へ話しかけて、俺は今の今まで無語であったことに気づいた。

「ああ、ほんと、感心して話すのを忘れてたよ」

ほんの少し言い訳をしたら、

「ううん、いいの。私も同じ」

と言うココナ。

だがココナはクローゼットについて既に話しかけてくれていたはずだと思い出し、

「こんなところは初めてで、慣れていなくてごめんね」

と、素直に謝った。

「ううん、ありがと、荷物を整理するね」

ココナがそう言ってくれたお蔭で、

「そうだね、そうしよう」

俺もそう言って次の行動へ移った。

俺らは互いに別々のクローゼットに荷物を整理して中央の座卓に着き、ほどなく、なんとなく落ち着かなくなっている。

寝所は一つ、布団が並んであったからだ。

俺らはそのことを見過ごすわけにはいかないだろう、そうしていい関係ではないのだから。こういうときは男がそのことについて話を切り出すべきだ、それはわかっている、だけどどう言い出せばいい?

などといつもの俺らしく思案し始めると、ココナが切り出してくれた。

「お布団の間に衝立を立てる?」

と。

そして、

「私は……立てたくはないんだけど。怒らせちゃったから、アツミに従うよ」

とあっさりと言う。

俺は、ココナにここまで言わせたことについては男として反省しつつ、ココナが正直でいてくれることに応えて本心を話した。

「俺も衝立は要らないよ。それよりもココナが話したいと言っていたことをゆっくりと聞きたいかな」

と。

一つの部屋で一夜を過ごすのだから居心地を整えたい、男女としてではなく、今の二人にとって大切なことを話しておきたい、これが俺の本心だった。するとココナは一瞬で笑顔になって、そしてまたすぐに少し沈んだ表情になって、一つ深呼吸をして、話し始めた。

「私にはとても大切な人がいるの」

ココナの告白、この言葉を聞いて、俺は自分が抱いた全てのネガティブな感情の原因を完全に把握して、さっぱりと冷静になった。そう、余計で身勝手な優越感をすっぱりと捨て去る準備ができたんだ。

「でも、アツミのことが好きなの」

ああ、そうだろうね、そういう態度だったし告白してくれていたよね。

「大切な人とは、どうしても結ばれないの。でもだからアツミのことを好きになったというのではないの。我儘で傲慢だとわかってる、でもアツミのことが気になって、好きになって、この気持ちは本当だからどうしようもできないでいるの。だから、車の中で」

と言い続けようとしたとき、俺はもうその先まで告白させるのは不要だと思ってココナの会話を遮った。

「話してくれてありがとうココナ。俺たちはよく似ているね」

って。

そうだ、よく似ている。そして、俺は少し同情している。結ばれない、の言葉がとても重くて悲しくて、俺にはその経験があるからこの言葉に共鳴している。

だけど、今の俺には、俺のことを受け入れたがっているリョウタがいる。

これからどうなるかは全く不明だけど、少なくとも俺が結ばれないと断言できるほどの閉ざされた関係ではないのだから、だからおこがましくもココナへ同情に近い感情を抱いたんだと思う。そうだ、似ていると思ったのは少し違う、そのことに気づいて俺は直ちに正そうとした。

「似ているとは言えないかもな。でもココナはどうして結ばれないと知っているの」

そう尋ねて自分との違いをはっきりさせようとした。

「その人は、私じゃない人のことを想っているから。私の気持ちには気づいてくれていて受け入れてくれた、でも応えてはもらえないの」

「え? 受け入れた? どういうことだろ」

俺には理解できなくて最後は独り言のように言った。

「お願いしたのよ、受け入れてほしいって。その代わり、私も結ばれないことを受け入れるって。側にいたいから」


なぁ、これは悲恋か?


だが同情は不要じゃないか、だってココナは微笑んでいる。

俺は久しぶりにココナの本当の笑顔を見た気がした。あの純真で可愛い笑顔を。そうか、ならよかった、と俺は安堵した。と、すぐさま思い出した、あの言葉を。

「あのさ、俺パーキングで聞いちゃったんだ。ココナが」

と言いかけたところで、

「ああ、やっぱり」

とココナ、そして、

「そうだと思ったの、アツミの様子が変わって。ごめんね、厭な気分にさせちゃったね」

と言う。

「そう、今アツミが考えた通りよ、私が電話していた相手は今話した人なの。アツミのことを好きだって言ったのに、あんな会話を聞いたら……とても厭な気分になって当たり前だよね。本当にごめんね」

爽快な謝罪。

心地よく浸透する謝罪の言の葉、こうしてココナの想い人のことを知ったことで、俺の執着と独占欲はスッキリと瞬く間に削除できた。すると調子に乗った俺は更に本音を話す。

「俺はココナに好きだと言われて勝手に優越感でいい気になってたから、いじけてしまってたんだ。俺の方こそごめんね」

と。

「ううん! 私が悪いの。私はアツミを好きになっちゃいけない……のに、そうよ、いけないのに!」

と強く言うココナは泣きそうになっている。

リョウタとのことを知っていたココナ、ココナは俺のことを諦めたとも言っていた。俺のセクシャリティを理解して、それでも好きだという気持ちを持ち続けてくれた。いろんな事実を受け入れながら好きだという想いを一人で抱えていた、それがどれほど辛いかはわかる。

泣くまいと唇を噛み締める、だがついに、その渇いた唇にほろほろと涙の粒が届いて、とうとうココナは小さな両手で顔を覆ってしまった。

俺はその姿を、美しい景色を愛でるときの、時の流れに同調するような浮遊感のただ中で見守っている。俺は男だから、こんな風にいじらしく美しく泣くようなことはなかったけれど、そうだな、こんな姿なら成り代わってみたい……などと思いつつココナの涙に濡れる姿に魅入ってしまう。

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