scene28悦びに堕ちる指先が
ココナへキスしたい、そう思ったけれど、俺はココナの唇から意識を外して『ありがとう』を伝えた。抱き寄せたい、そうも思ったけれどできなかった。
タクミさんが言い当てた俺の経験不足は、こういったところにも影響している。衝動に駆られた性的な欲求に対して無能な雄、ただのポンコツ野郎、だね。
こんな俺だから、リョウタに対して好きという気持ちと同じ雄としての憧れを同様に確からしく抱いているんだと思う。
そして、そしてね、今更かもしれないけど、俺はさ……今更にだよ、今このとき確認できたことがある。
俺とせくすした相手はさぞつまんなかっただろうなって。
俺って行為そのものの快感に負けてばかりだったろうって、ほんと、情けなくて恥ずかしいんだけど、なぜか今実感しているんだ。
ああね、最悪だった相手だと思っていたヨウコさんにでさえ、今は申し訳なさを感じいるよ。俺の経験が足りないからあの人は強引だったんだろうなって、今は理解できてしまったから。
『あああ! 恥ずかしい!』
俺は脳内で海に向かって叫んだ。
「お待たせしました。あと一時間ほどですが、休憩なさいますか」
神代さんが丁寧に尋ねてくれる。
「ココナどうする?」
ココナへ尋ねると、
「うん! 少し休みたいな」
そう言うから、
「神代さん、休憩させてください」
と求めて、俺らはパーキングエリアへ向かった。
大型エリアの割には人が少ない、俺らは先ずトイレへ向かう、その前に俺はココナのドリンクを訊いておいた。きっと俺の方が早い、そう思ったから。俺は用を足して、半円柱に象られた壁から表へ出ようとした、そのときココナらしい声を聞く。誰かと会話をしているみたいだ。
はて、もうすんだのか?
おいアツミ、レディに向かって『すんだ』とはなんだ、ほんと俺ってガキだな、などと反省しつつ、誰かと話しているがきっと電話だろう、と察した。
トイレの入り口は先ず一つ目の大きな壁が前面にあって、その裏に全面よりも小さい半月柱の壁が男性と女性に分けるように二つ並んでいる。丁度男女別れる中央から、その壁は四十五度くらいで開いているんだ。そうだな、カモメを一筆で描くときによくやるあの『V』のような『W』のような形、あんな風に中央で壁が繋がっているから、実質ここは女性側と壁一枚なんだ。そしてここで屋根は途切れる、女性側と野外で繋がる最初の地点になっている。だから声も響き伝わりやすいのかもしれない。
聞き耳を立てるつもりはなかったけれど、俺は見えるはずもない壁の向こうのココナを感じて、瞬時立ち止まった……これがいけなかった。
「うん、愛してる。待っててね、もうすぐだから」
紛う方なき、ココナの声とイントネーションだ。
『愛してる』『待っててね』『もうすぐだから』というワードは、絶対に解けるはずのなにかの暗号かパズルを与えたように、俺を茫然とさせてしまって動けなくしたものの答えは知っている。そして、俺が出ようとした壁の端からココナが通り過ぎるのが見えた、これで確定だ、この台詞はココナのものだって。
ハ、いや、なにこれ。
俺は動揺して動揺して、烈しく動揺しまくって、おかしくなりそうなくらいに動揺している。
特に『愛してる』という言葉、これはただならぬ言語ですぞ。
俺は生まれて一度も発したことがないし浴びたこともない……あ、いや母上だけだ、そう言ってくれたのは。この言葉の重み、真実の意味、立場と相手、どれをとっても俺にはその資格がない。俺はしばらくのいつもの考え込む癖に耽いりそうだったけれど、あまりにもこの言葉との相性の悪さに尻込み中、ただぼうっとしただけだった。そして、頼まれたジュースを買わなきゃという記憶の残像に命令され、やはりぼうっとしたまま歩き出した。
遠くには見覚えのある姿、きょろきょろしている。そして何かに気づいた風に勢いよく走りだしたみたいだ、手になにか持っている。
「アツミ! 探したのよ」
ココナがいきなり目の前に現れた。
いや?
そんなことはない、確か俺のことを呼びながら駆け寄って来たよな、俺はその姿を幻を見るように眺めていたはずだ。
「ごめん。人が多くて」
最近の俺は嘘が多くていけないな。
いいや?
嘘なんかつきたくないけど、単純な返答ができないような事態に遭遇してばかりだから、仕方がなかったんだよ。
嘘はいけない、これは母上の言いつけだ。俺はこれだけは守りたくて、守れると信じて、幼いころから意識してきたんだも。好んで嘘をつくわけがないじゃないか。
「そう? ジュース買いに行こうか。私神代さんの分だけ買っておいたの」
ココナはさらっと笑って嬉しそうに言う。
……ああ、なんだこの違和感。
不透明なざらついたガラス、銀の器に不器用に詰め込まれたビー玉、不規則な三角四角に色分けされたステンドガラス、いい加減な高さにかけられた姿見鏡、手前と背後の鏡が映し出す非現実的な存在のループ、
『アア、キミガワルイ』
俺は浮遊感に悩まされながら作り笑いした顔でココナとジュースを買い、車へ戻った。
顔面に蝋を塗られたみたいだ、作り笑いが解けない。自分でもわかるくらいぎこちない、表情を変えられなくて。
と、神代さんへジュースを手渡しながら談笑するココナの横顔をバレないように隠し見る……これは本当にココナなのか?
すると、ココナが俺の視線に気づいてしまい、俺は慌てて視線を逸らした。
「アツミ? どこか具合でも悪いの?」
ココナは心配そうに聞いてくれた。
そんな優しげな表情は今はキライ。
だって君はさっき、誰かにあの想い言葉を贈っていたじゃないか。俺にキスをして、俺のことを好きだと言った君なのにね。
「ああ、ちょっと」
今度は嘘をつかなかった。
本当だから、これは今の俺の本当の状態だから。あちこち具合がよくないよ、どこもかしこもふわんとぐわんと軽いような重いような妙な重力を感じている。今腕が逆さに折れても、目の玉が裏返っても不思議じゃない気がするほどに俺は、おかしいんだ。
「もう少し休憩なさいますか?」
神代さんも心配している。
「あ、いや、少し眠りますからこのまま向かってください」
俺はそう言って先を促して体をずるりと前へずらし、顔を窓側へ捩じって目を閉じた。
そしてすぐさま上着にフードがあるのを思い出し、それを被ってなおも、窓へ顔を向けた。ココナへも何か一言を声をかけるべきか……と思うが、そんな余裕なんかない、一刻も早く別次元へ移動したくなっていた。
すると、ココナがガサゴソと動き出し、
「アツミ、きて」
そう言い、俺の肩を抱きしめて自分の方へ倒し、ひざまくらをしてくれた。
無駄な抵抗は一切なし、俺は怯え切っている牢人のようにされるがままだ。
ココナは俺のフードを外した。薄いワンピース、二枚重ねでも表はオーガンジー、裏の生地だってそんなに厚くはない、俺の頬にはココナの腿の感触が直に、ほぼ直に伝わっている。もんわりぬるく、仄かに薫るフェロモンに、俺の身体は震えてしまう。
香水ではない、この薫りはココナの香水ではなく、肌と……『アノニオイ』だから。
官能的で淫猥で淫靡なムード、なぜだろう、ココナへの不審がこのムードを盛んに煽っている。
ああ、どうして?
あんなに清いと感じたココナに、なぜこんな淫らなイメージを感じてしまうんだ?
いっそ、欲望の限り奪っていい、好きにしていい、雄の全性能で犯し続けていい、そんな気にさせる穢れたイメージがココナから漏れてくる。
ふと、ココナのあの膝の先を眺めた、ココナが指先でくるくると円を描いたあの膝先が、今目の前にあることに意識が停まった。あのときの俺は、ずっと見ていたくて見惚れてしまって、いつまでもあのシーンを思い浮かべていたときの自分に留まっている。
『ココナは素足だ』
そう知った瞬間――俺は、熱にうなされたように、だから仕方がないんだという風に指先を膝へ伸ばしてしまった。
ヒクリ、と膝が動く。
そして、開く、膝の先が。俺は開いた膝が期待していることに従う。俺の指の幅ぎりぎりの隙間、そこへ指三本揃えて入れ込んだ、指の表裏がココナの両の膝に触れている。
ココナは俺の肩に手を添えて、指先に力を込めその先を誘う。そうだろう、これは、もっと奥へ進めという誘惑、誘われているのだろ?
ココナの素足、表面はひんやりとしているがその奥は熱い、あっという間に触れたところが熱を帯びてじりっと汗ばむみたいだ。俺の指先に反応しているの?
女性のこの部分に触れてこんな興奮を感じるのは初めてだ、得難い経験。
これが雄の雄たる能力の恩恵か、だがこの先は?
このままこの指先をココナが望んでいる先へ送るのが雄の役目だろう、特権でもある。が、俺にとっては?
躊躇う指先、
欠落した性癖、
未熟な本能……焦れ《じ》、
ココナが膝を大きく割って胸を折り、
俺の耳たぶを口に含んで……囁く、
「イイノ」
と。
ココナが膝を割り姿勢を変えたせいで俺の指先は自然に求められた場所へ近づく。こんなこと……ココナがこんな風に俺のことを誘うなんて。
穏やかな欲情の下部に沸き立つ征服欲が芽生えるように、俺は指先に力を籠めた。と、そのとき、
「好きよ、アツミ」
ココナが強欲に成り下がる。
籠めた指先には怒りが漲る。
「ア」
指先を悦んだ雌の下品な声。
俺は、全てを台無しにしてやりたくなって体を起こし、ドアへもたれかかかった。
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